「貴女には罪しか無いですが、その身体には罪はありませんから。まずはその器から出ていきなさい」
怒りを込めた蹴りが、その胸に突き刺さる。そして、ダンと、脚の伸縮を利用した渾身の一撃。それが、龍驤の、空母棲姫の心臓を一瞬だけ止めた。
「お前、ウチに何を……」
身体が一瞬死んだことにより、泥はその身体から外に出ようとする。だが、龍驤は泥と違って単純思考ではない。ただの侵蝕とは違い、龍驤という意思が器に取り憑き、その身体を使っているに過ぎないのだ。
だが、その蹴りを繰り出したのが、『望み通りの答えに辿り着く者』である春雨。
「っぶ!?」
突然の吐き気。そして、自分が自分で無くなるような感覚。いや、他の器を手に入れる時の感覚を強制的に引き起こされているような感覚に襲われた。一瞬だけでも心臓が止まったことは、龍驤にも無意識的に
実際、今の龍驤には死という概念はもう無い。強いて言うなら、泥を消滅させる波長をぶつければ始末は出来るが、器を殺したところで次の器を探すのみ。逆に言えば、消滅させない限りは永劫生き続ける存在となっている。
それもあるため、器の死にはヒト一倍敏感になっている。亡骸の中には入ることが出来ず、亡骸となったら動かすことも出来ない、他の泥と同じ性質を持ってしまっているのだ。これは黒幕の危機管理能力の賜物でもあるため、龍驤は何も文句は言えない。おそらく文句を言うための思考も削除されているだろうが。
「っお、おぼろろろっ!?」
龍驤が──いや、
しかし、それはバラバラになるわけではなく1つの塊としてそこに流れ出していた。今までと違うのは、やはりその泥が一個体として成立しているからだろう。これそのものが龍驤だから、千切れることもなければ飛び散ることもない。むしろ、ここから離れたら本来の侵蝕性の泥になるか。
空母棲姫の器から泥が吐き出されたことによって、悪意の雨も止んだ。艦載機をコントロールするための器が失われたため、超高高度の艦載機も消えたようである。
『っの、ふざけんなや……ウチはまだ、まだ負けとらんぞ……』
何処からか聞こえる龍驤の声。と言っても、その声を発しているのは、空母棲姫から吐き出された泥の塊であることなど一目瞭然である。どのような原理で泥が喋っているかは謎だが、間違いなくこの場にいる全員がその声を聞いた。
「往生際が悪いねぇ。そんな姿になって何が出来るってのさ。ヒトのカタチにでもなれるのかな」
相変わらず煽る北上。しかし、その泥は消し飛ばす暇も与えずにヒト型へと変化していった。最終的には、大概の者が知っている龍驤のカタチと成った。
とはいえ、泥から強引にヒトのカタチを取ろうとしているため、二足歩行になることは出来ず、まるで腰から上が泥溜まりから生えているような見た目。そして色も泥と同じ黒一色である。
『まだや。まだ器があればウチは戦える』
「誰かが差し出すと思っているんですか? 浅はかですね」
勿論、春雨はその龍驤の姿を取るようになった泥を凝視していた。望む答えは『動くな』のままである。
しかし、龍驤はその影響下の中でも泥から今の姿へと変化した。影響を受けているのなら泥の状態から変化することも出来なかったはずなのに、それが出来たということは、今の龍驤には春雨の力が通用しない。
その理由は直感的に気付ける。今の龍驤は龍驤として認識は出来るものの、北上が言った通り、
事前にそれが知れたのは良かった。今の春雨の力は、黒幕にも通用しないということになる。覚醒したばかりだからか、制約が非常に多い。今の春雨が泥を消滅させるのならば、直に触れるかマグマを流し込むかしないと無理ということになる。見ただけでは泥に干渉出来ないのだから仕方ない。
「ゲホッ……カハッ……え、わ、私は……」
