理事長や馴染みのウマ娘、同僚たちとの交流を終え、サイファーは学園内のトレーナー室へと戻ってきた。窓から差し込む夕陽、国境を超えても変わらない光景だが、ここから見えるそれは何故か特別なもののように思えた。仕事用のスーツを脱いで私服に着替える。ジーパンにシャツ、色褪せたフライトジャケットを羽織り、室内を改めて見回す。
チームガルムを立ち上げてから獲得してきた数々の賞、トロフィー、盾が棚に並び、その横には当時のチームメンバーの写真が飾られている。壁にはチームの象徴である番犬のエンブレムの旗が掲げられ、その下には歴代エースたちの着用したガルムの勝負服がショーケースに納められていた。
(蒼い翼と赤い片羽。記憶は薄れても、栄光は脈々と続いていく。理事長の言う通り、まだ店仕舞いはできそうにないか)
校門前で暴君に会う前までは、もう充分なのではないかと感じていた。トレーナーとして数々のウマ娘を指導し、勝利を重ねてきた。その過程でレース界も隆盛し、次々と英雄が誕生した。鬼神がいなくとも、円環は廻り続ける。今までの自分をリセットするつもりはないが、舞台を降り、次の世代に未来を託す時なのではないかと考えた。
(あっちでもきっとそうだ。俺がいなくても世界は動き続ける。戦争が起こっても、次のエースが戦いを終わらせる。死神か、悪魔か、神鳥か。俺たち以上の化け物が、今頃空を飛び回っているかもな)
彼がトレーナーを辞める意思があることを理事長に告げた時、傍にいた秘書の駿川たづなは驚愕の表情を浮かべたが、彼女の、そしてサイファーのボスである秋川やよいは豪快に笑い飛ばした。
――不許可! レースもウマ娘たちも、まだまだ君を必要としている! 先ほどの校門での出来事がその証明! 私も、三女神も、今後の君の活躍に期待しているぞ!
激励! と書かれた扇子をひらき、頭上のネコが相槌を打つように鳴く。もはや日常となったやり取りを思い出し、自然と笑みがこぼれる。腕時計に目をやり、約束の時間、身内だけの打ち上げパーティーの開始時刻が迫っているのを確認し、部屋を出ようとする。
「失礼、少しよろしいかしら?」
聞き慣れない女性の声と共にドアがノックされる。引き戸の取っ手から音がするが、施錠しているので開かない。そのことを伝えようとして、突如凄まじい破砕音が響き渡る。
バキバキバキィイイイイイイ――――――!!!!!!
空爆でも受けたかのような衝撃に、身の危険を感じたサイファーが反射的に地面に伏せる。
「あら? このドア、少し建付けが悪いですわね。開けるのに少し手間取ってしまいましたわ」
そんな呑気な声を出しながら、ひとりのウマ娘が歩いてくる。鹿毛の髪が気品のある仕草と共に揺れ、真紅のハートを象った耳飾りがそれを際立たせる。
「……ドアを壊して侵入してきた奴の第一声がそれか? 最近の生徒は礼儀もわきまえていないのか?」
「壊す? あら、本当ね? 申し訳ございません。ですが、開けただけで壊れるくらい老朽化していたのですから、誰が開けても結局こうなったでしょう。次はもっと、頑丈なものに付け替えることをおすすめいたしますわ」
サイファーの怒気を孕んだ視線にも動じず、軽く頭を下げたウマ娘がとんでもないことを言い放つ。部屋のドアは防犯対策の施された特注品で、猛ウマ娘でも力づくで破れないように設計されたものだった。それを施錠されていたことも気付かずに開け放った侵入者に、サイファーは内心で驚愕した。
「まったく、大した怪力だな。俺としては君のやらかしを報告するためにも、是非名前を聞いておきたいんだが?」
「まぁ、無礼な方ね。出会ったばかりのレディに対して、そのような言葉を。ですが、名乗らないこちらも失礼ですわね。いいでしょう。改めてご挨拶いたしますわ」
ウマ娘はそう言って姿勢を正し、恭しく頭を垂れる。
「お初にお目にかかります、円卓の鬼神。私の名はジェンティルドンナ。真の強者としてターフに君臨し、最強のチーム、ガルムの象徴として歴史に蹄跡を刻む存在ですわ。ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします」
「…………は?」
先ほどの校門でのやり取りと同じような光景に、軽いめまいを覚える。脳裏に理事長の言葉がよぎるが、ため息を吐いて振り払う。
