そして私は一人、事務所の屋上で一番星の輝き始めた夜空を見上げていた。
一月の夜風は冷たく、首元から容赦なく体温を奪っていくが、私は気だるく顔を上げることしかできない。
夜空の群青は妙に深く、油断すると魂ごと引っ張っていかれそうで、怖かった。
底冷えしているのは、外気なのか心なのか、分からないまま、私は自分の身体を抱き締めるように、腕を回す。
ほぅ……と息を吐くと、屋上の空に、白い吐息が広がり、少しの余韻を残して消えていく。
「……はぁ」
分かっては、いたこと。
生きていれば誰かと出会い、世界は広がり、それぞれの望む未来へ向かって歩き出す。
ひとところに居続けることはできず、少し停滞する時があっても、四季が巡るように時間は流れる。
そこに特別はなく、時は人を選ぶこともなく、先へ先へと押し流していく。
「ふー……」
私は冷えた指先を暖めるために、もう一度息を吐く。
小糸は、透と雛菜に。
透と雛菜は、霧子と咲耶さんと千雪さんに。
今まで、幼馴染の中でだけ巡っていた矢印が外を差し、三人はそこへ向かって進み出した。
何も不自然なことはない。
不自然と言うのなら、四人のまま、ずっと一緒にいられると思っていた私の方だろう。
相談してくれなかったと咎めるのは、あまりにワガママが過ぎる。
進むというのなら、できれば笑って背中を押してあげたい。
「指先、あったかくならないな……」
言葉だけが先行して、気持ちが伴わない現実を写すようだと私は思う。
望んでいない理屈にいくら血を通そうとしても、熱を持たないのは当然だ。
どっちが間違っているというのなら、それは私。
でも。
「……だったら、私はどうしたらいい? どこへ向かえばいい?」
夜空も、星も、街のイルミネーションも、私に答えてはくれない。
答えてくれたかもしれない三人は、別の方向へ歩き出した。
私は最後まで取り残され、一人になる。
「……っ」
これ以上、この冷たい憂鬱の中にいることはできないと直感で理解して、私は屋上を出る。
プロデューサーは取引先から直帰したらしく、事務所には誰もいないから、少し身体を暖めて帰ろう。
そう思い、屋上から階段を下りて、玄関のドアを開け、真っ暗な事務所へ足を踏み入れた時、それは唐突に起こった。
ぱぁん! という炸裂音と共に、聞き慣れた声が鼓膜を打つ。
「樋口」
「円香ちゃん」
「円香先輩~!」
私の名前の部分だけ、不揃いに重なった声が、事務所に響き、不意にLEDが灯る。
「ソロデビュー、おめでとう!」
三人の弾んだ声。
突然の出来事に、私の脳が派手にフリーズする。
完全に固まった私の前には、パーティー用のクラッカーを持った透と小糸と雛菜の姿があった。
私は、私の頭に引っ掛かった、クラッカーのキラキラしたテープがずり落ちていくのを視界の端で捉えつつ、一生懸命現状の把握に努めた。
雛菜は悪戯っぽく笑い、小糸はちょっとためらったような、恥ずかしそうな赤色を頬に滲ませている。
そして、透はどういう理由があってか、クラッカーを机へ置いて、椅子の影に隠していた何かを持って、それを後ろ手に隠す。
「……、なにこれ」
どうにかひねり出した言葉はそれだけだったのだが、三人にはそれで充分だったようで、にやりと笑い合っている。
「あは~、円香先輩が鳩が豆鉄砲を食ったような顔してる~! サプライズ成功~!」
雛菜がご機嫌な様子で、クラッカーを持った右腕をぶんぶん回す。
なんかもう、いろいろ通り過ぎつつある私の表情を見た小糸が、おののいた。
「ぴぇ!? ひ、雛菜ちゃん! やりすぎ、やりすぎ!」
「え~? でも、発案は小糸ちゃんだよ~? こんな円香先輩、なかなか見られないし、シャッターチャンス~!」
スマホを構える雛菜に、透が笑いかける。
「ふふっ、さすが雛菜。命知らず」
「……ちょっと待って。ほんとに、どういうこと?」
驚きと戸惑いの混じった私の問いに、小糸が答えた。
「あ、あのね……、ソロデビューのお祝い、しなきゃって思って……」
「……? でも、みんなでそれはしたでしょ」
小糸は珍しく機嫌を損ねた様子でむっ、とした後、唇を尖らせて私に言った。
「だ、ダメだよっ。みんなでお祝いはしたけど、四人でお祝いしていないからっ。そういうの曖昧にするのは、よくないと思う!」
「……え?」
全ての答えが集約されたその主張に、私は言葉を失う。
雛菜のあの台詞が解答を持つ。
『円香先輩は、小糸ちゃんが何をしたいのか、もう知ってるよ~? ただ、思い込みで、勘違いしてるだけ~』
もし、その理屈の通りであるのなら、私は、「一度お祝いしたから、二度目はない」と勝手に思い込んでいただけということ。
雛菜と透が、私に柔らかな口調で答えた。
「円香先輩の考えている通りだよ~? 嬉しいことは、楽しいことは、二回お祝いしちゃダメなんてルールはないでしょ~?」