ここで龍驤が外に出たことで空母棲姫が正気を取り戻した。しかし、器として使われている期間の記憶がかなり曖昧のようで、自分が何故ここにいるかもまともにわかっていない。
だが、艦娘と
『もう一度コイツの身体を使ったらええだけやわ』
「させるわけないわよねぇ」
そこに乱入してきたのは、なんと荒潮。泥の塊と空母棲姫の間に割り込んだと思いきや、即座に主砲を龍驤に向ける。泥に向けて撃ったところで意味がないことは理解しているし、龍驤自身ももう
とはいえ、格上だ格下だと考えることをやめたことで、この荒潮も泥である龍驤を始末出来るという自信があるからこそ割り込んできたのだと察する。故に、自身の身体が泥であろうが、その砲撃は喰らうわけにはいかないと、まるで海上を滑るように動き回る。
『ほんならお前の身体使うたるわ。ちゅーかお前、アレか、あん時のドロップ艦かい!』
「あらぁ、覚えていてくれて嬉しいわぁ。貴女にはと〜〜っても恨みがあるの。ヒト様を使って、ただで済むと思わないでちょうだいね」
どれだけ素早く動き回っても、荒潮の照準から逃れることが出来ない。しっかりとその動きを見据え、さらには次の動きまで予測して、進路も退路も確実に塞ぐために砲撃を繰り返す。
荒潮の砲撃も当然ながら薬剤入り。今の龍驤は実弾や斬撃などは効かないかもしれないが、唯一確実にダメージを与えることが出来る攻撃になる。龍驤は知ってか知らずか、それも当たってはいけないものと判断して避け続けた。
『このっ、抵抗すんな!』
「こっちのセリフなのよねぇ。むしろ何故抵抗しないと思っているのかしらぁ。よっぽと頭の中がスカスカなのかしらぁ。ううん、ぎっしり詰まっているわよねぇ。寄生虫が」
時折、荒潮の顔面に飛び掛かろうとするのだが、それも予測されており、さらりと避けられた挙句に砲撃を浴びせられる。
むしろ、荒潮に極限まで近付けた時ですら、
『お前ら、そうか、あの雨の中でもまともにおれたんは、そういうことかい』
「あらぁ、や〜っと気付いたの〜? ほんっとうに、そのお目めは節穴なのねぇ」
北上に続いて荒潮からも煽られ、龍驤の苛立ちは頂点へ。あまりにも自分の思い通りにならなすぎて、逆ギレ状態である。
「貴女はこちらへ。事情は説明しますが、ここにいることが危険ですから」
「お、お前、は」
「貴女がどうであれ、被害者は救いますから。出来れば従ってくれると嬉しいです」
錯乱する空母棲姫の側に駆け寄ったのは古鷹。艤装が破壊されて茫然と膝をついていたが、その場にいると本当に龍驤に再度乗っ取られかねないので、この場から離れてもらうことに尽力する。
空母棲姫はわけがわかっていなかったが、あの泥が自分をおかしくしていたというのは即座に理解出来たため、それから救ってくれそうな古鷹には素直に従った。見た目はどうであれ、
『この、邪魔や、退けぇ!』
「なんでぇ? 私達の言うことを聞いてくれないヒトの言うことを聞かなくちゃいけないのかしらぁ。もしかして、この期に及んでまだ格上だの格下だの考えてるのかしらぁ?」
「そうだぞー
荒潮と龍驤の戦いに、漣も参戦。最初の器にされたことに恨みも大きく、さらに砲撃を重ね合わせることで、より進路と退路を塞ぐ。
遠距離に特化した上に、実力としてはまだ3分の1というところの漣が前に出てきているのは危険ではあるのだが、龍驤を煽るには充分なスペックを持っているため、あえてこの策に出ている。
これも北上考案。
「そもそも私達には貴女は触れられないわぁ。もうわかっているんだから、諦めなさいなぁ」
「そうそう。充分好き勝手やったんしょ? だったらもう満足っしょ?」
2人に煽られながらも、龍驤は逆転の一手を常に考え続けていた。悪意の雨の中でも、荒潮や漣はそのままで侵蝕を受けることは無かった。むしろ、ここにいるものはほぼ同じ状態。深海棲艦達は雨の中でも大丈夫なように、全身を覆うスーツを着ていたくらいである。
