春雨が目を覚ましたのは、日が変わろうとしている深夜。夕食を食べずに出て行っていたので、少し覚醒した段階で猛烈な空腹感を覚える。
隣にはやはりと言うか海風。しかし、眠っているもののあまりいい顔をしていない。春雨を抱き枕にするようにしていても、ついさっきの出来事が悪夢のように蘇ってしまっているようだった。
「……海風、大丈夫だからね」
手を伸ばそうとするが、今の春雨には二の腕までしか無い。撫でてあげることが出来なかった。
そしてそのことに対して、小さいものの苛立ちが湧き上がった。今までの自分では考えられないような怒りの感情。海風を撫でられない自分が気に入らない。
ここで自分に何があったのか察しがついた。寂しさが溢れ出して急激に苦しくなった時と同じように、意図せず怒りが湧き上がってくる。寂しさ以上に自分とは無縁の感情だったため、春雨自身驚いてしまったくらいだった。
「私……そういうことなんだ」
叢雲のように常に苛立ちを表に出すようなことはない。そこは寂しさが溢れている分緩和されていた。前代未聞の複数個の溢れによって、一部が相殺しあって落ち着けているところはあるようだった。元来の優しい感情が塗り潰されてしまっているわけではないため、それによってなんとか抑えつけているというのもある。
しかし、溢れていることは間違いない。怒りと寂しさに支配されやすくなってしまっているのは確実。心はさらに壊れているため、春雨自身も自分にどんな変化が起きているかはわからない。
兎にも角にも、今の春雨は海風が撫でられないことがどうしても気に入らなかった。だからといって、艤装で義腕を作り上げて撫でるのも何かが違う。春雨はいいかもしれないが、海風には硬く冷たい感触を与えることになるだろう。そんな自分がさらに嫌になり、怒りが込み上げてくる。
「ん……姉……さん……」
涙目で目を覚ました海風は、自分よりも先に目を覚ましていた春雨を見て目を見開く。
「姉さん、大丈夫ですか。一眠りしたことで何かしらの不調はありませんか。あの時疲れ果てて眠ってしまったわけですから、何処かに痛みがあったり、体調が悪かったりするかもしれません。些細なことでもいいので、何かあったらすぐに私に教えてください」
寂しさを感じないようにすぐに抱きしめて温もりを与えつつ、春雨のことを第一に考えて行動を始める。部屋が暗いのはよろしくないとすぐに電気をつけ、春雨の身体に問題がないことを確認。
瞳の色が紅く染まり、両腕が失われてしまったこと以外は、今までずっと見てきた春雨のままであることを再確認して一度安心するものの、精神的な部分に変化があることはすぐにわかり、弁えつつも問診を始める。
「大丈夫だよ海風。自分にイライラしてるけど、それだけだから」
ほんの少しだけ、春雨の声色に怒りが含まれていることに気付いた。自制は出来ていても、常に春雨の動向を気にかけている海風にしてみれば、たったそれだけでも充分すぎる変化である。
ただでさえ自分のことがどうでもよく、他人のことを優先する春雨が自分のことを嫌いになってしまっては、さらに戦闘中に顧みなくなるだろう。それこそまた暴走して、自らの肉体を代償にしながら暴走しかねない。
そんな春雨を見て、海風は悲しくなる。自分があの場で侵蝕されていなければ、春雨がこんなことになっていなかった。そしてそんな春雨を侵蝕されていたとはいえ煽り、精神を揺さぶったことに対して、罪悪感が凄まじかった。
「……私のせいで、私のせいでこんなことになってしまって……本当にすみませんでした……。私が侵蝕なんてされなければ、姉さんはここまで揺さぶられることなんてありませんでした。私が弱いばっかりに……私が姉さんを……」
耐えきれずに涙を流す海風。海風も今は精神的にダメージが大きい。罪悪感から悲観的になってしまうのは必然である。春雨に危機が訪れていたから、施設に戻るまでは耐えられたが、一休み出来たことで本来のガタガタが戻ってきてしまっていた。
