「ヴぇ~、ターボもう動けない……。……よう、マヤノ。まだ走れるか?」
「ぜぇ、ぜぇ……、もうム~リ~! スズカさんったら、途中でマヤたちがいるの完全に忘れてたでしょ。鬼だね、鬼」
「鬼? それってトレーナーさんとお揃いってこと? それはそれで嬉しいかも」
放課後、学園のコースの脇で屍のように横たわるルーキーたちと、嬉しそうにはにかむスズカを見ながら、サイファーはため息を吐いた。マスコミとライバルたちの目を逸らすため、ブライアンとヒシアマは別の場所で併走トレーニングを行っている。相手はブライアンの強化のために集めた面子だが、脚質の近いヒシアマにも得るものがはずだった。
「おいスズカ。今回はペースランニングだが、タイムではなくマヤノやターボたちとの距離を保つことが目的だったはずだよな? 何故途中で彼女たちを引き離すような真似をした?」
「す、すいません。走っているうちに以前よりも体が軽くなったといいますか。脚だけじゃなく、全身から力がみなぎるを感じてつい気持ちよくなっちゃって。我を忘れて夢中になっちゃいました」
サイファーの問いかけに、頬を上気させたスズカがためらいがちに答える。
「体が仕上がってきたということか。それは喜ばしいことだが、今後は逃げるだけじゃ厳しくなる戦いも増えてくるはずだ。君と同様に大逃げをかませる奴が相手だった場合、ハナの取り合いが何よりも重要になる。君の景色を他者に侵されないように、今から駆け引きを学んでおく必要がある。分かるな?」
「は、はい。でも正直実感が湧かないんです。レースで大逃げをしても誰もついてこないし、トレーナーさんにスタミナを重点的に鍛えてもらって、息切れもしにくいようになっています。それでも私についてこられる相手がいるんですか?」
驕りではない。逃げに転向してからずっと先頭を駆け抜けてきた彼女だからこその疑問だった。迷うことなくサイファーが頷く。
「確実にいるだろうな。俺が知っているだけでもメジロに一人、リギルに一人。遠くない未来にもう二人、誕生するかもしれん」
そう言って、彼がいまだにバテているルーキーたちに目を向ける。
「あの子たちが、ですか?」
「そうだ。ターボは君のような大逃げをかましたいと思っているし、マヤノも脚質を選ばない走り方ができる。先行だけでなく、逃げ、差し、追込。選り取り見取りだ。彼女が君やターボのように逃げに興味を持ったら、どう化けるか予想もつかんな」
「……例えそうでも、先頭の景色を譲るつもりなんてありません。ましてやあの子たちになんて」
「そいつは頼もしいな。だが君にそうさせるためには、俺があいつらをうまく育てられなければならない。本当の意味で、これが俺のトレーナーとしての第一歩になる」
サイファーが拳を握りしめる。今まではリギルのサブトレーナーとして、チームのトレーナーである東条ハナを補佐してきた。ウマ娘のあらゆるデータを数値化、見える形で分析したハナが育成方針を決定し、ウマ娘の弱点を見抜き、戦闘での駆け引きに長けるサイファーがそれらに修正を加える。情報と経験の融合。それこそがリギルの強さの源であり、最強を最強たらしめる理由だった。
(今まではリギルという下地があったからこそ、ブライアンやスズカたちを勝たせることができた。しかしマヤノたちにはそれがない。これから先、俺の経験だけで彼女たちを導くことができるのだろうか?)
