7月初旬。夕焼けに染まる東京レース場の本バ場に、ガルムの勝負服を纏ったスズカが佇んでいた。生い茂る草木の香りが風に乗って鼻孔をくすぐり、額にわずかに汗がにじむ。夏の到来を肌で感じながら、彼女が周囲を見渡す。客席に詰めかけたファンと関係者席に陣取る来賓たち、レース場中央に設営されたライブステージでスタッフたちがせわしなく動き回る。その一角でウマ娘たちに囲まれたひとりの男の姿を見つけ、反射的に装着した無線機のスイッチを入れる。
≪じゃあ鬼神君。報酬は一日君を独占できる権利でよろしくね。君のことを両親に話したら是非一度会いたいって言ってたし。いい機会だから、君のことをちゃんと紹介したいんだ≫
≪あら、シービー。そんなことをわざわざ報酬にするなんて勿体なくてよ。いっそのこと専属契約を結ぶくらいになさったらいかがかしら? 私は当然、メジロへの正式な加入をお願いしますわ≫
≪やめないかシービー、ラモーヌ。今回はファンの方々に感謝を伝えるためのライブイベントだ。私利私欲のために利用するものではないだろう。それに彼はこの私と視座を共にする存在だ。例え君たちでも、簡単にくれてやるわけにはいかないな≫
勝手なことを抜かす三冠ウマ娘たちと、呆れたように彼女たちを睨むチームガルムのトレーナー、サイファー。やり取りを聞きつけたナリタブライアン、ヒシアマゾン、エアグルーヴたちがステージに殺到する。多くのウマ娘たちに詰め寄られる鬼神を見つめながら、スズカがため息を吐く。
「やぁ、サイレンススズカ。その顔、愛しのトレーナーが人気者で妬いてるって感じか? 君もドーベルも苦労しそうだな」
「……そんなんじゃありません。ただ、もしかしたら、私もあそこに立っていたかもしれない。そう思っていただけです」
「ほぅ? あの三冠ウマ娘たちのステージにか? おとなしい奴だと思っていたが、君も結構大それたことを言うな。確かに今の君には連中に匹敵する力はあると思うが、あまり遠くばかり見てると痛い目を見ることになるぞ?」
物鬱げなスズカに、勝負服姿のスーターミネーターが口角を釣り上げる。カーキ色のスプリッター迷彩の飛行服、袖口に黄色いラインがはしり、左肩にはゴーグルをかけたカワウのエンブレムがあしらわれている。傍らに控えていたスーテルミナートルも同じデザインの勝負服を纏い、彼女たちもウマ娘用の無線機を装着していた。
「ご忠告感謝します。その、脚の調子はもういいんですか?」
「心配無用だ。今では嘘のように痛みが引いたし、むしろ以前より脚が軽いくらいだ。今日のレースではそのまま飛んで行ってしまうかもしれないな。……に、しても、私の怪我を見抜いたことといい、イベントの前座として決戦の場を設けてくれたことといい、君のトレーナーの能力には心底驚かされるな。あれなら世間で騒がれるのも無理はない。正体が非常に気になるところだな」
「……ただトレーナーとして優秀で、顔が広い。それだけじゃダメですか? トレーナーさん、マスコミとかの対応でかなりストレスが溜まってるみたいでしたし、私やブライアンさんより話題になっている状況にも戸惑ってるみたいでした」
「それは当然だと思います。これまでの功績とあの宝塚での無双ぶり。あなた方だけではなく、トレーナーの力が尋常ではないことの現れです。それでいながら経歴が不明瞭で痕跡をたどることもできない。分かっているのは、外国で暮らしていて、教育機関を経ずにトレーナー試験に臨み、トップで合格したことくらいです。レースに関わる者ならば、誰でも興味が惹かれるというものです」
スズカの発言にスーテルミナートルが反応する。
「スズカさんはご存知かもしれませんが、今日来られている来賓の方々。あなたたちがレースに出ると分かった直後、今回のイベントに出資してあの席を確保したそうですよ。それほど、彼は注目されているということです」
「それはトレーナーさんから聞いていました。でも今日のイベントはあくまでファンの方々に日頃の感謝を伝えるイベントだって……」
