12月25日。もうすぐ時計の針は15時を刻もうとしていた。前日まで降り注いでいた雪は止み、白銀のベールが街をクリスマスムード一色に染め上げている。だがトゥインクル・シリーズ、ひいてはウマ娘たちとその関係者にとって、この日はそれ以上の意味を持つ。
有馬記念。中山レース場芝2500m。一年の総決算たるこのレースに想いを寄せる人々が、続々と集結しようとしている。
(雪はどうにか止んでくれたが、バ場の状態は重い。彼女たちならやってくれるとは思うが)
中山レース場のスタンドで、サイファーがぬかるんだコースを見下ろしていた。いつものフライトジャケット姿ではなく、黒いスーツを身に纏い、厚手のコートに皮手袋をはめている。
サングラスの奥の瞳は険しいが、その不安を吹き飛ばすかのように、周囲の観客のボルテージは上がっていく。この場に立ち会えたことへの喜び、応援するウマ娘たちの勇姿に思いを募らせ、その熱が周囲一帯に伝播していく。
(それにしても本当に彼女たちは恵まれているな。いや、彼らが一丸となってウマ娘を支えているからこそ、彼女たちも夢を与えることができるか)
サイファーがまわりを見渡して微笑む。観客だけではない。本来積雪によって開催が危ぶまれた今回のレースも、運営スタッフたちの懸命な除雪作業によって開催に漕ぎつけられた。人種や立場など関係ない。ひとつのレースに幾多の意志が連なり、大きな円環となって彼らをつなぐ。それこそが争いのない、平和な世界の礎なのかもしれない。
「おや、こんなところにいたのか? もうすぐブライアンたちの出走の時間だろう? 傍についていなくてもいいのか?」
「別に、その必要はないだろ。彼女たちはまだお前のチームの一員だ。トレーナーがいれば十分だろ」
「はぁ、相変わらずだな。いつも頑なに表に出ようとせず、功績は全て他人に譲る。だが君もチームを持つからには、その身を晒す責任が伴うことになる。覚えておくことだ」
「ありがたいご忠告だ。痛み入るよ。さすが生徒会長様のお言葉は重みが違うな」
思考の海に沈んでいたサイファーをひとりのウマ娘の声が引き上げる。栗毛の長髪、気品と凛々しさ、美しさがスラリとした身体からあふれ出ている。シンボリルドルフ。トゥインクル・シリーズ最強のウマ娘。サイファーの属していたチームのリーダーであり、トレセン学園の生徒会長でもある彼女が、呆れながらサイファーの後ろに立っていた。彼女の姿を見た観客たちの目がギョッと見開かれる。
「それよりも、俺がチームを抜ける時は迷惑かけたな。お前がみんなを諫めてくれなかったら、あんなにスムーズに事は運ばなかった。本当に感謝してる」
「当然だろう。突然みんなを呼び出して、何の話かと思えばチームを出ていくなどと言い出して頭を下げる。そんなことで私たちが納得するとでも思ったのか? どれほど私たちが君に恩義を感じているか、知らない訳でもないだろう?」
「あの時に身に染みて分かったよ。胸倉は掴まれるわ泣きつかれるわ、挙句の果てに一緒に連れてくまで放さないなんて駄々こねられて。正直、嬉しかったよ」
サイファーがそう言いながら、当時の状況を思い返す。チームにあてがわれた部室に全員を呼び出し、スズカに話したことをそのまま伝え、謝罪と礼をした。それで済んだと思った矢先、胸倉を掴まれた彼の身体が宙に浮き、全身を無数の手に掴まれ、怒声と涙が次々と浴びせられた。
殺されるとさえ感じた、彼女たちの強い思いが空間に充満し、収拾がつかなくなると覚悟した時、事態を静観していたルドルフが声をあげた。
――みんな、言いたいことは分かる。私とて同じ気持ちだ。だが彼は私たちを見捨てたわけじゃない。むしろ大切に思ってくれているから、こうして胸の内を明かしてくれた。それにこれはチャンスだと思わないか? 番犬を手なずけるには、己が実力で屈服させるのが一番だ。相対した彼を仕留められれば、そのウマ娘は永遠に彼の記憶に刻み込まれる。そうすれば、真の意味で彼をものにできる。ここは誰が一番早く彼の手綱を握ることができるか、競争といこうじゃないか?