ひとりでチームを率いるようになって初めて、サイファーはトレーナーという職業の難しさと責任の重さを感じていた。ウマ娘を勝たせるためには、強く育てる必要がある。それができなければ、彼女たちは敗北にまみれることになる。負け続け、自身の意義を見失い、学園を去っていくウマ娘たちを彼は幾度となく見てきた。
(ひとりであれば、自分の身さえ守っていればいい。……今の俺は違う。単なる小娘のお守りじゃなく、彼女たちの人生を背負っている。彼女たちと共に、俺は生き残らなければならない。これで不死身のエースとは、笑わせてくれるな)
ふと彼女たちを見てみると、対抗心を燃やしたスズカが息が整ったマヤノたちを急かすようにランニングを再開していた。片羽の逃亡者の大逃げを成立させるためのスタミナトレーニング。スズカの強化だけでなく、新人たちの体作りを兼ねたそれは必要不可欠だと確信している。だがトレーニングメニューを作成する度、リギルならもっと巧くやれるだろうと考えてしまう。
これではダメだ。何事も迷いを抱いたままでは足を掬われる。自分に活を入れ、担当ウマ娘たちのトレーニングに集中しようとする。直後、彼の携帯端末がメッセージを受信した。
――トレーニングが終わった後、時間ある? チーフがアンタに話があるって。ブライアンさんとスズカも連れてきて。 あと、昼休みの、どう意味か聞かせてもらうから。 メジロドーベル
後半の動揺が見て取れる文章を見て、サイファーは思わず空を仰いだ。
「急に呼び出してしまってごめんなさいね。なるべく早く話したかったものだから」
「いえ。ちょうど、こちらもあなたにお話したいことがありました。お気遣いは無用です」
夕陽が差し込むトレーナー室。部屋の主であるメジロドーベルのトレーナー、チーフの歓待を受けたサイファーたちがソファーへと腰掛ける。表面上は和やかなムードだが、数週間後に宝塚記念を争う相手同士が密談などただごとではない。サイファーの両脇に座るガルムのウマ娘たち、ブライアンは意識を研ぎ澄ませるように目をつむって腕を組み、スズカは困惑しながらトレーナーたちを交互に見つめる。それをよそに、テーブルを挟んで対面した彼らは会話に花を咲かせる。
「お昼のミーティングの時にうちの子たちに聞いたのよ。ターミちゃんが貴方に宣戦布告したってね。気に障ったのなら謝るわ」
「気に障るどころか、むしろ助かりましたよ。対戦相手の現状が分かりましたから。ターミネーターも油断ならないが、特にドーベルはオークスの時より一段と仕上がってきている。ライバルとしても嬉しいし、アナタの手腕にはいつも脱帽させられる。胸を借りるつもりで挑ませていただきます」
「あら、そう? 新進気鋭のガルムのトレーナーさんにそこまで思ってもらえるなんて私も鼻が高いわ。それにベルちゃんもね。貴方、ついにあの子に告白したそうじゃない。これで貴方も晴れてメジロの一員、婿養子になったとあればあの人、ご当主もお喜びになるでしょうね」
「……は?」
いたずらっぽく笑うチーフにサイファーは面食らう。そのようなことをした覚えはない。記憶の糸を手繰ろうとした瞬間、両肩が物凄い力で掴まれる。
「……おい、トレーナー。一体どういうことだ? アンタがメジロの世話になっているのは知っていたが、婿になるなど聞いていないぞ?」
「ウソでしょ、トレーナーさん? 女性に興味がないと言っておきながら、よりにもよってドーベルですか? 私たちを置いて逃げるつもりですか?」
ブライアンとスズカが非難めいた視線でサイファーを睨む。殺気すら孕んだ二人の様子に、サイファーは思わず舌打ちしそうになる。普段は寡黙なウマ娘たちだが、鬼神の過去と女性関係の話になると掛かり気味になる。
「落ち着け。何度も言うが、俺が誰と親密になろうと君たちには関係ないだろう。それに色恋沙汰などには絶対にしない。特にライバルになりうる存在とはな。情けは甘さとなり、油断を生む。それは命取りになる。だから君たちの迷惑になるようなことにはならない。それじゃ不満か?」
