防空巡棲姫の防衛戦から突き抜けた春雨達は、ついに黒幕が潜む島の近海にまで到着。島が目視出来るところにまで進むことが出来た。
しかし、そこで現れたのは別個体の春雨。島内で捕らえられていたのか、疲労困憊の状態で逃げ出していたのだ。
それだけならば保護をすれば良かっただけなのだが、別個体の春雨は目の前で泥に呑み込まれ、そのまま侵蝕されてしまった。今の別個体の春雨は、完全に敵対している艦娘とも深海棲艦とも言えない、中間のような歪な存在と化していた。
「いい、海風。落ち着いて。見たくないモノを見せられたのはわかってる。でも、心を鎮めて。私だって物凄く腹が立ってるけど、大丈夫だから」
自分の別個体が侵蝕されたことに怒りのボルテージが上がっている春雨だったが、それ以上に苦しんでいる海風を見たことで自分が怒り狂ってはいけないと心を静かに留めていた。
別個体の春雨は、海風が最も見たくなかった春雨の姿である。弱々しく、今にも倒れてしまいそうなくらいに消耗した姿でもかなり重くのしかかってきていたのに、ただでさえトラウマとして心に刻まれている侵蝕を表すレオタード姿、かつ、春雨が敵対しているという事実。これは、もし
これはもう依存の発作と言ってもいい。最愛の姉が隣にいるにもかかわらず、同じ姿の別人の侵蝕を目の当たりにした瞬間に、目の前が真っ暗になったような感覚を得た。
「春雨姉さん、春雨姉さん、なんで、なんであんなことに、なんで、私は、海風は、春雨姉さんを、春雨姉さんを守ると誓ったのに、あんなことに、ならないように」
動揺のせいで、頭も回らなくなってしまった。泣きじゃくったり、自死を選んだり、暴走したりしない。ただ壊れ、狂い、その場で震え、何も見えなくなる。そして、見えなくなってしまったために春雨を認識出来なくなり、よりドツボにハマっていく。
「あ、あぁあああっ……春雨姉さん、春雨姉さん……」
足腰に力が入らなくなったかのように膝をつき、震えを隠そうともせずに荒い息を吐き続ける。まるで悪夢に魘されるかのように、そこから動けなくなってしまった。
春雨という個体の侵蝕を見てしまったのだから仕方ない。想像だけでも動揺するくらいだろう。それが、現実として目の前で起きてしまったのだから。
「ここにいるよ。私はここにいる。
焦点が合わない海風を落ち着かせるために、春雨がすぐに手を握った。いつもは自分がこのカタチで落ち着かせてもらっているのだから、こういう時はお返しに落ち着いてもらいたい。これでは戦闘どころでは無いのだから。
「海風姉……落ち着こう、ね。あんなの見たくなかったってわかるけど、あたし達の知ってる春雨姉は、ココにいる……からね」
春雨に加えて山風も懸命に海風を慰めようと身体に触れる。春雨と同じように、姉妹の温もりがあれば多少は自分を取り戻せると信じて。
依存相手である春雨の温もりだけでは足りないくらいに取り乱しているのだから、さらに上乗せ出来る温もりが必要。そうなると、適任なのは山風。海風自身が気にしていた存在でもあるのだから、それが実感出来るようになれば、真っ暗になった視界が開けるはず。
「……あの私を救える余地は?」
春雨が龍驤に問う。その声には、多くの怒気が含まれていた。仲間達は春雨の声を聞いてゾクリと震えを感じてしまう。叢雲だけはその怒りに共感し、槍を強く握りしめるだけ。
「あの侵蝕は端末のそれとは違うな。今のウチでは治療出来へん。なんや
龍驤からの答えはやはり、そう簡単には侵蝕から解放することが出来ないということ。しかし、今までとは違った侵蝕とも感じ取れるということで、今この時も解析は続けていた。