「感謝しているなら、ひとつ教えてもらってもいいか? もしあの中で誰かひとりだけ、君のチームに引き抜けたとしたら、誰を選んでいた?」
「スズカだな。例の療法を勧めておきながら、結局丸投げする形で出ていくことになってしまった。最後まで責任を持つ意味でも、彼女が一番に優先される」
「そ、即答だな。もう少し迷うものかと思っていたが」
「勿論みんな大事だ。スズカのことがなかったら、まず候補に上がったのはお前だろうな。俺がサブトレーナーとしてはじめて勧誘したウマ娘だ。長い付き合いだし、もう少し近くで見ていたかった」
「っ! またそういうことを平然と言う。そうやって、私をスカウトした時のようにみんなを誑かしてきたんだな。別の意味で、これからの君のことが心配になってきたよ」
サイファーの視線から逃れるように、動揺したルドルフが目を逸らす。
「誑かすとは失礼だな。確かに無責任極まりない発言だったとは思うが」
「そうだな。他のトレーナー志願者がレースで勝てる方法と私を強くする研究成果を提示してきた中で、君はただ言葉を告げただけだった。だが私はその言葉に強く惹かれ、あのチームで八冠という栄光と、かけがえのない仲間を持つことができたんだ。私のほうこそ、今でも本当に感謝しているよ」
「……礼ならトレーナーに言え。レースのレの字も知らない俺をいきなり担ぎだして、お前たちのスカウトに当たらせるなんて無茶をしでかした。結果としてそれが功を奏した。それだけのことだ」
「いや。君の持つ力を信じていたからこそ、トレーナーは君にその役目を与えたんだ。そのおかげで君は私と同じ視座に立ち、大切なパートナーで居続けてくれた。……サブトレーナー君。いや、円卓の鬼神。この皇帝シンボリルドルフが、必ずこの手でもう一度、君と歩む道を掴みとってみせよう。覚悟しておくことだ」
そう言ってルドルフは力強く、まっすぐな笑みをサイファーに向けて宣言した。戦場で感じていた憎悪や殺意とも違う。純粋な熱を帯びた闘争心にサイファーの心が揺さぶられる。
――君が強いのも、みなを率いる存在になれるのも分かり切っている。だから俺はその軌跡を見届けたい。たとえ尻に喰らい付いてでも。君が目指す世界と、その結末をな。
サブトレーナーになりたてのころ、サイファーがルドルフをスカウトするためにかけた言葉。強いウマ娘を育てる力を体得するため、彼女の理想を支える宣誓としてルドルフに捧げた。彼の見立て通りに彼女は強くなり、飲み込まれそうになるほど大きな存在となった。
(ちょっと前まで小娘と思っていたのがここまで成長するとはな。……皇帝。もう彼女のほうが、俺よりよほど強大な存在なのかもしれん)
これからのレース、独立してから訪れるであろう波乱の日々を思い描きながら、サイファーは空を仰ぐ。晴れていたはずの空に、うっすらと薄い雲がかかり始めていた。
「いよいよ、か……。今思えば、あのチームにも感慨深いものがあったな」
中山レース場地下バ道。レース開始まで残り数分。ジャージを羽織ったナリタブライアンはひとり、ここで集中力を高めていた。いつも通り勝ってこい。今まで世話になったチームのトレーナーから告げられた言葉が脳で反芻する。一見淡白に思えるが、そこに様々な意味が込められているのを彼女は理解していた。これまで積み上げてきた功績への感謝と、これから駆け抜ける未来へのエール。思わず笑みがこぼれそうになる。自分は本当に恵まれていた。
「何だい、シケたツラしてたかと思えば急に嬉しそうな顔しやがって。レース前にそんなんじゃ、勝ちはこのアタシに決まったようなもんじゃないか」
「おあいにくだが、そうはならんよアマさん。そういうアンタこそ、がっついて、あっさりこけてくれるなよ」
「そんなの当然だろ。地面とキスする趣味はないんでね。今日こそタイマンぶっちぎりで決めさせてもらうよ」