「どうだかな。今日の併走相手、イナリもタマモも、アンタにいいところを見せようと躍起になっていた。ただ親密というだけで、あそこまで本気になるとは思えんがな?」
「それにたまに学園に来る白衣の女の人。トレーナーさんはただの知り合いだって言ってましたけど、その割には距離感が近いですよね?」
二人を諫めるようにサイファーが答えるが、彼女たちは追及の手を緩めない。なぜそこまでムキになるのか? 年頃の少女の感情が読み切れず、叱るべきかどうか悩み始める。
「あらあら、随分と担当の子たちに慕われてるのね。こんなにヤキモチを焼いてもらえるなんて、男性トレーナーの冥利につきるじゃない」
「「っ!?」」
張りつめた空気がチーフの言葉で弛緩していく。ブライアンは赤くなった頬を隠すようにそっぽを向き、スズカは恥ずかしそうに顔を伏せる。彼女たちが落ち着きを取り戻したのを見てサイファーは安堵するが、そもそもの発端が目の前の女性であることを忘れてはいない。
「チーフ、いい加減なことを言わないでいただきたい。確かにドーベルに好意を向けられて嬉しいとは言いました。だがそれは決して愛情を示した訳ではない。彼女は敬意を表するに値するウマ娘だ。気高く、優しく、それでいて自分の弱さと向き合い、乗り越えていこうとする強さを備えている。そのようなウマ娘に認めてもらえるのはトレーナーにとって名誉なことだ。ただそれだけです」
「そう、貴方が普段仲良くしているエアグルーヴさんのようにね。……うそうそ冗談よ。そんな怖い顔をしないで」
またも爆弾を投下しようとしたチーフを睨みつけるが、それを察知した彼女が笑顔でそれを宥める。そして何かを決心したように頷くと、姿勢を正し、サイファーの目をまっすぐ見つめる。
「……そろそろ本題に入りましょうか。貴方の先ほどのベルちゃんへの評価、嘘偽りはないわね?」
「勿論です。思ったままを正直にお話ししました」
「分かったわ。では単刀直入に聞きます。貴方ベルちゃんの、メジロドーベルのトレーナーになるつもりはないかしら?」
「……何ですって」
突如放たれたチーフの言葉にサイファーたちが絶句する。オークスウマ娘、しかもこれからチームの主力を担うであろう存在をライバルに譲渡する。常軌を逸しているとしか思えない。ブライアンとスズカは呆然とチーフを見つめるが、鬼神は合点がいったかのように息を吐く。
「……やはりお体の具合が悪いというのは本当だったようですね。そこまでとは思いませんでしたが」
「っ!? 意外ね。入念に隠してきたつもりだったんだけど。どこでそれを知ったのかしら?」
「知り合いの笹は……、いえ、医療従事者に聞いたんです。最近あなたがメジロ系列の病院を頻繁に訪れていると。それに化粧で隠してはいるが、あなたの顔色は相当悪いように見える。実際にお会いして、情報が真実であると確信しました」
同じ轍を踏まぬよう個人情報は伏せて伝える。先日、バーで安心沢刺々美と飲んでいた時、彼女が不思議そうにこぼしていた。何故それを彼女が知り得たかは想像したくもないが、それが事実だとすれば、ス―ターミネーターたちの異様なレースの出走率にも説明がつく。
「あなたも担当たちには慕われているようだ。あなたがどうにかなってしまう前に、花を持たせようと無理を通していたんでしょう。そもそも、あなたが万全の状態であればそんなことは絶対にさせない。彼女たちを扇動したのは、サブトレーナーの彼ですか?」
「……ターミちゃんよ。そもそも、私が体調を崩したことを知っているのはあの子とサブトレーナー君だけ。レースで経験を積んで強くなって、宝塚で貴方たちを倒す。私がトレーナーであるうちにそれを成し遂げるんだって息巻いていたわ。サブトレーナー君もそれを叶えてあげたいって私に頭まで下げてきて。テルミちゃんも、ターミちゃんを実の姉のように慕っていますからね。事情は知らずとも、あの子と同じレースに出て切磋琢磨しているわ」