そもそもシステムの範囲内だというのに侵蝕されたため、今まで手に入れ続けてきた黒幕の情報とは別であることは窺える。たった今ここで散布されている監視の目を排除し、泥人形の行動を抑制したシステム自体も効かないとなると、別個体の春雨を呑み込んだ泥はこれまでに見せたことのない完全な新規。
泥に呑み込まれた別個体の春雨は、侵蝕の快楽に身体を震わせた後、島に向かってくる部隊を睨み付ける。今までは救いを求める弱々しい瞳だったものが一転、黒幕の意志に呑み込まれ、艦娘でありながらも深海棲艦の思考へと塗り潰された結果、侵略者の瞳へと変わり果てていた。
おそらく生まれて間もない艦娘であっただろうが、侵蝕されていた漣達のことを考えれば、もうドロップしたばかりだから弱いと考えるのは間違い。身体強化がかかる泥コスチュームも身に付けているのだから、あれはもう熟練の戦士にされていると考えてもいいだろう。
「春雨、アンタは海風についててやんな。ここで無駄に力使う必要ないから」
ここで一歩前に出たのは白露。
「あたしだってね、怒り心頭なんだよ。妹が苦しんでる姿見せられ続けてたらさ」
海風が発作を起こし春雨の怒りが溢れる状況を作られただけでも充分すぎるくらいに腹が立つのに、その犠牲になったのが別個体の
ただでさえ妹を思うお姉ちゃんな白露の中には、さらに3人の姉が含まれているのだ。本来の4倍の怒りを感じ、少し間違えばその感情が溢れ出してもおかしくないほど。そこは4人分を抱え込んでいることもあり、その感情が溢れて繭となることは無いのだが、それでも今までに無いくらいに怒りを感じているのは確かだ。
「待ってな。お姉ちゃんがどうにかしてやる」
その怒りが、白露に変化を齎した。白露の瞳に、
「……白露姉さん、それは……」
「ん? お、おお?」
視界がほんのりと紅く染まったように思える。そして、今までよりも強く力が発揮出来るような感覚。
「あたしに入ってる春雨の細胞が、あたしに力を貸してくれてるんだろうね。あたしの怒りに反応して」
それほどまでに、今の白露の怒りは強いということ。何せ4人分である。白露だけじゃない、時雨も、村雨も、夕立も、白露の中で怒り狂っているのだ。静かに、それでいて激しく。理性を保ちながら、しかし本能を解き放つように。三者三様の怒りを、白露の怒りを以て束ねる。
その結果がマグマブースト。白露の中で春雨細胞はマグマとなり、身体中に駆け巡る。黒幕の泥ブーストと似ているが、その原点があまりにも違う。しかし、負の感情によるブーストであることは変わらない。
「身体が熱い、熱いけど、まだ気持ちいい方だよ。お風呂に入ってるみたいな、ね!」
そのブーストに身を任せ、白露は別個体の春雨へと突撃する。つまり、島に一気に接近するということに他ならない。
無闇矢鱈と突っ込んでいるわけではない。先陣を切って別個体の春雨がどういう存在かを知るために、一番槍を買って出た。
対する別個体の春雨は、植え付けられた悪意に身を任せて白露を迎え撃つ。あちらもまた、敵対する者の手段を測るために行動する。
拠点防衛というカタチになるため、その場から動くことなくただ砲撃を放つのみ。魚雷を受けないように、かつ白露の動きを見ての対処を狙った、ドロップしたばかりの艦娘としてはしっかりと考えられている作戦。
「甘い! 砲撃の精度は甘々の甘だね!」
しかし、その程度の砲撃で白露が屈するわけが無かった。軽々と避け、何にも止められることなく島に接近していく。
「白露に続くわ。あちらの春雨もどうにかしないと話にならない。島に上陸する必要があるなら、退かさなくちゃいけないもの」