「海風は何も悪くないよ。私が……私がもっと強かったら、みんなを守れたかもしれないのに……。海風だけじゃない、戦艦様も、薄雲ちゃんも、あんな思いをしなくて済んだんだ……」
そして、それを見て春雨は自己嫌悪から自分への苛立ちがさらに湧き上がる。未熟さ故に誰も守れなかったという後悔から、どうしても溢れ出した怒りに繋がってしまう。
このままでは堂々巡りである。春雨が自分に苛立つ程に、海風は罪悪感を覚え、その様を見ることで、春雨はさらに怒りが募る。何も良くならない。
そんな2人に割り入ってくる者がいた。
「起きてる? 起きてるよね、声が聞こえたし」
深夜だというのに、容赦無く部屋に入ってきたのは白露だ。扉の隙間から光が漏れていたのと、その向こう側から2人の声が聞こえたことで、ノックもせずに突入。
本来ならば深夜の哨戒だったはずなのだが、今回は漣達の保護などもあったため、一時的に中止。白露達の哨戒は翌朝に持ち越しとなった。
そして白露は、春雨と海風がおおよそこの時間に起きるのではと見越して、部屋の前でジッと待っていたのだ。妹達は確実に精神的な消耗が激しいとわかっていて。
「し、白露姉さん……ノックくらいしてくださいよ」
「ごめんごめん、ちょっと聞き捨てならないこと聞こえたから、カッとなって入ってきちゃった」
ベッドの前で仁王立ちする白露。それでも春雨の中に渦巻く苛立ちは湧き上がり続け、海風の中に根付く罪悪感は止まるところを知らない。
そんな中でも、白露はマイペースに話を続ける。
「とりあえずアンタ達、お腹空いてるでしょ。何か食べな。お腹空いてると本調子出ないから」
「……そう、ですね。お腹が空いてるのは確かです。海風、遅くなったけど夕飯を食べさせてもらお」
「……はい」
まずは腹拵えから。その後はお風呂で身を清めてもう一眠りすれば、ある程度は考えも纏まるだろうと言われ、春雨も海風もひとまずは納得した。
それでも、感情のうねりは何も変わらない。春雨は確実にイライラしているし、海風は俯いたままである。
ダイニングには、温め直すだけで食べられるような夜食が用意されていた。春雨が義腕になってしまったことも考慮して、スープとサンドイッチである。まだ消耗している2人は卓につかせ、白露がスープを軽く温め直してから2人の前に出した。
食欲だけはしっかりあったのが唯一の救い。これで食事が喉を通らないまであったら、今の感情に思考が支配され続けて、消耗が回復することが無かっただろう。白露はその時のための手段も考えていたようだが。
「食べながらでもいいから、あたしの意見を聞いてもらおうかな。とはいえ、あたしはアンタ達に起きたことを『観測者』さんから又聞きしただけだから、現場でどういうことが起きていたかの詳細は知らない。間違ってるなら間違ってるって言って」
いつになく真剣な表情の白露に驚きつつも、春雨も海風も一応用意されたものを口に含みながら聞く。
「海風が敵の手にかかって侵蝕されて、それを見た春雨がブチギレて暴走、結果的に春雨は怒りが溢れたことで両腕を失ったってことでいいね」
「はい、それで正しいです」
「それで、春雨は自分が弱いから、未熟だから、誰も守れなかったって、自分に対してイライラしてると」
サンドイッチを持つ手が少し震えた後、無言で首を縦に振る。
「春雨」
「……はい」
「アンタさ、
場を凍り付かせるような言葉を白露が発した。ただでさえイライラが募る春雨と、春雨への侮辱に怒りを感じる海風が揃っているところで、あえてこんな言葉を使った。
春雨はともかく、海風も聞き捨てならないと白露を睨み付けるが、春雨を見つめる白露の表情に言葉を無くした。
怒っているわけでもなく、冗談を言っているわけでもない。ただ冷ややかに、春雨を見つめていた。この顔は何処かで見たことがある。白露ではない姉の誰か。
「何、自分には辿り着く力なんていう特別な力があるから、本当ならみんなを守れたって思ってる? それでも敵の方が一枚上手で、それにやり込められたことを全部自分のせいだと思ってる?