「まず、色々と言いたいことはあるが、俺にも予定というものがある。話は後日改めて、ドアの弁償のことも含めてさせてもらえないか?」
「あら? 私では不服かしら? まだデビュー前ですし、あなたのご期待にも応えられると自負しているのですが。それにご用事と言うのは、お身内の方々とのパーティーのことでしょう。その時にご紹介ついでにお話させていただければと考えているのですが、いかがかしら?」
マイペースに話を続ける彼女に堪忍袋の緒が切れそうになる。追い返すべきか? そう考えていたのを察したのか、真剣な表情でジェンティルドンナが口を開く。
「……そう、ですわね。私もこの訪問が多少、強引なのは理解しております。ですが、校門での貴方と彼女のやり取りを見ていたら、いてもたってもいられなくなってしまったの。はしたないのは承知の上で、一刻も早く、私も勝負を仕掛けねばならないと思いました」
「……先を越されたくなかったということか? あの暴君、オルフェーヴルに?」
「えぇ。正直驚きましたわ。あの彼女が素直に己の弱さを晒してまで、貴方に助力を求めた。そこまでして貴方を手に入れたいと思っていることに」
「俺が彼女の要望に応えるとは限らないだろ。会話を聞いていたなら知ってるだろうが、俺は強者と組むより、強者を潰すことにやりがいを感じるんだ。簡単になびいたりはしない」
「どうかしら? あの時の貴方の目、勝負の時のようにギラついて、昂揚しているように見えましたわ。彼女と組み、共にターフを蹂躙する。そんな未来を夢想していたのではなくて?」
「……」
毅然と言い放つジェンティルに、サイファーはオルフェーヴルに抱いた気持ちを思い返す。無意識だが、全く想像しなかったとは言えなかった。彼女の目指す三冠と凱旋門。ひとりでも、誰とでも、彼女はそれを手に入れられるだけの力を持っている。そこに鬼神の力と経験を注ぎ込んだらどうなるか? トレーナーとして、それを見てみたいと感じていた。
「あの方は確かにいけ好きませんわ。度々私と張り合って、つねに上からの物言いで私を下そうとする。ですが、あの強さはまぎれもなく本物。同世代で間違いなく私と比肩するほどの力を持っている。ですから、彼女だけには負けるわけにはいきませんの。私が目指す、あのウマ娘を超えるために」
「あのウマ娘? 誰のことだ?」
「貴方もご存じでしょう。会長、シンボリルドルフと同じく、無敗の三冠を達成し、数々の勝利を打ち立てた鹿毛の彼女のことを」
「あぁ、あいつか。忘れたくても忘れられないな。あの飛ぶような走りと、ターフを踏み締めるたびに衝撃が走るようなレースはいつまでも色褪せない。間違いなく、偉大なウマ娘だ」
「そうですわ。あの強さと偉業。彼女に憧れて、私は彼女を超えたいと思いました。もっとも、貴方が彼女と相対すれば、それも変わっていたかもしれませんが」
「よしてくれ。俺でも彼女の相手はキツい。当時はティアラ路線のウマ娘の担当だったから交戦経験はないが、やるとなれば一筋縄ではいかなかっただろうな」
敗北など考えられない、奇跡に最も近いウマ娘。そう呼ばれていた彼女の姿を、サイファーもレース場や学園のコースで何度も目にしてきた。ティアラの輝きを未来に繋ぐべく、当時組んでいたパートナーと技術を磨く中でも、その速さと強さは記憶に焼き付いていた。
「ですが、それでも彼女は負けた。クラシック級の有マ記念で。翌年の凱旋門賞で。たかが二敗、されど二敗。しかも凱旋門賞は三位入着すら失格で取り消された。あるまじき失態ですわ」
「絶対の勝利などない。だから彼女だって負ける時はある。しかも凱旋門の時は不幸な出来事が起きた故の結果だ。君の言い様は厳しすぎるんじゃないか」
「……そうでないことは貴方が一番お分かりでしょう。いかなる理由があろうとも、彼女が至らなかったから負けた。その事実は変わらない。もし貴方が彼女のトレーナーなら、そんな言い訳をさせましたか?」
「いや。そうさせないために全力を尽くしただろうな。敗北の可能性を徹底的に潰し、勝負に挑む。そのために全力を傾けるのがトレーナーとしての勤めだ」
ジェンティルが冷淡に告げる様子を見て、サイファーは彼女の信念に興味を抱いた。自分にも他人にも妥協せず、甘えを許さない。その姿勢は気高く、尊い。
