魔法少女サクリファイスが難民向けに掲示する大型文字表を作っているとき、その男はやってきた。
「よし、文字表はこんなもんか。あとはいくつか例文があれば完璧だけど、ユノン、できた?」
「……ん」
「なになに、『おねえちゃんだいすき』『クロアねえきもい』『サプねえはいじめたい』。姉に偏りすぎてるな。講堂に貼りだすんだから、もっとマシなもんは作れない?」
「……むり」
「よーしそうだ、ユノンはまともな例文さえ作れない。そこがいいんだよ。一緒に出来るまでやるぞコノヤロー」
「うんっ」
「何イチャイチャしてんの」
ユノンの頭を少女が撫でていると、呆れ顔のクロアがアトリエにやってきた。
「お客さんだよ、姉さん。なんか偉そうなおじさん」
名残惜しそうなユノンを振り切って、少女は別室へ向かう。スラムに来てからの客人といえば学習の滞った困り顔の生徒たちが主だが、クロアが偉そうなと形容するような男の生徒はいないはずだ。
訝しみながら別室へ入ると、なるほどたしかに偉そうな男が目に入る。男は上質な布に包まれたはちきれんばかりの太鼓腹を揺らし、粗末なイスをきしませながら立って少女を出迎えた。
「おお、君が魔法少女サクリファイスか。私のことは当然ご存知だろうが、一応名乗りを挙げさせて──」
「知らねえよ誰だあんた」
「ええ!?」
男は脂汗をにじませて、あたふたとうろたえ始める。
「し、知らない!? 魔王だぞ? 私こそ第三十五代目の魔王だ。まさか魔の学徒である君が知らないはずは」
「知るわけないでしょ、居城に引きこもってしじゅう政治ごっこやってる根暗一族なんて。たぶん学校の誰も知らないんじゃない?」
「そ、そうなのか……」
自称魔王は言い返すでもなく、悄然と肩を落とした。
この時点で眼前の男が本物である可能性は低くなった。いくら魔法の国で陰の薄い王族とはいえ、先祖の偉業を引きずってお飾りの玉座を与えられている残念一族とはいえ、腐っても権力者がこの態度はあり得ない。
少女はひとまず男を詐欺師の類と想定し、変身した。死灰のドレスと五十三の逆転蝋燭が顕現する。溶けた赤い蝋が天井に落ち、跡を残さず消失していく。
自称魔王はその威容に息を呑み、続いて顔を曇らせた。
「ほう、素晴らしい! しかし困ったな、私は魔王として君に話をしにきたのだ。立場を信じてもらわぬことには進まない」
「分かった、任せて」
と言いながら、少女は男の顔面へ正拳突きを繰り出した。寸止めするつもりの軽い一撃だが、変身した魔法少女の拳は殺意がなくとも威圧になる。詐欺師の撃退にはちょうどいいだろう。
しかし少女の拳は寸止めされる前に、輝く障壁に阻まれた。
障壁は魔王の鼻先に展開していた。地脈ではなく、魔王の純粋な魔力のみで構成された強固な障壁。半透明の壁には拳を中心に亀裂が入り、砕けた破片が中空へ溶けるように消えていく。
魔王は反射的に一歩後退って、一方の少女は手応えを確認するように拳を握ったり開いたりしている。
「さすが偉大なる魔王様。この障壁の力で魔獣を山の向こうに封じておられるわけだ。魔王様ありがとー」
「し、信じてもらえて何よりだよ」
少女が何事もなかったようにイスを引いてきて座るので、魔王もこけたイスを自分で直して、腰を下ろす。用向きの前提条件たる魔王の立場が信用され、話が始まった。
「単刀直入に言おう。君が提唱し、実践している地脈増幅説。これを普及させ、我が国の悪弊を正してほしい」
魔王が語ったのは魔法の国の悪弊──魔法至上主義の是正である。
魔法の国は古くから魔獣との防衛戦と、それに伴う防衛産業で成り立ってきた。故にその産業の主幹たる魔法が何よりも重視され、それが使えないもの、すなわち生まれつき魔力を持たない者は生ゴミ以下の塵芥として見られる。捨てられた塵が集まってできたのがスラム街である。
