休日のトレセン学園。いつもは賑わいを見せる広大なコースも今は静寂に包まれ、冷たい風が小鳥のさえずりと共に過ぎ去ってゆく。結露した水滴が芝を濡らし、朝日を受けてキラキラと輝きを放つ。
その中をひとりのウマ娘が疾走していた。栗毛のロングヘアーをたなびかせ、濡れた地面をしっかりと踏みしめながらターフを駆ける。全力ではないものの、ハイペースで走る彼女に一切の乱れはなく、時計が針を刻むように正確に軌跡を描いていく。
それをサングラスをかけたひとりの男が見つめていた。フライトジャケットを羽織り、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、獲物を見定める猟犬のごとく鋭い視線を向ける。やがてペースランニングを終えたウマ娘が息を整えながら男の元へ向かい、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……、どうでしょうか? どこか直したほうがいいところはありましたか?」
「いや、非の打ち所がない完璧な走りだった。むしろ着実に良くなっているぞ、スズカ」
目の前のウマ娘、サイレンススズカに向かってサイファーは微笑みながら答える。
「こんなことなら、休日はもっとゆっくりしていても良かったんじゃないか? うちは平日のトレーニングが厳しい分、休日はきっちりオフに設定している。向上心が高いのはいいことだが、無理をしすぎても良くはならない。コンディションを保つのも立派なトレーニングのうちだ」
「分かってはいます。トレーナーさんやサブトレーナーさんが私たちの体調を気遣ってくださっているのは嬉しいですし、感謝もしています。でも、私、デビュー戦からずっと勝てていません。だからもっと頑張らないといけないと思って。休日にまで付き合わせてしまって本当にすみません」
「いや、君は悪くない。君が勝てないのは俺たち指導者側に問題がある。君の脚質に合わない走りを強要させて、気持ちのいいレースをさせてあげられないでいる。許してくれ」
「そ、そんな! 謝るのは私のほうで、サブトレーナーさんは何も悪くありませんから!」
スズカに深々と頭を下げるサイファーを彼女が慌てふためいて制止する。
彼が所属するチームのホープであるサイレンススズカ。彼女の走法は誰よりも前を走り、そのままゴール板へと駆け抜けていく"逃げ"のスタイルだった。選抜レースで見せた彼女の圧倒的な走りは、今でもサイファーの脳裏に焼き付いている。
だが常に全力で走る分、脚には莫大な負荷がかかり、強度がなければやがて自壊する。サイレンススズカの脚には、彼女自身の走りに耐えられるほどの強靭さは備わっていなかった。
「それでも、責任は俺たちにある。いくら君を守るためとはいえ、よりにもよって"差し"だからな。前に出たいという気持ちも押さえつけられて、バ群に埋もれるストレスだって相当なものだろ。正直、君がキレて一発ブン殴られるのも覚悟している。でもトレーナーには手を出さないでくれよ。あの人ほどチームメンバーのことを大切に思ってる人はいないからな」
「ちょ、手なんて出しませんし、出せませんよ。私ってそんなことするウマ娘って思われてるんですか? そっちのほうがショックです」
「流石にそこまでは思ってないさ。でも君にそんな思いをさせるのも、もう終わりになるかもしれない。年が明ければ新しい展望はきっと開ける。その時こそ、本当のサイレンススズカのお披露目になるだろうな」
「どういう意味ですか、それ?」
サイファーの言葉に気を悪くし、拗ねてそっぽを向いていたスズカの耳がピクリと動く。
「脚に問題を抱えるウマ娘。彼女たちにかかる脚の負荷を可能な限り低減し、故障の発生を抑える療法が確立されつつあるんだ。それがあれば、もう君に我慢なんてさせない。ありのままの君でいさせることができる」
「ありのままの、私……」
