槍持ちが自分の意思で言葉を発するようになり、明確な回復の兆しが見えてきている。
薄雲の献身的な介護が強く効いているようで、そこから戦艦棲姫は、実の姉妹からの介護と、毎日のように行なわれる触れ合いがそこに繋がっているのだと考えた。実際この2日間、薄雲は食事の時以外のほぼ全ての時間、何処かしらに触れた状態を維持し続け、眠る時も抱き枕のように抱きついていたほどである。
それだけのことをやったおかげで、薄雲の願いは通じた。ここまで回復したことで、かなり拙い状態ではあるものの、会話が出来る様になったのだ。
「姉さん、私のこと、ちゃんとわかりますか」
「……ウスグモ」
「自分の足で歩けたりしますか?」
「……デキル」
自分の意思さえ持ってしまえば、それを使って身体を動かすことは出来る。そもそも艦娘の気配を感知した時点で動き出し、この中では春雨しか追いつけないような速度で海を駆け抜けるくらいだ。歩こうと思えば歩けるし、艤装の展開だって可能。
今まではそういうことをやろうとする意識があまりにも希薄だったために、薄雲の手を借りなければ何も出来なかった。だが、今ならもう全てが可能になる。
薄雲に促され、ベッドから立ち上がる。それは薄雲の手を借りることなく、支えも無しで自分の力で地を踏みしめていた。そんな光景を見るだけでも、薄雲は感無量。今にも泣いてしまいそうなくらいに震えていた。
しかし、質問にはある程度答え、言われたことをただただやるだけな部分もある。完全に自我が目覚めているわけではなく、心が完膚なきまでに壊れているのは誰が見ても明らかだった。
「薄雲ちゃん、嬉しそうだね」
「ホント、今一番望んでることが起きてるんだもの。Tensionも上がっちゃうわよね」
春雨とジェーナスは、そんな槍持ちの姿を少しだけ遠目に見ていた。薄雲がそれはもうベタベタと槍持ちに構っているので、今は槍持ちに近付くことは難しいと判断した。
とはいえ、薄雲がこうなってしまうのも無理はないだろう。姉が死んだことで感情が溢れた薄雲が、姉を手に入れることが出来そうなのだ。精神的にも安定しているのだから、それに対して若干の依存性を持ち始めても、仕方ないと思える。
「でも、もう少しって感じだよね。まだちょっと機械的だし」
「そうねぇ。こっちの言ってることに反応するだけじゃなくて答えることが出来るようになったのは物凄い進歩だと思うけれど」
春雨の言う通り、今の槍持ちは少し機械的だ。薄雲に問われていることに対して、ただ返事をするだけ。動けるかと言われたら動いて見せた。それだけ。無反応から考えれば劇的な進歩ではあるのだが、
実はこの槍持ち、意思は少しずつ戻ってきているのだが、
薄雲は姉さんと呼んでいるものの、槍持ちからしてみればその意味がわかっていない。薄雲という言葉に聞き覚えがあるような無いような感覚であり、言われたから知っているという程度。しかし、何処か懐かしい感覚だけはしていた。一緒にいて気分が落ち着く。頭の中に渦巻く怒りと恨みが、薄雲といる時だけは薄れるような。
そんな感覚が得られる薄雲は、もしかしたら
「そうだ、姉さん。お洋服を変えることは出来そうですか? 私達は自分達で着るものを作れるんですが」
槍持ちを温めるためにボディスーツ姿だった薄雲も、実例を見せるためにいつもの黒い制服に着替えた。
「……デキル」
念じたことにより服が紐解かれ、同時に新たな服が出来上がっていく様子をジッと見た後、槍持ちは少しだけ力を入れた。すると、初めてここにやってきた時のようなボロボロの服が紡がれていく。今の槍持ちには、これが正しい制服であり、まともなモノが纏えない程に精神が擦り切れているとさえ思えた。
こういうところにも精神的な部分が如実に現れていた。やはり、槍持ちは適切な処置が行なわれていないことで、今着ている服のように心がボロボロなのだろう。
「もっと回復したらこれも改善されるのかな……」
「大丈夫だよ。自分を取り戻せば、服も元に戻ると思うよ」