物思いにふけるブライアンに彼女のチームメイトであるウマ娘が声をかける。青みがかった黒鹿毛に褐色の肌、快活な口調と強い意志を感じさせるルビーの瞳が溢れんばかりの闘争心を剥き出しにしている。ヒシアマゾン。白と青を基調とした勝負服に身を包んだ彼女が、相手に気合を入れなおすかのように挑発的な笑みを浮かべる。
「だが意外だったな。チームを抜けるのは私だけだと思っていたのに、まさかアンタまでアイツに付いていく道を選ぶとは」
「ちょっと迷ったけどね。チームのみんなにも悪いと思ったし。でもサイファーの、トレ公のおかげで今のアタシはある。アンタとタイマンはれるようにってトリプルティアラまで取らせてくれて。だからアイツへの恩はアタシの脚で返す。そう決めたんだ」
「なるほど。単にアイツに惚れたから、という訳でもなさそうだな」
「ちょっ、アンタ何言ってんだい! アンタだってアイツがチーム抜けるって言った時、胸倉掴んで持ち上げるほどキレてたじゃないか! それってアンタもホの字だってことじゃないのかい?」
「勘違いするな。いきなりあんなことを言われれば誰だってキレる。それを言うなら、アマさんだってベソかきながらアイツの腕を必死に掴んでたじゃないか? アイツ、かなり引いていたぞ」
「だぁああああああ! もういい、この話はナシだナシ! でもアンタもトレ公のことを大事に思ってるからこそ、全てを捨てる覚悟でチームを抜けたんだろ?」
「……否定はせん。アイツが私から勝手に離れることなど許せないし、許さない。私を焚きつけた責任は最後まで取ってもらう。ただそれだけだ」
ブライアンが噛みしめるようにつぶやく。ヒシアマゾンだけではない。ナリタブライアンもまた、サイファーの支援によってクラシック三冠を獲得し、年度代表ウマ娘に選出されるほどの栄光を手にしていた。レースの常識の外、彼の傭兵としての経験は彼女の精神的支柱となり、気性の荒さも、影を恐れる弱さも和らげる助けとなった。
(アイツが今までどんな修羅場をくぐってきたかは知らない。だからこそ、私はアイツと肩を並べられるほど強くなりたい。そうすれば、私もアイツのいる領域にたどり着けるかもしれない。アイツと同じ、鬼神になれるかもしれない)
ブライアンが羽織っていたジャージに手をかけ、脱ぎ捨てる。その下から現れたのは今までの彼女の勝負服ではない、全く別の代物だった。白を基調としたジャケットに赤と黒のライン、首輪を模した襟と全身に巻かれた鎖のようなチャック。濃紺のラインの入ったミニスカートにミリタリーブーツ。両肩には蒼いマントがたなびき、左腕には番犬のエンブレムが刻まれている。
「へぇ~。それがトレ公のためにビューティー何とかとやらが仕立てたっていう勝負服かい? 中々様になってるじゃないか。それにしてもそのエンブレム……、ガルム? 第66飛行隊? 一体何のことだい?」
「さぁな。だがこれこそがアイツ、サイファーが描いてきた軌跡の一端なんだ。これ以上にふさわしい勝負服は存在しない。新しいチームのためにまず一勝、このデカいレースでぶち上げてみせる」
ブライアンが拳を握りしめ、決意を新たにする。サイファーの願い、ライバルとして相対することで互いを理解する。確かに嬉しい言葉だった。それでもブライアンは彼の傍に居続けることを選んだ。もはや彼は彼女の一部で、共に存在することでしか分かり合えない。シャドーロールの怪物は彼の番犬となり、やがて鬼神へと昇華する。
「時間だ。行くぞアマさん。花火の中に突っ込むぞ」
「あぁ! 有馬の舞台でタイマン勝負だ! 新しい勝負服を言い訳にして、フヌけた走りはするんじゃないよ」
互いに笑みを浮かべ、バ道の出口へと向かっていく。
――玄関でお出迎えだ。
彼女たちにとって最後の、そして最初の一歩となるゲートインが、すぐそこにまで迫ってきていた。
お読みいただき誠にありがとうございます。日に日にお気に入り数が増えているのを見て、とても嬉しく思います。この後の展開ですが、少し史実とはかけ離れたif展開が続いていくことになります(特にスズカ関連)。ウマ娘にありがちなことではありますが、何卒よろしくお願いいたします。