「そうだ。そんな君の姿をみんな見たがってる。だからもう少しだけ辛抱してくれ。来年にはその療法を元にトレーナーが道筋を立ててくれる。そうなれば天皇賞だって宝塚だって、もしかしたら有馬の舞台でだって走れるかもしれない」
悲運のウマ娘を救うことができるかもしれない夢の療法。この世界のサイファーの命の恩人であり、肉体の限界を超えることを標榜するひとりのウマ娘の研究に彼は全てをつぎ込んできた。
戦場を駆け抜けた自分の体、レースでトレーナーに支払われる報奨金、鬼神としての戦闘経験まで、役立ちそうなものは全て彼女に与えた。その甲斐あって研究は飛躍的に進み、現実のものとして完成しようとしていた。
興奮気味に電話口で経過報告する彼女を思い出し、サイファーは軽く笑いそうになる。これでやっと彼女の恩に報いるだけでなく、これまで世話になったウマ娘たちに貢献することができる。破壊ではなく希望をもたらす。この世界に来た意味を見出すことができる。そんなことを考えていると、不意にスズカが顔を覗き込んできた。
「サブトレーナーさん。その、何か悲しいことでもあったんですか?」
「ん? 何だ突然?」
「何となく、さびしそうな顔をされてます。やっぱり、あの噂は本当なんですか?」
「噂?」
「はい。サブトレーナーさんがチームを抜けるって。みんなも口には出さないけど気にしています。トレーナーさんと折り合いがつかなくなって、追い出されることになったんじゃないかって」
気まずそうにうつむくスズカに、サイファーは己の迂闊さを呪った。感傷に浸っていた際に顔に出てしまっていたか?
「落ち着けスズカ。君たちが心配するようなことは何もない。ほら、顔を上げてくれ。今からちゃんと話すから」
なおも不安そうに彼を見つめるスズカに座ることをうながし、二人して傍にあったベンチに腰を下ろす。
「まず最初に言っておくが、今回の取り決めに関して私怨とかそういった感情は一切ない。むしろ当事者から求められて決めたことなんだ」
「……そうなんですか?」
「まずはうちのトレーナーだ。酒の席に呼び出されて、何事かと思って話を聞いていたら宣戦布告された。今までは助けられてきたけど、これからは全身全霊をかけてあなたに挑戦する。もう鬼に金棒だなんて言わせない、だと。そんなこと言われたら、もう後に引けなくなってしまってな。彼女と一緒に飲んでいた奴も呆れたように笑ってたよ」
「それは、何というかあの人らしいですね」
「そうだな。高潔で誇り高く、俺みたいな根無し草を拾ってくれる度量も持ち合わせいる。だからこそ彼女のチームは学園トップで、集うメンバーも強いんだろうな。そんな彼女の言葉もあったが、実は理事長のほうからも打診があったんだ。チーム一強の状態のトゥインクル・シリーズに鬼を放り込むことで、業界の活性化を図りたいらしい。トレーナーへの昇格条件を満たしていたことも引き合いにだされてな。雇われの身としては、ボスの意向には可能な限り従いたいんでね」
――決定っ! 辞退は許可できない! 全力で受諾せよ! トレセン学園の小さな理事長の大声が脳に反芻する。チームのトレーナーも彼女も、サイファーにただならぬ期待を寄せている。それを無下にすることはできなかった。
「他にも色々理由はあるが、見計らったかのように、どっかの物好きが俺をモチーフにした勝負服を作りたいなんてオファーもあった。表舞台に出てない俺の存在をどこで嗅ぎつけたのか知らないが、あのビューティーとかいうデザイナー。中々に侮れないな」
求められるがまま、サイファーがチーム脱退の理由を話していく。はじめは彼に合わせて相槌を打っていたスズカだったが、やがて顔を伏せ、ポツリと漏らした。
「……でも、チームのみんなはそれで納得できるんですか?」
「……」
「確かに、サブトレーナーさんの功績が認められたのは嬉しいことです。でもあなたと一緒に頑張ってきたみんなはどうなるんですか? 中にはもっとあなたと一緒に頑張りたい人だっているはずです。それなのに急にそんな……。私だって、いつもあなたに支えられて」