槍持ちの服を見て落ち込んでいた薄雲だったが、春雨に慰められて少しだけ笑顔を取り戻す。確証が無い言葉ではあるのだが、少なくとも正しい心を持っていれば、自分で考えて自由に服が作れるのだから、こんなボロボロな服を選択するとは考えられない。
ただでさえ薄雲の姉、叢雲はそういうところは大いに気にするタイプである。食い意地に関しては一旦置いておくとしても、身嗜みはしっかり整え、弱点らしい弱点を簡単には見せない。いつでもどこでもパリッとキメる、デキる女だった。
そんな艦娘が、今の自分の服を見たらどう思うか。まず間違いなく綺麗に整えるだろう。当時の服装を模すかもしれないし、心機一転全く別のモノを作り上げるかもしれない。とにかく、現状を打破するのは予想がつく。
「そうだよね。姉さんが姉さんになってくれれば、こういうところも元に戻るよね」
「勿論よ。もし治らなかったとしても、そこは私達で
万が一のことがあっても、服装に関しては教え込むことでどうとでも出来るだろう。今の思考回路では難しいとは思うが、正しく自我さえ目覚めてくれれば。
「姉さん、ゆっくりでいいですから、前に進んでいきましょうね」
「……ワカッタ」
その言葉の意味も、薄雲の意思も、理解しているかどうかはわからないが、薄雲に対してはしっかりと反応を見せる。
槍持ちの中にある
春雨の本日の作業は農作業。槍持ちのことは薄雲と戦艦棲姫に任せ、与えられた仕事をちゃんとこなしてから、また槍持ちに刺激を与えに行く予定。
「春雨、春雨、槍持ちの様子はどうなんだ?」
「大分回復したって聞いたけど」
いつも通りジャージ姿になり、先日種まきから始めた野菜の成長具合を確認しつつ周囲の雑草を抜いていると、松竹姉妹から話しかけられる。話題はやはり、槍持ちのことである。
農作業は黙々とやっているわけではなく、このように仲間達と世間話をしながら和気藹々と行なわれる。漁のときと同じだ。
常に誰かが話し相手になったり、誰かが話しているのを聞いていたりすることで、春雨の孤独感を払拭するのが目的。そうでなくても、仲がいいのなら自然と会話になる。
松竹姉妹も、たびたびとは言わないが槍持ちにちょっかいをかけに行っている。薄雲からのお願いもあり、真新しい刺激を何度も与えるためだ。しかし、頻度はどうしても偏る。春雨やジェーナスが薄雲のこともあって頻繁に向かう一方、松竹姉妹は1日に1回か2回。他もそうである。あまり押しかけるのも良くないと、多少は自重している節もあったりした。
それ故に、槍持ちの様子を一番詳しく知っているのは、薄雲達を除けば春雨とジェーナスということになる。そこに聞くのが手っ取り早かった。
「すごくいい感じだよ。さっきなんて、自分の意思でベッドから降りられるところまで来てたんだ」
「そりゃすごい。ほんの少し前まではこっちから何話しても無視してたってのにな」
これに関しては中間棲姫も初耳。朝食の際に視線だけでなく首を動かすくらいにまで反応したのは聞いていたが、それが起きたときはちょうど戦艦棲姫と話している間の出来事だったため、槍持ちがそこまで回復しているのは知らなかった。
そのため、春雨のその話には中間棲姫も興味津々。何をしても無反応だった槍持ちが短期間でここまで回復している事実には、素直に喜んでいる。
「薄雲ちゃんがね、卵を温める親鳥みたいに温めてたら、自分から言葉を話すようになってくれて。妹姫様の服で抱き締めていたところを見たときはちょっと驚いちゃったけど」
「うわ、それ見たかったなぁ。薄雲さんがそこまで積極的に動くのってすごく珍しいし」
松竹姉妹から見ても、薄雲は結構大人しい性格だと感じているようだ。そんな薄雲が、そこまで突飛な行動を起こすというだけでも興味が唆られるものらしい。
「なーんか薄雲の気持ちは俺にもわかんだよな。ほら、ご存知の通り俺って松姉ぇ一筋だろ? 今の薄雲も俺と
「私もそれわかるわ。ちょっと依存体質になってるっていうか。私達くらいに極端ではないと思うけど」
2人は、薄雲は槍持ちに対して軽度の依存性を持っているのだと話す。これは春雨が薄雲に対して感じたモノとほとんど同じ。発作となる寂しさを槍持ちという存在で満たしているのだから。