その白露の行動により、より火がついたのは叢雲。最初から怒りが溢れているだけあり、春雨細胞との適応率は非常に高く、こちらもその瞳に真紅の焔が宿る。
「春雨、白露も言ってたけど、アンタはここで海風が調子取り戻すまで見ててやんなさい。私と白露が、あっちの春雨をどうにかしてあげる。島までの道も、切り拓いてやるわよ!」
それだけ言い放ち、白露を追うように突撃を開始した。白露に一番槍を譲ってはいるものの、そのスピードはあっという間に白露に追いつき、横に並んでの戦いへ。
「クソ気に入らないわ。私だってね、仲間が狂わされるのは二度と見たくないのよ」
叢雲も、目の前で薄雲が侵蝕された経験がある。その時の怒りを今ここでも思い出していた。それを見たことで崩れ落ちた海風の姿も、叢雲の怒りに拍車をかける。
最初から怒りと相乗りしている叢雲に、新たな怒りの力が加わったところで、制御しきれないなんてことは無い。むしろ、春雨細胞のマグマブーストは叢雲にとっては熱すらも感じない。
「じゃあ、2人でやらない? あたし、ちょっと自分でも制御し切れるかわからないんだよ」
「はっ、アンタが追い付けるかは知らないけどね」
「言ったな。あたしは叢雲に勝ててんだ。むしろアンタが追い付いてきなよ」
「演習と実戦は違うわよ」
「なら尚更あたしの方が分があるね。こうなる前から鎮守府ではいっちばーんだったし、そもそもあたしは……」
白露の瞳の焔が一層燃え上がる。
「
その瞬間、白露の巻いていた夕立のマフラーが焔のように燃え上がる。これはもう、白露の中の夕立が怒りを露わにしているとすら感じるレベルに。
同時に、白露の表情が獣のように変化。これもまた、夕立の特徴。戦いを楽しみ、本能的に敵を殲滅する狂犬のような荒ぶり。
「春雨を貶めるなんて、あたしが許さないっぽい!」
よりスピードが上がり、あっという間に島へと上陸。スピード自慢の叢雲ですら追いつけないスピードを、この瞬間だけ出していた。
眼前には泥に呑み込まれた別個体の春雨。もう手が届く範囲。しかし、今までのことを考えると泥コスチュームは触れただけで相手を侵蝕する攻防一体の装備。その要素があるかはわからないが、直接殴るのには抵抗がある。
「その身体から、出ていけぇ!」
そこで白露は、まともに喰らえば死にはしないものの激しいダメージになるであろう空気砲を放った。艤装は時雨のモノへと変化して、背部から前に突き出した2つの大型主砲による渾身の一撃。
別個体の春雨は、それを見てから回避しようとするが、その時にはもう叢雲も追い付いていた。
「私はアンタがどういう存在だとしても容赦しないわよ。泣こうが叫ぼうが、敵対している時点で全力で叩き潰す! 救うだ救わないだなんて関係ない!」
その回避方向に先回りしており、怒りによって長さを増した槍を思い切り振り回す。刺さない辺りは少しだけ理性が残っているものの、直撃したら確実に肉も骨もタダでは済まない一撃。
「やめてよ」
別個体の春雨が初めて言葉を口にした。ただ一言、拒絶の言葉。
その瞬間、陣取っている陸地から泥が隆起し、まるで壁のようにその一撃を防いだ。白露の砲撃に対しても同じように泥が防ぐ。
「なっ」
「おっとぉ!? こりゃ面倒くさいね」
その泥に触れるのもまずいと感じたか、すぐにバックステップして間合いを取る。
すると、別個体の春雨の足場が泥に塗れていき、地面だというのに波打っていた。
「来ないでよ。これ以上」
その中心で、別個体の春雨は意地が悪い笑みを浮かべる。春雨からは絶対に出ないような表情。
海風がそれを目にしていなくて本当に良かったと、白露は内心思っていた。