六月下旬、晴れ。良バ場に恵まれた阪神レース場に続々と観客が押し寄せる。今日の大一番、宝塚記念。芝2200メートルの舞台を、ファンの夢を背負ったウマ娘たちが駆け抜ける。眠りから覚めた怪物、ナリタブライアン。快進撃を続ける逃亡者、サイレンススズカ。トリプルティアラの女帝、エアグルーヴ。期待の新星、メジロドーベル。その瞬間を見届ける、期待と興奮で場内は賑わい、ボルテージが徐々に高まっていく。
そんな喧騒から離れた場内の関係者席に、ひとりの女性が佇んでいた。メガネをかけ、グレーのパンツスーツを着こなす姿は、知的でクールな印象を醸し出している。それを裏付けるように、落ち着いた様子で手元のタブレットの操作し、映し出されたレースの情報を精査していた。そこにサングラスをかけた男性が近づいてくる。
「よう、トレーナー。相変わらずデータの確認に余念がないな。だが、ここまで来たら後はエアグルーヴを信じるだけ。違うか?」
「……そうはいかないわよ。どこかの誰かさんが何をしでかしてくるか分からない以上、見落としがないか確認する必要があるわ。それに、あなたはもうリギルじゃないはずだけど?」
「つれないことを言うなよ。安田記念の時は運が良かっただけだ。彼女なら俺が何をやっても即応してくる。だろ、ハナ?」
「はぁ……、あなた変わらないわね。チームを抜けても、あの子たちへの信頼は揺るがないってわけ? 全く、あなたのどこが鬼なんだか」
女性がタブレットを閉じ、呆れたようにサイファーを見つめる。東条ハナ。トレセン学園所属、チームリギルのトレーナー。かつて鬼神と組み、今では最強のライバルである女。
「あんただって似たようなもんだろ。フジキセキが回復してから二冠を達成できたのも、あんたが彼女へのケアを欠かさなかったからだ。あんたを冷淡だなんて言う奴もいるが、担当のことを誰よりも大事に思ってるからこそ、彼女たちを厳しく律している。そんなあんたから、俺はトレーナーとして在るべき姿を学んだんだぜ」
「おだてても何も出ないわよ。それにあの子があそこまで成果を出せたのは、あなたに認められたかったからよ。ルドルフ、エアグルーヴ、ブライアン、ヒシアマゾン。あなたが面倒を見てた子たちはみんな三冠やトリプルティアラを掴んできた。特にヒシアマゾンには同じ寮長として対抗心を燃やしてる。みんなもそうよ。あなたがリギルを抜けてからも……、いえ、何でもないわ。忘れてちょうだい」
そう言ってハナがバツが悪そうに顔を背ける。平静を装っているが、その裏に隠された感情をサイファーは理解していた。不安、迷い、苛立ち。いずれも彼がこの前まで抱いていたものと同じだった。
(らしくない、とは言えんか。……案外俺たちは似た者同士なのかもな)
マヤノとターボの育成方針に迷いを抱いていた時、彼は東条ハナの存在を意識していた。体の一部を失ったかのような喪失感。今まで協働してきたことをひとりでこなさなければならない重責。もしやと思いレース前に様子を見に来たが、彼女もまた同様の思いを抱いていたようだった。
「三冠か。俺にとってはただの通過点、勝利の結果の副産物に過ぎん。別にそんなものにこだわらなくとも、フジが偉大なエースであることは十分に承知しているつもりだ。それよりも、あんたらがチームを抜けた俺に未練を感じていることのほうが問題だと思うが? 今のリギルは東条ハナだけのものだ。あんたが決め、彼女たちが従う。隣にいた奴はもういない。鬼に金棒じゃないんだろ? 一度やると決めたなら、ライバルである俺たちガルムを叩き潰してみせるんだな」
「っ! 分かっているわよ、そんなことは!」
「ならいい。今日の勝負、楽しみにしてるぞ」
図星をつかれたハナがサイファーを睨みつけ、その視線、意思を受け止めた彼が踵を返す。そのまま立ち去ろうとして、躊躇いがちに足を止める。
「……迷っているのなら、あんたの仲間を頼ればいいんじゃないか?」
「えっ……」
「シンボリルドルフ、マルゼンスキー。俺が手放してしまった最強のウマ娘たち。彼女たち以上にレースに精通している奴はいない。これを利用しない手はないだろう? 円卓の鬼神だってずっとひとりで戦ってきたわけじゃない。心強い仲間がいたから、生き残ってこれたんだ」
傭兵稼業では昨日の友が今日の敵になっていることなど当たり前。下手に情けをかければ命取りになる。それでも、サイファーにはベルカ戦争を共に駆け抜けた戦友たちがいた。ピクシー、PJ、イーグルアイ。彼らの助けがあったからこそ、ガルム1は鬼神に成ることができた。