「薄雲、姉ちゃんのこと大好きだったんだろうな。あいつの過去のことなんて聞いてないけどさ」
「普通聞かないものね。ここにいるヒト達の素性なんて。私達も話すつもりないし」
薄雲のあの手の尽くし方からして、艦娘の時から姉に対しては少々
実際のところ、この松竹姉妹の想像は正解である。自分と出会うために尽力してくれて、成長するまで親身になってくれていた姉に対し、尊敬から始まるあらゆる愛の感情を持っていた。
相手が実の姉であるというところで無意識のうちにセーブはしていたのだが、深海棲艦化で心が壊れ、そこに依存出来る対象が現れてしまったのだから、その思いは斜め上の方向にまで上り詰めてしまったわけだ。
「私達は何も思わないわ。むしろいいぞもっとやれって感じ。それで落ち着けるんだもの。何も間違ってないわ」
「だよな。姉ちゃんがいるってのは、マジで落ち着くんだよ。俺達がいい例だ」
「そう、だよね。薄雲ちゃん、すごく幸せそうだったし」
しかし、春雨には少しだけ気にかかることがあるようだ。
「薄雲ちゃんは私やジェーナスちゃんと一緒にいることが多かったけど……槍持ちさんに付きっきりになって、少し離れちゃってるから。槍持ちさんが正気を取り戻したら、また一緒にいろんなこと出来る仲に戻れるかな」
いつもの3人組を4人組にしようと口では言っているものの、実際は分裂してしまうのではないかと少し心配な様子。信じていないわけではなくとも、ほんの少しの不安が壊れた心を刺激してしまう。
同じ施設で暮らしているのだから、離れ離れになるわけではない。会おうと思えばいつでも会えるし、むしろ毎日のように一緒にいるのだから何も問題は無いのだ。それでも、例えば姉との時間のためにと煙たがられるとかされないかとか、不安が不安を呼ぶ。
「いや、そりゃあ心配要らないだろ」
「うん、それは余計な心配ね」
しかし、松竹姉妹はあっけらかんと言い放つ。春雨のその不安は、不必要な心配だと。
「薄雲、結構お前達のこと頼りにしてんだぜ? 特に春雨にはな」
「同じ感情が溢れてるんだもの。仲間意識が一番強いのは春雨さんでしょ。それに、ジェーナスさんがいなくちゃ纏まらない部分あるし。そこに槍持ちさんが加わるだけで、何も変わらないわねコレは」
「ああ、松姉ぇの言う通りだ。お前達は何も変わらねぇよ。槍持ちが加わって、むしろ今までよりも仲良くなれると思うぜ」
力強い保証。これこそ何の根拠もない言葉なのだが、不思議と説得力があった。姉妹での依存というカタチで今を生きている2人だからこそ、周りが客観的に見えすぎているのかもしれない。
心の中のモヤモヤを口に出したことで、そしてそれを聞いてもらい、無駄な心配だときっぱり否定してもらえたことで、春雨は随分とスッキリしていた。思ったことを言葉にして吐き出すことが出来れば、その分つっかえは取れる。
「……うん、そうだよね。そもそも同じ施設で暮らしてるんだもんね。お互いに頼って頼られて生きてるんだもん。大丈夫だよね」
「おう、だから心配すんな。何かあったら、またこういう時に俺達に話してくれよな」
「姉姫さんもしっかり聞いてくれているしね」
振り向くと、そこにはニコニコしている中間棲姫。悩みを打ち明けて、それを解決していく様子を、微笑ましく見守っていた。自分が手を貸さずとも、自分達の力で全て終わらせられたことを、心底喜んでいた。
「何かあったら私も相談に乗るわぁ。でも、そんな心配は必要ないと思うのよねぇ。ここにいる子達でそんなことになったこと、今までで一度も無いんだもの。大丈夫、不安になるのはわかるけれど、私が保証するわぁ」
中間棲姫からの保証で、尚のこと心配事は無くなる。心が離れ離れになることを強く拒む春雨だったが、これだけ言ってもらえれば不安では無くなった。
槍持ちが快復し、正気を取り戻した時に、その答えは出るだろう。
だが、離れ離れになることはまず無い。みんなで手を取り合って、楽しく生きる。それは誰もが望んでいることだ。
薄雲の方から4人での行動を望むのではないかと。寂しさの払拭は、人数が多ければ多い方がいいわけだし。