「やはり私の思った通りですわ。その言葉と、それを実現できるだけの実力が、貴方を最強のトレーナーたらしめている。その力が私の最強の証明のために必要なの。強さこそが絶対の正義。敗者には何も語る資格などない。だから私は勝ち続け、頂に君臨するのよ」
「なるほど。君は円卓の流儀をわきまえているようだ。その言葉には俺も強い共感を覚える。身に染みて実感してきたからな」
――ここは『円卓』。死人に口なし。
かつての相棒。ベルカ戦争を共に飛んだ戦友の言葉が脳裏によぎる。戦いに勝利し、生き残ってきたからこそ、この世界でトレーナーとして成果をあげることができた。
「……分かった。高すぎるプライドは命取りになるが、姿勢自体は俺好みだ。将来はオルフェーヴルと同じクラシック三冠路線を征くのか?」
「いえ。あの方や彼女と同じ道を歩むつもりはございません。私は私の道を進みますわ。まずはトリプルティアラを頂戴し、その後で二ホンのGⅠを制するか、世界に向かうかを考えるつもりです」
「大きく出たな。ティアラを戴冠することは確定事項なのか?」
「無論。貴方がいれば確実ですわ」
「まだ分からんだろ。君の実力も知らないのに」
「あら? 貴方ほどのトレーナーなら、体を見ただけでお分かりになるのでは? 何ならそこのベッドで、じっくりご覧になっていただいてもよろしくてよ」
ジェンティルが部屋の隅にある施術用のベッドに目配せし、サイファーに身体を見せつける。女性らしくしなやかで、大樹のように逞しい四肢、制服に押し込められた二つの果実が豊かさを誇るように震える。
誘惑しているつもりなのか? だが、先ほどの怪力を目にした後ではその気も失せる。それ以前に、トレーナーとして出会ったばかりの生徒を女として認識などしない。
「君のフィジカルはある程度理解できているつもりだ。パワーも有り余っているようだしな。もし本気で君の実力をはかるなら、一番シンプルで確実な方法がある」
「釣れませんわね。ですが、おっしゃりたいことは分かります。実際に走っている私をご覧になりたいということでしょう? あの暴君と共に」
「そうだな。だが彼女だけに目が向いていると、他の連中に足を掬われるかもしれないぞ。君を意識している奴が、まわりに何人かはいるんじゃないのか?」
「いいえ。同期の方々はみな震えた子犬のように、私を遠巻きに見つめているだけですわ。……あぁ。そういえば、ひとりいたわね。私に対抗心を燃やしている、あの青毛の彼女」
「ほぅ。それは興味深い。是非とも会ってみたいもんだな」
「…………は?」
サイファーの言葉を聞いた直後、ジェンティルが彼の目前に迫り、弾き飛ばしそうな程のプレッシャーを放つ。彼女の胸がサイファーの体で押し潰されるほど密着し、冷たい視線で彼を見上げる。
「私が直々にお願いに来たのに、もう他のウマ娘に気移りするなんて無礼ですわよ。貴方は私だけを見ていればいいの。鬼なら鬼らしく、強い者だけ追い求めなさい」
プライドを傷つけられたジェンティルがサイファーに重圧をかける。嫉妬なら可愛いが、対応を誤れば体が粉々になるかもしれない。
「落ち着け。今の俺には君の方が鬼のように見える。
「っ!? ……もうすでに言われていますわ。鬼だのバカぢからだの。でも、今貴方に鬼婦人と言われて悪い気はしなかった。鬼と並ぶ、剛毅なる貴婦人。ふふ、まさに最強たる私に相応しい異名だわ」
「……何だって?」
惨劇を回避すべくフレアを散布したが、逸れたミサイルがあらぬ場所に命中した。鬼神の婦人。略して鬼婦人。畏怖が込められた別称に意味を与えてしまった。満足げに微笑むジェンティルを見て、面倒なことになったと天を仰ぐ。
今すぐ離脱するべきか? 話を切り上げてパーティー会場へ向かおうとして、破壊されたドアが視界に飛び込む。あれを放置するわけにはいかない。
貴婦人、ジェンティルドンナ。オルフェーヴルと同じく、次代を創るもうひとりの英傑も、鬼神との邂逅を果たした。共にターフを駆けるのか? ライバルとして相対するのか? 未来は定まっていない。
頂点は、いまだ彼と交わっていない。
ジェンティルドンナの掛け声がパワフルすぎてクセになる。
ヴィルシーナのシナリオでの彼女がどれほどの強さで出てくるのか、今から楽しみです。