調査隊を襲撃した未知の深海棲艦は、鎮守府に所属していた駆逐隊の隊長、白露が生まれ変わった姿だった。艦娘であった時の記憶をちゃんと持っているのだが、しかし性格は禍々しく豹変しており、元々仲間だった調査隊の面々すら嬉々として攻撃する。
その攻撃を島風が迎撃していたが、そんな白露に納得が出来なかった海風が、現実逃避をしながらも突撃。しかし、その攻撃は擦りもせず、逆に急接近された挙句に首を掴まれ、提督の本名を言われたことによって現実に引き戻されてしまった。
そして、ギリギリ限界だった心が、壊れた。
「は、はは、そんなの、そんなの認めたくない……姉さん、姉さん……私の、私の憧れの姉さんが……」
海風の手の甲から、黒い泥が溢れ出た。それは、山風が数回見たことがある泥とはまるで違う、あまりにも勢いが強い溢れ出し方だった。
これまでは、心が壊れようとしていてもギリギリで踏みとどまることが出来ていた。春雨を探し求めている時でも、希望を無くさずに精神を擦り減らしながらも何とか前を向き続けることが出来ていた。
しかし、今回は今までの衝撃とはあまりにも違っていた。春雨と同じように深海棲艦化しているのを見つけただけならよかった。その心が壊れていたとしても、春雨と同じように艦娘の心を失っていなければまだマシだった。
侵略者気質を得て、自分達の敵として立ちはだかり、こちらへの攻撃を楽しんでいる姿はダメだった。もうそれは壊れているという問題では無い。極端な言い方だが、
「おっとぉ、ここで溢れ出してくれるんだ。痛めつける手間も省けていいね。さっすがあたしの妹! 死なずに溢れるなんて便利で素敵だよ」
白露はそれを大喜びで見守る。こうなってしまったらもう止められないと、掴んでいた首を解き放ってその場に放り投げた。
人質みたいなものなのに随分と余裕のある動きだが、これだけ勢いよく溢れ出したらもう元には戻れないとわかった上での行動だろう。もしくは、別の理由があるのかもしれないが。
「海風姉!?」
宗谷を江風と涼風に任せた山風は、そんな海風を見てすぐさま駆け寄る。しかし、白露がそれを許そうとはしない。
「ちょっと山風ぇ、繭になるの邪魔しちゃダメだよ。
当たり前のように山風に主砲を突き付けるが、今までに見たことのないような表情で睨み付けると、その瞬間に白露に向かって数発の砲撃が放たれていた。普段後ろ向きで人よりも前に出ようとしない山風が、初めて燃え滾る怒りを露わにしたことで、予想以上の力を発揮していた。それが自分の姉であろうとも、海風を傷付けた時点で敵として認定し、誰もが躊躇した殺意のこもった攻撃を真っ先に実行。
「おおっと!?」
「どいて」
ハッキリと拒絶の言葉を白露にぶつけてから、黒い繭が腕を包もうとしている海風に駆け寄る。
ゾクゾクとした快楽が白露の身体中を駆け巡った。自分の攻撃によって泣き叫ぶ艦娘を見るのも快楽の1つとなっていたが、弱いと思っていた相手が噛み付いてきたのはもっと興奮する。そして、山風を殺したいという気持ちでいっぱいになった。
「山風ぇ、それは聞けない相談だなぁ! あたしと
「やらせるわけっ、ないでしょ!」
そこに体勢を整えた島風が、連装砲ちゃんを従えながら突撃。山風がこの白露を殺すという判断をし、友達である海風が危機に瀕していることを察知したことで、島風もキレていた。
キレながらも冷静に、そして元艦娘ではなく深海棲艦を相手にしていると気持ちを整理し、完膚なきまでに叩き潰すつもりで改めて攻撃を再開した。
「ったく、あたしは自分の妹と殺し合いをしたいだけなのに、なんでアンタなんかとヤり合わないといけないのさ。でも、アンタも
海風はそのままでも構わないし、山風は別に後からでもいいと考えたようで、向かってきた島風と改めて対峙する。島風の思惑通りに、白露は引きつけられる。
だからその間に海風をどうにかしてほしいと、山風に心の中で託した。いくら友達になれたとしても、ああなっている状態で立ち直らせることが出来るのは、最も親密であろう実の妹がベストだ。その位置に立つことは、島風には出来ない。
「千歳姉ちゃん、千代田姉ちゃん! 空襲こっち!」
「やりたいのはやまやまだけど!」