「ぷっ! あなた、もしかして私のことを励まそうとしているの? さっきはあんなに厳しいことを言っておきながら」
「別に大したことじゃないだろ。リギルにはまだ最強でいてもらわなきゃならんからな。レースではフェアな条件で勝敗をつける。そうでなければ、わざわざ独立した意味がない」
サイファーの遠回しなフォローにたまらずハナが吹き出す。
「……なつかしいわね。こんなやり取りは」
「互いに自分のチームのことでかかりっきりだったからな。あのイベントのことがなければ、顔も合わせることもなかっただろう」
「そういえば大丈夫なの、チーフのところのあの子は? 出走回避して、もし駄目でしたなんてことになったら目も当てられないわよ」
「心配は無用だ。またあいつがうまくやってくれた。今度はちゃんと奢ってやらないとな」
二人が郷愁に浸りながら言葉を交わす。道は分かれても共に進んでゆく。同じ頂点を究めんとする仲間として、ライバルとしての相手を再認識する。
「……そろそろ時間ね。さっきからあそこに立ってるあの子、あなたのところのウマ娘よね? 早く行ってあげたら? 何か怒ってるみたいだし」
「俺とあんたの仲の良さに嫉妬してるんだろ。本気でへそを曲げられたら面倒だ。俺もそろそろシンデレラのお守りに戻るとしよう」
部屋の入口で頬を膨らませるマヤノを見やりながら、サイファーが笑みをこぼす。
「今日は勝たせてもらうわよ、円卓の鬼神。あとで吠え面をかかせてやるわ」
「生憎だがそれは無理だな。他の連中共々、俺たちが喰い千切ってやるよ」
リギルのハナに別れを告げ、ガルムのマヤノの元へ向かう。浮気者、女たらしとぶーたれるウマ娘の頭を撫でながら、サイファーは今日の主役、ブライアンたちに思いを馳せた。
「ようやく、ここに帰ってこれたな」
半年ぶりの実戦、阪神レース場の地下バ道で勝負服を纏ったブライアンが感慨深そうにつぶやく。バ場から漏れてくる熱気が彼女の肌を刺激し、神経を昂らせる。それを鼻に貼ったテープに触れて落ち着かせる。
「ウォオオオオ! やっぱりその勝負服すごくカッコイイな! ターボも早く着たい着たい!」
そんなブライアンのルーティンをターボの地団太が粉砕する。目を輝かせながら彼女の周囲を駆け回り、感情を全身で爆発させる。
「……そんなに焦らずとも、デビューして結果を出せばお前専用のものを用意してもらえるだろ」
「ムぅ。それはそうだけどさ、ターボだって早く自分のエンブレムが欲しいもん! ブライアンとスズカの番犬のやつとか、ヒシアマの魔法使いのやつとか!」
「魔法使い、ソーサラーか……」
ターボの騒がしさにため息を吐きながら、ブライアンは最近の出来事を思い返す。チーフとの密談の中で判明した事実、ドーベルが鬼神の過去らしき光景を目撃した。安田記念の後、ヒシアマが紙に見覚えのないエンブレムを落書きしていた。髭を生やし、星の描かれたローブを纏った魔法使いの姿。彼女らしからぬ発想と、それを覗き込んだサイファーの顔が強張っていたのをよく覚えている。
(あれから考えていた。リギルからガルムに移るメンバーの人選、あれは本当に偶然だったのか?)
昨年末の有馬記念前、サイファーがリギルから独立すると知らされた時、ブライアンを含む一部のメンバーが追従を願い出た。彼は当初拒否していたが、噂を聞きつけた部外のウマ娘たちがアプローチをかけ始めたのと、海外からオファーがあったという出所不明の情報も飛び交ったため、状況は混迷を極めた。それを沈静化し、リギルから三人のウマ娘を移籍させることを提案したのが、リギルのリーダーであり、生徒会長でもあるシンボリルドルフだった。
(アイツの傭兵という出自を、事情を知る者がフォローする。即席で一線級のトレーナーとするためにシニア級のウマ娘をつけ、チーム内で担当していたウマ娘をそのまま引き継がせる。確かに理には適ってはいる。だが、もしそれだけじゃなかったとしたら?)
当初は自分が選ばれたことに喜んでいて気付かなかったが、今になって違和感を覚え始めた。ドーベルが見たという鬼神の幻。漠然とだが、ブライアン自身も思い当たる節がある。二機のイーグルの写真を見た時から、青い二枚羽の勝負服に袖を通してから、徐々に身に覚えのない記憶が脳裏に浮かぶようになった。ヒシアマの描いたエンブレム、ソーサラー、――オーシア、ウィザード、国境無き世界……。
(もしアマさんも同じだったら? いや、スズカもそうだったとしたら? ルドルフ、アンタは一体何を考えている?)