しかし、ただ1人違う者がいた。雨に打たれても侵蝕されないという何かを身につけているはずなのに、悪意の雨を受けないはずなのに
『まだや、まだウチは負けとらん。ウチは死なないんやからなぁ! それに、まだ器になる身体がそこにおるやんけ!』
一瞬の隙を突いて、荒潮と漣の砲撃を掻い潜り、傘を差す者、北上に突撃。バリアを唯一張っていない者であることを看破し、その身体を奪うことでこの状況を打開しようと画策した。
器を失い、敵に囲まれ、最後に残された龍驤の希望は、最も気に入らず、天敵と思っていた北上の身体だ。龍驤としてはもう苦肉の策ではあるのだが、ここから逃げられない以上、器を手に入れることの方が先決と考えた。
それも北上が誘導していたことにも気付けず。
「きゃー、あたし狙われちゃうー。助けてー」
明らかに棒読みであるため、そこまでもが北上の掌の上であることにこのタイミングで気付いた。
「ホントにバカだねぇ。単細胞の集合体みたいなものになったからかな。なんであたし達がアンタがそういうことするように仕向けてるとわからないかな」
飛びついてくるのは顔面。これは漣からの証言で知っている。おそらく、龍驤は頭からしか入れない。そうするときというのは、海面からも飛び出している状態になるため、いきなり姿勢を変えることも出来ないだろう。
普通なら反応出来ないくらいの速度であるのもわかる。水飛沫を全て避けろと言われても簡単には出来ない。だとしても、それが来ると最初からわかっていれば、ある程度の反応は出来た。
北上はそのタイミングを待っていたのだ。望まれているのは、龍驤の始末ではなく
「アンタは目敏いと思っててさ、あたしだけが侵蝕が効く状態であることをさりげなく……というか、めちゃくちゃわかりやすく見せてたんだよ。釣れるかなって思って。そうしたら見事に釣れたよね」
ここで北上が繰り出したのは、何かよくわからない粉。龍驤が襲い掛かる寸前でぶち撒けることで、それを泥と化した龍驤に混ぜ合わせた。
『なっ!?』
「これが狙いだったんだよ。明石謹製、『泥凝固薬』がアンタに効くかを確かめるためにね。まぁ100%効くのはわかってたんだけどさ」
砲撃に混ぜ合わせたら、どうやっても回避されるだろう。だからといって、近付いてぶち撒けても警戒されるだろう。
それ故に、自分を囮に使って薬を確実に龍驤に付着させることを最優先にした。北上がやりたいことと言っていたのはコレ。自分を使った囮戦術。周りの仲間には確実に被害がなく、だからといって自分も最低限のリスクで終われる手段を明石ならば作っていると確信して。
『ぐぉ……な、なんや、これ……』
北上に飛び掛かろうとしたポーズで動かなくなった龍驤。その表面が凝固し、コンクリートのように固まっていた。しかしその内部は泥のまま。本当に周りだけが石化したようなものである。
「ヒトのカタチならこんなことは起きなかった。泥だからこれが出来た。ぜーんぶ、あたしの掌の上だったってことだよ、龍驤ちゃーん」
荒潮に合図をすると、ニッコリ笑ってその固まった龍驤に向けて展開したドラム缶を被せる。それは勿論、明石謹製の捕獲用ドラム缶。固まった状態でも詰め込めるようにして、その全てを中に格納した。
その内部では凝固が終わり、泥の姿には戻れたのだが、内側から外側に出ることは不可能なように設計されていた。
『おま、北上、北上コラァ!』
「やったね龍驤ちゃん、新しい身体だよ。寸胴なアンタにゃお似合いな身体だ。それがお前の最後の身体だ。喜べ」
ドラム缶をガンと殴り、龍驤を黙らせた。
被害者は出たものの、これでようやく龍驤との戦いは終わる。