「制空権維持するのに手一杯なの!」
すぐさま空母達にも指示を飛ばす。その空母達は、古鷹から発艦された艦載機の対処でいっぱいいっぱいだ。そして古鷹本体も、金剛と比叡が二人がかりでどうにか持ち堪えているレベル。
古鷹は、戦艦2人と空母2人をたった1人で手玉に取っているのだ。まだ手を抜いているようにすら見える。しかし、金剛と比叡は全力。少しも力を落としていない。
「戦艦と空母が相手とはいえ、私は格上ですから。あの戦艦棲姫とはわけが違いますし。艦娘には負けませんよ私は」
「Shit. 何も言い返せないネ。こっちは全力なんだけどネ!」
「全部撃ち込んでもっ、こんなに当たらないなんて……!」
金剛も比叡も鎮守府ではトップクラスの戦力だ。強大な敵が現れた時は必ず2人が出撃するようになっているし、それでいくつもの戦いを潜り抜けてきている。
しかし、今回は今までとは明らかに違っていた。艦種詐欺が横行している深海棲艦だとしても、この実力差は何かがおかしい。たった1人に対して、ここまでどうにも出来ないというのは今までに無かった。
金剛は自分の身に降りかかったことで、この古鷹が駆逐隊を全滅させたのだと理解した。自分達でこれなのに、哨戒用の装備だった駆逐艦がまともに戦えるわけがない。
「まぁ、好きにやってください。それでも全く歯が立たないとわかれば、自然と心は擦り減りますからね。どうぞどうぞ、全力で戦ってください。圧倒的に捻り潰しても、面白くありませんから」
「言ってくれますネ」
「だってそうでしょう。その結果があの子……白露さんなんですから」
わかっていたことだが、この古鷹が駆逐隊を全滅させていた。自分の口からそれを伝えてくるのは、余程の自信があるということだろう。
慢心しないように慎重に行くところがあるものの、格下だとわかるとなめてかかる。元は古鷹とは思えないくらいに傲慢な心が芽生えていた。
「あの時は5人のうち1人は致命傷を与えて逃しちゃいましたけどね。まぁあの怪我なら生きてはいないでしょうし、何も問題はありませんが」
終始表情を変えず、薄ら笑いを浮かべている古鷹に対して、金剛もそろそろ限界だった。仲間を殺されただけならいざ知らず、その在り方を侮辱するような言動は、到底許されるものではない。
本来の艦娘としての古鷹は、決してこんなことは言わないし、思いすらしない。仲間思いで、常に周囲に気を配る大天使と呼ばれた古鷹が、いまや
「海風姉! ダメ、ダメだよっ!」
白露を島風が引きつけてくれたおかげで、山風は海風に触れることが出来た。しかし、海風は壊れたように泣きながら笑うしか出来ていなかった。
泥が腕を包んでいく。しかし、それを振り払うようなこともせず、受け入れてしまったかのようにびくともしない。そちらの方に視線すら動かない。
「姉さん……姉さん……姉サン……」
ただぼんやりと、目の前の山風すら視界に入らずに、姉のことを呟き続ける。
「春雨姉が待ってるの! 海風姉、折れないで!」
必死に訴えながら。腕に纏わり付く泥を引き剥がそうと強引に手で払っていく。山風のその行動で、一部の泥は腕から弾き飛ばされ、海風の肌から離れた瞬間に霧散するのだが、次から次へと泥が溢れ出してくるため、山風の手だけでは全部を払い除けることは出来ない。
「ダメ! 海風姉は深海棲艦になっちゃダメ! 春雨姉が、春雨姉が悲しむ!」
海風に対しては春雨の名前を出すことが最も効果的であることくらい、山風にはわかっていた。
自分も海風に対して仄かな想いを寄せているが、それ故に海風の想いが春雨に向いていることも理解している。だからこそ、ただ見守るという選択を取っていた。海風が幸せになれるならそれでいいと、笑っている海風が見られるだけでいいと割り切って。
しかし、こんな巫山戯た理由で笑顔が奪われ、艦娘すら辞めさせられるなんて許せない。適切な処置をすれば、海風は海風のままで深海棲艦化するかもしれないが、それはダメだ。どうしても心は壊れているし、知っている海風からかけ離れる可能性だってある。
「海風姉、しっかりして! お願いだから、あたしの声を聞いて!」