「どったのブライアン? お腹でも痛いのか?」
「……いや、ただ考え事をしていただけだ」
急に黙り込んだ彼女を訝しんだターボに頭を振り、先ほどまでの思考も追い払う。
(何であろうと関係ない。相手をブッちぎり、円卓で生き残る。今はそれでいい)
拳を決意と共に握り込む。考えるな。行動しろ。自分に言い聞かせて前を向く。
「おい、ターボ。そろそろ時間だ。さっさとトレーナーのいるスタンドへ行ってやれ。また厄介事に巻き込まれてるかもしれんからな」
「ウぇ!? 悪いヤツらがまたトレーナーをイジメようとしてるのか? そんなのターボが許さないぞ! ぬぉおおお、ツインターボ! エンゲージ!」
ブライアンの言葉を聞いたターボが血相を変え、バ場の方へと爆走する。
「何をしている、ターボ!? そっちじゃ……、行っちまったか。相変わらず、騒がしい奴だ」
制止を無視して飛んでいったターボに呆れながら、ブライアンは笑みを浮かべる。周りを巻き込むほどの猪突猛進っぷりには手を焼かされるが、行動力そのものは嫌いではない。鬼神が見込んだだけのことはある。彼女を連れ戻すべくターフに向かおうとして、後ろから響く蹄鉄の音に気付く。
「おい、ブライアン。先ほど不穏な言葉が聞こえたような気がしたんだが、まだアイツに詰め寄る不埒者がいるのか?」
「アンタか。問題ない、解決済みだ。さっきのはターボの早とちりだ」
「そうか、ならいいが」
ブライアンの返答に勝負服姿のエアグルーヴが安堵の息を漏らす。これから競う相手の仕上がった体に警戒と気の昂りを感じる。
「そもそも、あの大物相手に尚も歯向かおうとするヤツがいたら、それこそ見てみたい気もするがな。流石のアンタでもアイツの介入は予想できなかっただろ」
「確かに。本人はドーベルのためだと言っていたが、あの方は確実にガルムの、鬼神のことを気にかけていた。あのたわけめ、メジロの傑物の心をも堕としたというのか」
レースの数日前、突如としてもたらされた注目株、スーターミネーター出走回避の報せは学園内外とレース関係者に衝撃をあたえた。同時にチームガルムのトレーナーが彼女を脅迫したという噂が広がり、マスコミやターミネーターのトレーナー、チーフを慕う者たちがサイファーに詰めかける事態に発展した。終いには直接関係のないマヤノやドーベルたちにまで追及の手が及んだため、生徒会が事態の収拾に乗り出そうとした矢先、件の彼女が動き出した。
「どうだろうな。だがそのおかげで助かったのは事実だ。鬼神を自分の所有物のように言っていたのは気に食わなかったが、家名を触れ回ってくれたおかげで煩い連中が黙り込んでくれた。番犬を縛る鎖も、使いようということだな」
メジロラモーヌ。才色兼備、史上初のトリプルティアラを成し遂げた絶対強者。畏敬の念を感じさせるほどのウマ娘の姿が脳裏に浮かぶ。当時の出来事を思い出したのか、エアグルーヴが複雑そうな表情を浮かべるが、気持ちを切り替えるように別件を切り出す。
「ところで、肝心のスーターミネーターの様子はどうなんだ? ここ数日、療養のために欠席しているが、そちらには情報は入ってきてるんだろ?」
「あの不審者、いや、笹針師がうまくやったようだ。二週間もすれば元通りになるらしい。フジの時といい、アイツの人脈には恐れ入る」
「そうか、よかった……。まったく、あの男は。良くも悪くも人を惹きつける。フォローするこちらの身にもなってもらいたいものだ」
エアグルーヴがサイファーに文句を垂れる。その口元がわずかに緩んでいるのをブライアンは見逃さなかった。
「……その割には嬉しそうだが?」
「べ、別にそういうわけでは。ただ、あいつが次に何をしでかしてくれるのか楽しみなだけだ。あいつが動くたび、誰かが救われ、何かが動く。それは我々ウマ娘にとって良い結果をもたらす」
「だが今はアンタに牙を剥こうとしているぞ。鬼神を敵に回した時の恐ろしさは知ってるだろ? 相対した者は完膚なきまでに叩き伏せられる」
「望むところだ。スズカも、お前も、リギルにいた時とは違う。今やガルムの番犬だ。お前たちを下せば、私はもっと強くなれる」
「フッ、やってみせろよ女帝。誰であろうと、私が喰い千切ってやる」
二人のエースの視線が交差する。互いの闘志が空間で爆ぜ、火花を散らす。勝負の幕開けは、すぐそこまで迫っていた。