「ふふっ、むしろ、大事なことだから何度やってもいい」
「そうそう~! それが幸せだって、雛菜は思うな~!」
私の頭の中で、点と点が繋がっていく。
全ての始まり。
小糸の隠し事。
それは、『樋口円香のソロデビューを、四人で祝うこと』だったのだ。
だから、私に言えなかった。
雛菜が、『小糸らしい悩み』と言ったのも頷ける。
クラッカーの鼻に据えた火薬の匂い、床に落ちた色とりどりのテープ、そして視界の端にはテーブルの上のたくさんのお菓子や飲み物、ボードゲームの箱が見える。
昼間、プロデューサーと一緒にいた時にはなかったものだ。
つまり。
「……浅倉」
「んー?」
「さっき、買いに行ったんだと思うけど。……どこで買ったの、この雑貨」
腕を後ろに回したままの透は、「ふふっ」と得意げに笑う。
「千雪さんに教えてもらった店で。……ぱーっと、騒ぎたいからって」
「こんな時間に事務所まで使って……。プロデューサーに許可は?」
「もちろん」
透は一旦言葉を切って、また得意げな笑顔。
「取ってない」
「あは~、また怒られる~!」
「ぴ、ぴぇ!? どうしてご機嫌なの、雛菜ちゃん!?」
三人は騒ぎ出すが、私は頭痛を抑えられない。
まだ、解決していない要素が残っているからだ。
「それだけじゃ、ないんでしょ」
私がそう呟くと、ふっと事務所のLEDが落ちる。
一瞬、驚いてしまったが、すぐに仄かなオレンジ色の間接照明が優しく夜の事務所内を照らし出した。
柔らかな薄い光が視界に滲み、周囲を見渡すと、暗闇の落ちた部屋の隅には、設置型の照明器具が据えられている。
それらが事務所内で光点となり、繋げて線にすると、身体を包み込まれているかのような、不思議な安心感を抱いて私はため息を漏らした。
透が、静かな声で言った。
「この演出は咲耶さんの案。『円香は派手な盛り上げを好まないだろうから』……だって」
「相変わらず、あの人は……」
キザなことをすると思いつつ、このシチュエーションを拒む事もできない。
「樋口、思ったより早く屋上から降りてきて、焦った」
「あは~、設置するの大変だったね~!」
「ぎ、ギリギリだった……」
結構、タイトなタイムスケジュールで動いていたらしい三人が、ふぅと息を吐いて、笑い合う。
私は、リアクションに困ったままだ。
そして、最後に残った要素が顔を見せる。
透が私の前に立ち、目を細めて優しく微笑んだ。
「そしてこれは、私達から。……改めておめでとう、樋口」
透は後ろに回していた腕を私へ向ける。
その手には、一つの花束が握られていた。
一種類の花でまとめられていて、茎の長さは20センチくらいだろうか。
葉は細長くて厚く、左右に広がっており、その先に淡く白い花が咲いていた。
香りはすっきりとしていて、爽やかだ。
「……見たことない花」
それを受け取った私の感想に、小糸が答えた。
「アングレカムって言うんだよ。……円香ちゃんへ伝えたい言葉があったから、霧子さんに合ってる花を教えてもらったんだ」
「合ってる花?」
「そ、そう。……花言葉は、家に帰ってから調べて欲しいかな?」
「……ふうん」
スマホはあるし、今この場で調べることもできるのだが、それは無粋だろう。
ここまでシチュエーションを作ってくれた以上、私がそれを壊すワケにもいかない。
花を見て、花言葉を知って贈るのではなく、伝いたい花言葉があって、花を選ぶとなると、その分野に詳しい霧子が選ばれたのは当然の流れだ。
「……はぁ」
私の口から、熱い吐息が漏れる。
正直な今の気持ちは、なあんだ、と言ったところ。
結局、私が一人でジタバタしていただけで、少し視点を変えて考えてみれば、すぐに分かりそうなオチだった。
ただ、それができなかったのは、私も感情的になってしまっていたから。
私にとって、この三人はそういう存在。
……そういうことだ。
透が使用済みのクラッカーの引き糸をいじりながら言う。
「クラッカーってさ、強い火薬使えないのかな? もっと、バーンってやりたい」
「と、透ちゃん!? それやったら、売り物じゃなくなるよ!?」
「あは~、じゃあ、こっそりやってみる~? 火薬ってどこで売ってるかな~?」
目の前の三人は、いつも通りの三人のまま、好き勝手に喋っている。
だから私も、皆の知る私に戻る事ができた。
「ここでやったら、スプリンクラーが動いて大惨事でしょ。……アイドルとしては致命的」
「あー……、プロデューサーも怒られそう」
「ぴぇ……。プ、プロデューサーさん……怒られるだけで済むかな……?」
「あは~、それこそスキャンダル~?」
そんなことを言い合いながら、私達は笑う。
仄かなオレンジの間接照明が映し出す、少し特別な夜。
窓の外に覗く月と星に、屋上で感じていたほどの冷たさはない。
透き通る夜空は心地よく、弱めのエアコンが不思議なほどに暖かかった。