「あなたがトレーナーであるうちに? まさか、引退を考えておられるのですか?」
「お医者様に言われたわ。これ以上無理ができる状態ではないと。残念だけど、年を取るとはこういうことなのよ」
「……そう、ですか。もっとあなたには色々と教わりたかった」
サイファーがトレセン学園に雇われてから、彼女は特異な存在である彼と友好的に接してくれる数少ない人間のうちのひとりだった。ウマ娘の知識だけでなく、トレーナーとしての心構えなども手解きしてくれた。
「チームはどうなされるおつもりですか? サブトレーナーが引き継ぐのであれば、ドーベルをこちらにくださる理由はないと思いますが?」
「勿論、チームはサブトレーナー君に引き継がせるつもりよ。ターミちゃんもテルミちゃんも、彼が担当しているウマ娘だから、そのまま残留することになるわ。でもベルちゃんは貴方でなければ駄目なのよ」
「何故です? 彼に何か問題でも?」
「貴方も知ってるでしょ。ベルちゃんは極度の人見知りなのよ。特に男性の場合は、メジロの使用人やご家族以外のほとんどの人に恐怖心を抱いている。サブトレーナー君はまだマシだけれど、信頼されるまでには至っていないわ。でも貴方は違う。親交が深いし、実力だって認められている。私も貴方以上の適任はいないと思っているわ。……どうかしら? この話、受けてもらえないかしら?」
頭を下げるチーフを前にサイファーは考える。確かに、もっともらしい理由に思える。レースを走るウマ娘たちにとって、トレーナーとの相性は何より重要だ。ほとんどの場合、ウマ娘はトレーナーと契約し、自身の力を高めようとする。信頼、協同、従属。関わり方はそれぞれだが、足並みが揃わなければ躓く点は変わらない。例えドーベルが優れていても、トレーナーとの相性が悪ければ潰れるのは目に見えている。
「……残念ですが、その話を受けることはできません」
それでも、サイファーは首を横に振った。両脇のブライアンとスズカが意外そうな顔をする。
「……どうしてかしら? 貴方はベルちゃんのことを認めているんじゃなかったの?」
「その通りです。だが私はお人好しじゃない。他所のチームの問題を背負うほどの余裕はないし、こちらはすでに五人も抱え込んでいる。その内の二人はデビューもしていない新米だ。私が今すべきなのは情に流されることではなく、彼女たちを勝たせることです。今のガルムには、六匹目の番犬は必要ないんですよ」
サイファーの言葉にチーフが沈黙する。
「私だけじゃない。他に良さそうなトレーナーならいくらでもいるでしょう。東条ハナ、リギルにはドーベルの敬愛するエアグルーヴがいる。メンバーが足りず、困っているトレーナーだっている。チームスピカの」
「いいえ。駄目なのよ。それでは」
チーフが話を強引に打ち切った。弱々しく、それでいて強い意思の宿った口調にサイファーが驚く。
「貴方の言いたい事は分かるわ。貴方はリギルで経験を積んでいるけど、トレーナーとしてはひとり立ちしたばかりの身。そんな状態でベルちゃんまで担当したら、チームのみんなを駄目にしてしまうかもしれない。貴方は優しいから、心を鬼にして非情に徹しようとしている。違うかしら?」
「……」
「それにね、他にもあるの。ベルちゃんのトレーナーが貴方でなければならない理由が。私自身、本当は信じられないし、バカげていると思われるかもしれないけれど。……ひとつだけ、質問に答えてもらえないかしら?」
一瞬チーフが何かを恐れるように逡巡する。そして覚悟を決めたように鬼神を前に見据え、言い放った。
「貴方が乗っていた青い翼のイーグルと、相棒さんの片羽の赤いイーグルは、今も円卓の空を飛んでいるのかしら?」
いつもお読みくださる方々、感想を書いてくださる方々、誠にありがとうございます。
アプリで大逃げを習得できるのはスズカ、パーマー、ヘリオスとすでに三人出揃っていますが、近いうちに実装されるであろうターボも当然習得できるはずなので、それまではこちらも創作活動を頑張っていきたいと思います。