その後の施設は壮絶な状態だった。そもそも敵対していた漣達を治療して保護してきただけでも充分に大変なことなのに、春雨が両腕を失い、しかも『観測者』までもが同行してきたとなったら、もうてんやわんやである。
まずは真っ先に暴走によって消耗している春雨を休ませるために海風が施設内を駆け回り、最高の休息環境を作り上げる。功労者である春雨は誰が何と言おうと身体を休めなくてはならないのだという海風の圧が凄まじく、海風自身もかなり消耗しているにもかかわらず、疲れを感じさせない動き。
その後、救われた3人の艦娘は一応用意されていた適当な服を着せられて別室へ。まだ刺激が強すぎるということで、潮とは絶対に顔を合わせないようにしていた。そもそも潮は、この騒ぎに恐怖を感じているため、飛行場姫から離れることが出来ていない。潜水艦姉妹もそこについているため、潮の心の安全は今のところ保たれている。
そして、侵蝕により心を病んでいる薄雲は、姉である叢雲がひとまず連れて行った。空腹だからテンションが下がるのだという持論を展開しつつ、まずは腹拵えとダイニングに引っ張った模様。そこではリシュリューとコマンダン・テストが準備しているために、すぐに何かを食べることは出来るだろう。
「貴方が手助けをしてくれたのかしらぁ」
「ああ、緊急事態だったものでね。大きな摂理の乱れを確認したため、今回は力を貸したよ」
「ありがとう、助かったわぁ。私達はここから動けないんだもの。助けたくても助けられないから、貴方が来てくれたのは嬉しいわぁ」
中間棲姫は戦場に現れてくれた『観測者』に感謝の意を述べる。道化達も事を終えたので『観測者』に並び立って恭しくお辞儀。
「それで……何があったのかしらぁ。貴方が出張るくらいなんだもの。相当なことが起きたのよねぇ」
「ああ、君には知っておいてもらおう。それと、そこの彼女もね」
そう言われて振り向くと、そこには白露の姿があった。ここに戻ってくるまでの間にある程度は聞いていたようだが、未だに半信半疑なところもある。『観測者』の説明ならば、納得せざるを得ないため、中間棲姫と共にそれを聞きたいと、春雨は海風に任せきってここに来た。
「うちの妹に何があったのか、詳しく知りたい。ブチギレて暴走したとは聞いたけど、それで何で腕が無くなってるの」
「詳しく話そうか。今回の件は、誰にでも知る権利はある」
ダイニングには叢雲達がいるものの、話しやすい場所はそこくらいである。そのため、一旦そこに移動した。夜も更けてくる時間帯ではあるものの、こういうことは早く済ませておくべき。
海風も知っておくべきだとは思うが、春雨の傍から離れることを拒むだろうから、白露が後から伝えておこうと考えた。
ダイニング。空腹を満たすためにいた叢雲と、連れてこられた薄雲。食事の提供者であるリシュリューとコマンダン・テスト、そして春雨関連の話がされるのだという事を聞きつけて大鳳もこの場に参加。
「さて、すぐに本題に入ろうか。春雨の身に何が起きたのか。白露が聞いたのは……いや、あの戦場にいた者達が理解しているのは、仲間達が侵蝕を受けたことで春雨が激昂し、見境なく襲い掛かったということだろう。そして、それをこの道化達が食い止め、さらに海風が正気に戻した。これはいいね」
叢雲と薄雲は現場におり、白露と大鳳は帰路で聞いていたが、残りの者達はそこまでのことが起きていたのは初耳。あの春雨が暴走したのみならず、侵蝕されていたとはいえ元々仲間だった者達を殺すつもりで襲い掛かったということに驚きが隠せない。
「その時何が起きていたか、だが……実際は単純な話だ。春雨は、
艦娘が心を壊して感情を溢れさせた結果、黒い泥が溢れ出て深海棲艦化する。ならば、深海棲艦が心を壊した時、どうなるか。その答えを『観測者』が春雨を例として語っていく。
「春雨の溢れた感情は、知っての通り『怒り』だ。彼女は、普段からも
「……うん、艦娘の時から、怒るってことはしない子だった」
「それが、度重なる仲間達への侵蝕を見せつけられ、トドメは海風への侵蝕だ。それは彼女にとって、心を壊すほどの怒りに繋がった」
つまり、今の春雨は今まで以上に壊れてしまっているということになる。寂しさで壊れ、怒りで壊れたとなれば、今の春雨は情緒不安定と言っても過言では無いのではなかろうか。
実際に怒りのままに漣に拷問じみた尋問をしたわけだが、普段の春雨ならばそんな選択は絶対にしない。それが当たり前のように出来ている事自体が、心が壊れているというところに繋がる。
疲れ果てて眠っている春雨が目を覚ましたら、普段通りに戻っているかもしれないが、何かがきっかけでまたあの春雨が表に出てくるかもしれない。敵を甚振る事を良しとするほどに怒り狂うトリガーが引かれてしまうようなことが。
「これは、君達が黒幕と呼んでいる
ここで聞き捨てならない事を『観測者』が口走った。春雨と黒幕が、同じ現象を引き起こしていると。
艦娘が溢れさせるのとは違い、深海棲艦の身で感情を溢れさせ心が壊れると、さらに泥が溢れ出て様々な現象が起きる。それが、春雨の場合は暴走からの両腕消失、そしてその力の拡張らしい。あそこで止まらなかったら、溢れた感情によって肉体が全て消滅していたようなので、海風は最大級の仕事をしたと言える。