淡々と続ける。春雨は白露の顔が見れなかった。
「それってさ、なんだかんだ仲間のことが見れてないよね。それか、仲間のことを自分より下に見てるか。特別な力を持った自分が誰よりも上とでも考えちゃった? そんなわけないでしょうが。あたしらは、アンタがどんな力を持ってようと守り守られる仲間だって思ってんだ。なのに、アンタがそれでどうすんの。何が自分のせいでみんなが傷ついただ。どうでもいい時にばっかり自分のことを蔑ろにするのに、こういう時ばっかり自分のこと見てんじゃないよ」
この説教は、姉4人からぶつけられているような感覚に陥る。白露だけではない。時雨からも、村雨からも、夕立からも、今の春雨は
今の白露は誰かの気質を選んで表に出しているわけではない。全員の気質を均等に表に出している。4人が4人、春雨のことを大切に思っているからこそ、ここで自己嫌悪から苛立っている春雨に対して説教をすることを選んだ。
「白露姉さん、それは言い過ぎ」
「アンタもだよ海風。春雨が暴走したのは自分のせいとか、大概にした方がいい。春雨は積もり積もって溢れたんだ。確かにアンタがトドメだったかもしれないけど、アンタだけが悪いわけでもない。むしろ、ここにいる誰かが悪いわけがないでしょうが。侵蝕されたヤツが侵蝕してきたヤツのことを差し置いて罪悪感に浸るんじゃない」
4人分の威圧は、春雨至上主義の海風すら黙らせる。
「扉の向こう側からアンタ達が話す声が聞こえてきた時、あたしはそれはもう気分が悪かったよ。春雨は元凶じゃなく自分に怒りを向けてるし、海風は元凶のことを無視して自分が悪いとか言い出すし。ちゃんと冷静になって考えな。今回の件、誰が悪い」
そんなこと、本来は考えるまでもないことだ。海風が侵蝕するきっかけとなったのは、戦艦棲姫。その戦艦棲姫を侵蝕したのは、朧。しかし朧も巻き込まれただけのドロップ艦だ。それに巻き込んだのは漣であり、それを支配して使っているのは龍驤。延いては最悪の姫の中身、黒幕である。
ならば、怒りを向ける先は決まっているようなものだろう。この戦いのきっかけを作ったものである黒幕か、この作戦を実行に移させた龍驤、この2人のうちのどちらかだ。自分に対して怒るのはお門違い。罪悪感も同じ。
「……黒幕、それに、龍驤」
「そうでしょ。ほら、アンタ達は、
一種の思考誘導なのだが、今の2人には効果的だった。今回の件は2人のせいである部分は何処にも無いのだ。責任転嫁ではなく、本当に責任が敵にあるのみ。そんなことでいちいち落ち込んでいたら、敵の思うツボだろう。
当然、自己嫌悪の気持ちや罪悪感についてもわからなくはない。白露も当事者として動いていたことがあるし、その被害者であるミシェルがこの施設に滞在しているのだから、春雨と海風の気持ちは痛いほどわかる。だが、ここで落ち込んでいたり苛立っていたら、先に進むことが出来ない。故に、吹っ切れるためにも考え方を変えさせる。
「正直なところ、暴走したことで春雨の両腕が無くなったのは、あたしだってショックだよ。あの現場にあたし達もいることが出来れば、もっと早く気付いていれば、こんな大惨事にならなかったかもしれないって思うことだってあるさ。でもね、だからといって、あたしは自己嫌悪にはならないよ。原因は全部、黒幕にあるんだから。あたしは何も悪くない。むしろ、誰かが被害を受けるたびに黒幕への怒りが募っていくね。あたしも利用されたクチだから」
自虐ネタを入れつつも、この説教の根幹を伝える。
「春雨。怒りが溢れたことはもう仕方ない。なら、怒りの矛先を見誤るんじゃないよ。未熟だったとかそんなわけ無いんだから」
「……はい」
「海風。その罪悪感はわかるけど、アンタは悪くないんだから、割り切りな。春雨だって、アンタが悪いなんて思ってないよ」
「……わかり、ました」
2人の本質を捻じ曲げようとするわけではなく、その向きを変えることで、最悪な状況を回避する。特に春雨は今までと違い、怒りも溢れているのだから、まずはそれを正しく導いてやるべきだろう。
結果として、春雨と海風は自己嫌悪を回避することに成功した。互いに負のスパイラルを形成していたが、その怒りの向きを黒幕に絞ったことで、精神的に多少は余裕が出来ただろう。
あとは、今の感情とうまく付き合っていくだけ。春雨は折り合いを付けていると自分で言ったのだから、もう少し制御出来るようになれれば万々歳だ。
白露だって2人の姉。心配もするし、間違ってるならそれを正す。