スズカの膝に添えられていた拳が固く握りしめられる。彼の一方的な発言にないがしろにされていると感じたのか、理性で抑えつけていた感情が飛び出そうになっている。
「なぁ、スズカ。俺はな、ウマ娘は競い合う生き物だと思っている。いくら仲が良くて、切磋琢磨していたとしても、一度レースに出ればただ一着を目指す。親友や大事な仲間を蹴落としてでも」
「えっ?」
サイファーの突然の発言に、スズカが呆気に取られたように彼を見やる。
「でもそこには恨みも憎しみもない。負けてくやしいとか、悲しいとかは当然ある。実力の優劣も、厳しい現実もな。でも俺が今まで見てきた中で、憎悪にまみれたウマ娘は見たことがない。彼女たちは分かってるんだ。自分たちが走るのは本能で、それが崇高な使命であると。だから血まみれた闘争も、バカげた諍いも起きようがない。……俺たち人間とは大違いだ。だから君たちと向き合いたくなったんだ。共にあるのではなく、相対することで互いを理解する」
「それって、私たちのライバルでいたいってことですか?」
「無論走るのは俺じゃない。俺はトレーナーだ。また新しくウマ娘をスカウトして、君たちにぶつけることになる。そうすることでもっと知りたいんだ。君たちのことを、ウマ娘のことを。そこに関わる人間同士でも、信じあえることができるのかを。だからみんなには頭を下げて許してもらうよ。勿論君にも。チームを離れても、俺がサブトレーナーであったことは変わらない。俺にできることは何でもやらせてもらうつもりだ」
「あなたは……、一体何者なんですか?」
「ただの鬼だ。それ以上でも、それ以下でもない。戦うことでしか自分を表現できない。哀れな道化だよ」
戦争にしか居場所がなかった男が、その外側でこれまで持ち得なかった希望を抱いている。その葛藤の一端に触れたスズカが、サイファーの正体を掴もうと彼の姿を見つめる。だがその答えを得る前に、サイファーがベンチから立ち上がった。
「さて、話が長くなったな。練習再開といくとしよう。そうだな、今度はレース形式。相手は、俺でいいな。あそこの坂路の手前まで先に着いたほうが勝ちだ」
「えっ、トレーナーさんと走るんですか? それだとレースにならないんじゃ……」
「何を言ってる? 君もウマ娘ならつねに全力でレースに勝ちに行け」
「全力で、ですか?」
「そうだ。俺が許可する。今は君が思うがままに走って見せろ。よし、いくぞ。位置について、よーいドン!」
「えっ、ちょっ」
返事を待たず、サイファーが全力で駆けだす。一瞬でも前に、ウマ娘の先頭へ。だがそのリードはすぐに覆された。彼のすぐ横で栗色の風が吹き抜け、はるか彼方へと消えていく。ひたすらに速い。スズカ本来の逃げの走りに、サイファーは走りながら頷いた。
(そう。今はそれでいい。それしかないんだ、スズカ。境目も何もかも跳び越えて、君はただ前に進んでゆけ)
今の彼女にしがらみはない。スタートもゴールも、トレーナーもチームメイトも、競争相手すら置き去りにして、スピードの向こう側、サイレンススズカだけの景色を目指していく。
ウマ娘に境目など関係ない。そんなものは簡単に抜き去れる。醜いパイの奪い合いも、XB-0も、V2もモルガンも必要ない。国境など消さずとも、血など流さずとも、かつての相棒と殺し合いを演じずともよかった。
――皮肉だな。あんたが選んだ道がこんな形で否定されるなんて。でもあんたも本当は信じていたんだろ? 人の持つ意志と、その可能性を。だから俺も探してみるよ。あんたが確かめたがっていた答えを。その先にある真実の意味を。ガルム1として、ウマ娘のトレーナーとして。
気高く、美しく、残酷な現実をサイファーは置き去りにすることなく、その身に抱え込みながら、スズカの背中を追いかけていった。
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少し展開がやや重になってしまいましたが、このままマイペースで進めていきたいと思います。