魔王はやるかたなしという風に首を横へ振る。
「本当にひどい価値観だ……魔力がなくとも同じ人だというのに。家名を重く見る上流階級では、魔力のない子供は誰からの愛も受けないまま、孤独に生かされる。座敷牢や僻地の小屋に幽閉されてな」
「で?」
「しかし君の学説を普及させれば、この風潮は終わる。魔力の有無に関わらず、誰でも豊かに生きられるようになる。現に一月前入学した子供たちは、スラムの生まれだが今は充実した生活を送っているようだ。だから頼む! この国をより良くするために、君の力を貸してほしい。魔法少女サクリファイス!」
「土下座しろ」
「えっ」
国を思う魔王の熱い言葉に返されたのは、氷のように冷たい少女の冷笑である。
少女は立ち上がってふんぞり返った。直立してようやく同じ目線になる魔王の図体が神経に障る。
「私をバカにするな。魔王みたいなえらいやつが、殊勝にも『国を良くする』だと? 真っ赤なウソだって誰でも分かる。文明百回滅んでもずっと語り継がれるくらい最高に胡散臭いウソだよそれは」
「そこまで壮大なウソでは……いやそもそもウソではない! なぜ謀る必要がある!?」
「知らないけど信じない。信じられない。もしどうしてもウソじゃないってんなら土下座しろ」
「なっ」
「できないよなあ? どうせ弱者のことなんざ政治ごっこの道具にしか考えてないんだろ? 何か真っ黒なわっるーい企みがあるんだろ? そういう悪者はなぁ、絶対土下座なんてできないんだよぉ!」
「ちょ、ちょっと姉さん! 何言ってるの、一応魔王様なんだよ!?」
「うるさいうるさい、私はえらいやつが大嫌いなんだ!」
「子供みたいなこと言って!」
「子供だよ!」
さすがに割って入ったクロアと言い合いをしているうちに、魔王は膝をついていた。
あ、と少女が声をあげたときにはすでに両手を地面につき、間もなく額も床につける。
綺麗な土下座だった。その姿勢は、魔王が国を良くするためにプライドをかなぐり捨てたことを意味する。クロアは目をまんまるにしていた。
しかしそれでも、少女の疑いは消えない。
「そ、そこまでして叶えたい陰謀があるの!? このっ!」
「姉さん!?」
少女は変身を解除して黒いローブ姿に戻ると、片方のブーツを脱ぎ捨てる。
クロアが止める暇もなく、素足を魔王の頭に乗っけた。
「む!?」
「分かったその根性は認める! 負けた! だからどんな悪巧みしてるのか白状しろ! 汚い言葉吐きながら立ち上がって私に怒れ! 悪者っぽくしろ! したらその悪いことに全面協力してやる!」
「私は悪巧みなどしていない! どうしようもない理由で打擲される者たちがいることに我慢ならん、それだけだ! 君の力なら現状を変えられる。ホープフル嬢の希望でもヘイトレッド嬢の憎悪でもない、君のすぐれた頭脳と手腕が必要なのだ。だから頼む!」
「頼むだぁ!? お願いしますだろぉ!」
「お願いします!」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
性格の悪い少女といえど、土下座した頭を少女に踏まれてなお懇願する魔王が、ウソをついてないことは薄々分かりつつあった。言われた通り敬語を復唱したのは、地位やプライドに拘りのないことの証左。有名な他の魔法少女を引き合いに出してまで必要としてくれたのも大きい。しかし少女の意地が邪魔をして後に引けない。頭に置いた素足が葛藤で震える。
状況を変えたのは、クロアの一声だった。
たしなめるように少女の肩へ手を置く。
「姉さん。踏みたいなら私が後で踏まれてあげるから。ブーツで」
