それから数か月が経ち、春が来た。
事務所近くの大きな公園のベンチで、文庫本を読んでいた私へ、一人の少女が声をかける。
「おつかれー、樋口。……春だねー」
言われなくても分かることを、制服姿の透はわざわざ言葉にする。
私は文庫本を閉じて、答えた。
「見たままでしょ。桜も綺麗だし」
「そうだね。なんか、始まる―って感じ」
透はいつもの気の抜けたような、捉えどころのない口調で頷く。
二人で並んでベンチに座り、空に舞い散る桜の花びらを見上げる。
しばらくそうしていると、そこに二人の少女が加わった。
「あは~、透先輩と円香先輩、こんなところにいた~!」
「と、透ちゃん、円香ちゃん、そろそろ事務所へ行かないと、遅刻するよ……?」
雛菜はおっとりしているが、対照的に小糸の息は荒い。
まあ、時間的には小糸の言う通りで、このままぼんやりしていたら遅刻確定だ。
「あー、マズいね。プロデューサー、意外と時間にうるさいし」
透が腕時計で時刻を確認し、ベンチから腰を上げる。
「じゃ、行こうか」
透は、そう言って歩き出し、雛菜と小糸もその背中を追う。
そういう関係性は、今も変わらない。
まだ、変わらない。
「……」
私は、ページに挟まっていた栞を手に取る。
少し長めの茎に、葉は細長い、白い花をキッチンペーパーで挟み、電子レンジで栞にしたそれは、少し不格好である。
だが、大切に使えば長持ちしそうだし、ハンドメイド故の暖かみもある。
「……ま、何と言うか」
心に憂鬱な雲が広がり始めた時、私はこれを手にするようにしているから、最後まで捨てることはできないのだろう。
誰にも見られないように注意しながら、そっと栞を胸に沿えると、あの夜の出来事がまぶたの裏に蘇る。
好きなように飲んで、好きなように食べて、好きなように話した、薄いオレンジ色の特別な夜。
いつか、この記憶も桜の花びらのように消えて行ったとしても、私が後悔することはないだろう。
「樋口ー? 遅れるよー?」
「ま、円香ちゃん、急がないと!」
「円香せんぱ~い、早く~!」
だって、私を呼ぶ声は、いつも傍にあるから。
私は、一人じゃないから。
「……そんなに急がなくても、事務所は逃げないでしょ」
私は努めて淡々と言って、ベンチから腰を浮かす。
あの花を栞にして使っていることを秘密にはしているものの、まあ、気付かれているような気もする。
それはそれで、別にいい。
だって、私は。
「今、幸せだから」
私は瞳を閉じ、手に持った栞へ一度、唇を寄せて、そう呟く。
そして、それを読みかけの文庫本に挟み、ショルダーバッグへ入れる。
顔を上げた視線の先には、彼女達がいる。
私はただ、ずっと一緒にいられるよう願いを込めながら、一度手を振って、春の暖かい光の中を歩き始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
キョクアジサシです。
普段、苦労性の円香ですが、何かの形で力を抜くことのできる場面を迎えられたら、と思いながら書きました。
個人的には雛菜との絡みが書いていて、新鮮な感じがありました。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。