「まぁ主催者の彼女は複雑かもしれないが、将来的にはミーティングの時に言ってた彼女の夢の足掛かりにはなるだろう。メジロ家、華麗なる一族、サトノグループ。うまく売り込めればお墨付きがもらえる。……グランドライブ、か。レースを走る全てのウマ娘たちによる感謝の宴。もし本当にそんなことができるなら、私も見てみたいものだ」
しみじみとつぶやくターミネーターにつられて、スズカがステージの端にいるウマ娘に目を向ける。スタッフたちに的確な指示を飛ばしながら、ウマ娘たちをあしらうサイファーを心配そうに覗き見ている。
イベントプロデューサー、ライトハロー。トレセン学園卒業生でもある彼女の助力によって、今回の特別レース、サイファーとチーフの協定を成立させることができた。怪我をしていたターミネーターの宝塚記念出走回避と治療、メジロドーベルのガルムへの移籍、チーフのこれまでの経験とデータの提供。そして公の場でブライアンとスズカ、ターミネーターとテルミナートルによるチーム対抗戦を行い、雌雄を決する。
(トレーナーさんはただの知り合いって言ってたけど、あれはどう見てもトレーナーさんを意識しているとしか思えないわ。……それにあの体つき、卑しいことがないように注意する必要があるわね)
栗毛の童顔、胸と尻に懸架された戦略レベルの特殊兵装を睨みながら、スズカは拳をギリギリと握りしめる。サイファーを男として目覚めさせかねないライトハローは、スズカにとって要注意人物だった。だが彼女が語っていたグランドライブ計画には共感を覚えている。口下手で人付き合いが得意ではない彼女にとって、ライブでの歌唱は誰かに気持ちを伝えることのできる手段のひとつだった。――いつか彼女に協力する時が来るかもしれない。漠然とそんな予感がしていた。
≪ガルムトレーナーからレース出走者へ。レースの準備が整ったようだ。すぐにゲート前に集合しろ。……おいシービー。ラモーヌ。どこに行くつもりだ? お前たちの出番はまだ先だろ。ヒシアマ、今更君まで乱入しようとするな。タイマンなら後でいくらでもやらせてやるから。ブライアンいくぞ!≫
サイファーが無線でスズカたちに呼びかけ、
「くくくっ。まさか天下の三冠ウマ娘たちがあそこまでユニークな奴らだったとはな。いっそのこと飛び入り参加してくれたほうがこっちとしては都合がよかったんだが。なぁ、テルミ?」
「いえ、今日の相手はブライアンさんとスズカさんです。彼女たちに勝ってチーフの引退に花を添える。我々はそのためにここに来たのです」
「当然、忘れちゃいないさ。ついでにガルム目当てに集まってきたお偉方にもひと泡吹かせてやるとしよう。ガルムを下したとなれば、チーフの評価も跳ね上がる。一石二鳥とはこのことだ。だろ? サイレンススズカ。片羽の逃亡者さんよ?」
二人のウマ娘、番の鳥がスズカを見つめる。捕食者のように鋭い視線に臆することなく、スズカも彼女たちに応答する。
「残念ですが、私は負けません。ターミネーターさん。テルミナートルさん。今の私には、あなたたち以上に勝ちたい相手がいるんです」
スズカの視線の先、チームメイトであり、ライバルでもある怪物が鼻頭のテープを押さえて集中力を高めている。宝塚記念で同着となり、未だ勝敗がついていない。
(今日のレース、二対二のチーム対抗戦だけど、やることは変わらない。勝利に向かって走る。そうですよね、トレーナーさん)
片羽のマントをなびかせながら、スズカがスターティングゲートへと歩みを進めた。
いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。
以前から気になっていたアンケート機能を使用してみました。書けるかどうかは未定ですが、ご協力いただけると幸いです。
追伸:票が固まったのでアンケートを終了しました。彼女が大差の一着だったのは正直予想外でした。折を見てアヤベさんと妹さんと鬼神の物語が執筆できたらと考えております。ご協力いただきありがとうございます。