出来る限り素早く腕の泥を払い除けながら、煩いくらいに叫び続けて、海風の心に届くように訴え続けた。その言葉を海風が聞いてくれなければ意味が無いのだが、それでも絶対にやめない。
「姉サン……姉サン……」
どれだけ訴えても、海風は壊れた人形のように同じ言葉を呟くだけだった。こうなってしまうと、泥の進行もどんどん速くなっていき、山風1人だけではどうにも出来ない。払えば払うほど溢れ出して、そのうちにもう片方の手の甲からも泥が溢れ出す。両腕になってしまっては、もう止められない。
「海風姉! 目を、目を覚まして!」
それでも諦めない。きっと声は届くと必死に叫ぶ。
「山風の姉貴! 江風達も手伝う!」
「海風姉を深海棲艦にはさせねぇやい!」
ここで宗谷を引っ張っていてくれたはずの江風が海風に駆け寄ってきた。江風だけではない。涼風も、宗谷も、海風を救うために撤退を取り止めてしまった。
「とりあえず払えばいいんだよな!」
「お願い! あたしだけじゃ止められない!」
なんで逃げていないんだと叫びたかったが、今は誰の手助けでもありがたい。一度壊れた心は元に戻らないことはわかっているが、妹達からの言葉、それも1人だけでなく3人分の言葉があれば、海風だってきっとそれを耳に入れてくれる。
「海風の姉貴! しっかりしろ! 江風達を引っ張ってくれる姉貴だろうが!」
「あたいらもあんなもん見せられたらキッツイけど、海風姉はもっと強いヒトでしょうが! しっかりしろい!」
「海風姉! お願い、負けないで!」
3人がかりで声をかけ、溢れ出る泥を払い除け、海風が真に壊れるのをどうにか防ごうと頑張るのだが、海風にはその全てが届いていない。
心が壊れ、憧れが砕け散り、絶望と喪失感に支配されているのが原因だった。寂しさとは違う、目の前が真っ暗になる心境。
溢れた感情は『絶望』。
唯一縋れる相手がいるはずなのに、今ここにいないことで、海風は失意の沼に呑まれている。ここに春雨がいれば、また違ったかもしれない。しかし、それは望めない。真の意味で、
「ンだよコレ! 泥が溢れンの速すぎンだろ!」
「くっそ、間に合わねぇ!」
3人がかりの救出も、結果的にはなしのつぶてだった。時間を稼ぐだけ稼いだが、海風の絶望は底が深すぎた。今までの憔悴と疲弊が全て溢れ出ているようなものだった。真面目故に、折れた時の酷さは半端では無かったのである。
「あ、ああっ、海風姉……海風姉ぇ!」
山風の叫びも虚しく、泥は腕だけでなく首や足からも溢れ出てしまい、一気に身体を包み込んでいく。
こうなってしまったら、もう手の尽くしようが無かった。諦めたくない一心でずっとずっと泥を払い除けていたが、進行速度が数倍に膨れ上がったことでもう間に合わず、最後は払い除けることすらままならなくなり──。
「うそ……海風姉……うそでしょ……」
海風は、完全な黒い繭と成った。まだ諦めることが出来ず、その繭を引き剥がそうと掴み掛かるが、どんな素材で出来ているのかはわからないくらいに硬く、山風の爪が割れてしまいそうになる。
「山風の姉貴……こうなっちまったらもう……」
「諦めない! 諦めたくない! 海風姉は、まだ!」
「歯が立たねぇんだから、諦めろい!」
涼風が山風を繭から引き剥がした。その涼風だって、海風が救えなかったことで涙を堪えているのがわかる。江風だって諦めたくは無かったのだろう。口の端から血が滲む程に、唇を噛んで耐えていた。
「こうなったら、施設に運んで適切な処置をしてもらった方がいいよ。春雨姉だって、あたいらの知ってるままだったんだ。カタチは変わっても、海風姉は海風姉でいてくれる。それとも何かい、山風姉は海風姉が艦娘のままじゃないとダメだってのかい!」
涼風の叱咤で山風も正気に戻る。こうなってしまったのなら、次善を尽くすのが海風のためだ。これで処置すら怠ったら、海風は本当に海風で無くなってしまうだろう。それこそ、白露のように。
涙が溢れる眼をグシグシと拭き、きっと強い意志を表情から溢れさせる。自分も壊れるわけにはいかなかった。辛いが、前向きに生きなければ海風のためにならない。
そして、この戦いに新たな参加者が現れた。
「……その繭、誰」
現れたのは、春雨。いつもの駆逐艦を引き連れて、この戦場に現れたのである。