黒幕も同じように、艦娘に敗北したことで感情を溢れさせ心を壊し、泥が溢れ出ると同時に器を捨てて泥そのものとなってしまったとのこと。春雨のように器を壊すことなく抜け出たのは、春雨とはまた何か違う理由があるのだろうが、そこは今は
春雨も一歩間違っていたら黒幕のように泥と化していたかもしれない。肉体が全て消滅した後、残された泥が春雨であり、黒幕と同じように他者を侵蝕する……というカタチになっていたら笑えない。
「えっと、つまり……どゆこと?」
「春雨ちゃんは、怒りの感情を溢れさせちゃったという事よぉ。
白露にとっては、今の話はちんぷんかんぷんだったらしい。しかし、二度溢れたということは理解した様子。
「
『観測者』ですら生かしたまま止められない存在となってしまっていた春雨。それを止めることが出来たのは、海風の愛故と『観測者』は語る。
海風には何かしらの特性は無かった。だが、愛の力、依存により生まれた春雨に対する異常とも言える愛情が奇跡を起こしたのだと。それは少なからず喜ぶべきことであり、逆に追求することでも無い。そういうものであると認識するのがいい。
しかし、ここで『観測者』が少しだけ表情を変える。
「1つ問題なのは、春雨の力の進化だ。こんなことを言いたくは無いのだが、今の春雨は我々にとっても
これがなかなかに深刻な話らしい。実際に戦場にいた者、叢雲が感じた事を語る。
「あの子、容赦が無くなっただけじゃ無かったわよね。なんか、敵を睨み付けたら動けなくなってたみたい。それに、漣に向けて視線を合わせてたら、気を失えなくするとか壊れなくなるとか言ってたわ」
「それだ。春雨の力は、そういうことが出来るようになってしまっている。辿り着く力が、溢れた怒りによって変質してしまったんだ」
元々の『辿り着く力』は、ある意味春雨の溢れた寂しさから生まれた力。周囲に誰もいないことが寂しいとなれば、誰かがいる場所に辿り着くことでその寂しさを払拭する。そもそも、姉の背を追いかけ続けていたことも起因となって生まれた力であるため、その力は『
それが、怒りが溢れたことで変質し、まるで違うというわけでは無いが、大きく変化した部分があるらしい。そしてそれが、『観測者』に言わせてみれば、監視をしなくてはならないほどの強い力。
「変質っていうのは……?」
「その答えを強引に掴み取る。それはもう最善の答えでは無い。
白露にはやはりさっぱりわからなかったが、中間棲姫が冷や汗をかき始めていた。
「それは……貴方が言う『摂理に反する』に引っかかるんじゃないかしらぁ?」
「その通りだ。故に、監視をする。すまないが、そうしなくてはならない」
「姉姫さん、掻い摘んで教えてほしいんだけど……」
中間棲姫だけは今の春雨の危険性を理解したようだが、他の者はまだ理解していない。そのため、簡単な説明を求めた。
「……今の春雨ちゃんは、『
「望む答え……?」
「春雨ちゃんが逃げるなと思えば、絶対に逃げられない。春雨ちゃんが壊れるなと思えば、絶対に壊れない。逆に……壊れろと思えば
ゾクリと悪寒が走った。つまり、今の春雨は視界に入る者全てを、
だから攻撃しようとしたら突然身体が動かなくなるし、砲撃をしようとしても無意識のうちにあらぬ方向に照準がズレる。トリガーが引けなくなるのも、そういうカタチで干渉されていたから。泥に侵蝕されないのすら、春雨がそう望んだからそうなっている。
触れていた海風の体内の泥が蒸発していったのも、その力の延長線上になるだろう。泥を消滅させるという春雨の望みが叶っていたのだ。それに痛みが伴ったのは、強引だったからか。
「実際春雨のその力は、自分の視界の中でしか起きない。これは姉姫、君の持つ力に近しいものでもある」
「私の力っていうと、繭から感情を読み取る」
「そちらではなく、敵対する者が施設に辿り着けなくなる方だ。春雨はそれとほぼ同じことをしている」
堀内鎮守府の明石が辿り着いた、敵対する者を寄せ付けない結界についての見解、泥を薄く拡げて目に見えない程にし、島に近付いたものをこっそり洗脳して航路をさり気なくズラすというシステム。春雨もそれを無意識に使っていると『観測者』は言う。
春雨は暴走している時にマグマを溢れさせていた。それを薄く拡げて目に見えない程にして視界の中にばら撒いている。そして、それを知らぬ間に吸い込んだものは、春雨の思い通りに動くわけだ。範囲が視界の中と狭いように見えて、実際見られた時点で春雨の思い通りとなるのなら相当危険な力。
「しかし、その力を扱える条件は限られているようにも思える。今目を覚ましたところで、その力が使えるかと言われれば、わからないとしか私には言えない。トリガーがあるのかさえ、ね」
「そうなのねぇ……だから監視がしたいと」
「ああ、春雨には申し訳ないが。彼女がその力を悪意を持って使うことは無いことくらい理解している。だが、我々は万が一を考えておかねばならない」
それ故に、一時的に春雨も監視対象に加えると話す。そんな力のことを聞いてしまったら、満場一致で仕方ないとなる。
善意のままにその力を使うのだとしても、それはあまりにルール違反と言えるだろう。摂理に反する。中立からは程遠い。
二度目の溢れによって、とんでもない力を得てしまった春雨。それは今後の戦いを大きく変える力となり得るのだろうか。
辿り着く先が、最善の答えから自分が望む答えに進化した春雨。作中屈指のインチキ能力に目覚めた春雨ですが、条件はいろいろと厳しそうではあります。