「踏まんわい! ああ、もうっ、分かった! 魔王様、分かったから!」
「本当かね!?」
少女が足をどけると、魔王は勢いよく頭を上げた。
少女は渋々うなずく。
「要は今までどおり、私のやり方で魔法を教えていけばいいんでしょ」
「ああそうだ、その通りだ。それに加えて、私から一つ要請したい」
魔王がまくしたてた要請とは、魔力のない上流階級の子息たちの教育だった。少女の学説にいまだ懐疑的な国の上層部を納得させるには、上層の日陰者たちが魔法を使えるようになればてっとり速いというわけだ。
「子どもたちは根回しが済み次第こちらに送る。よろしく教えてやってくれたまえ」
「はーい……あとこっちからも要請して、いい、ですか?」
「何かね」
「スラム街に金と人とモノ回して」
だいぶ気まずい気持ちになりつつも、少女はちゃっかり言っておく。少女の私塾とアトリエを中心にスラム街の一部は改装されているが、大部分はボロ小屋と悪臭に満ちた貧民窟だ。暮らしを良くするのに魔王の後ろ盾があれば心強い。
優しい魔王は力強くうなずいた。
「もちろんだ。実は君の教え子の二十三人が、私塾のことを話題にしていてね。頂点たる魔法少女が目をつけた土地だと言って、もう金庫番たちを説得してある。近いうちにここは大きく変わるだろう」
「あ、そう……すごいな私」
「ああ、君はすごいぞ! 魔法少女の伝統に縛られず柔軟な方法で国に貢献するその衷心、まったく脱帽を禁じ得ない。魔王ではなく一人の男として、深く感謝する」
「ぐ、ぬう」
大方話がまとまって、間が空く。
その間に少女はもたもたとブーツを履き直して、小さくつぶやいた。
「し、失礼なこと言ってごめんなさい。どうぞ殴ってください」
「殴る!? バカな、子供に、ましてや魔法少女の君に手を上げるなど! 気にしなくていい、私と君は国の現状を憂える同志じゃないか。それに今まで何もしてこなかったくせに、今更弱者を救おうなどと白々しく聞こえたのはまったく理解できる。魔獣退治も魔法少女たちに丸投げ、学校の運営だって──」
魔王は「気にしなくてよろしい」という旨の長広舌を上機嫌に披露した。子供のように無邪気な笑顔で語る彼の前で、少女はうつむいて、耳まで真っ赤になっている。後ろで見ていたクロアはというと、見たことないほどしょんぼりしている姉の姿を前に、笑いをこらえるので必死だ。
そうして敗北者気分だったために、少女は去り際の魔王のつぶやきを追及できなかった。
魔王が部屋を出ようとしたとき、中を覗き込んでいたユノンの小さな身体と鉢合わせになる。
「君は……!」
このとき、ユノンの怯えた様子に顔を曇らせて去っていった魔王を、きちんと問いただしておけば──少女がそう後悔するのは、少し先のことである。
ーーー
「ああ、君のお姉さんなら向こうでお頭と話してたよ」
「ん、ありがと」
親切な職人に頭を下げて、ユノンはとことこと教えられた方向へ進んだ。
周囲では建材の搬送や路面の舗装、基礎工事に測量などがいっぺんに実施されやかましい。黒いローブの上半身をはだけさせた、筋肉たくましい職人たちが忙しなく行き来しており、ユノンの儚げな銀髪と華奢な体躯がとても目立っている。
ユノンは一枚のざらざらした紙を大切そうに抱えていた。姉の助言を元に作り直した、例の文字表と共に貼りだす予定の例文テキストである。これなら大好きな姉に褒めてもらえるに違いない。ユノンの足取りは次第に弾むように軽くなっていく。
ユノンは誰からも必要とされなかった。生まれつき魔力がないことを責められ、罵られ、詰られてきた。役立たずならせめて小間使いになれと命じられ、その役目すらすさまじい要領の悪さでまともにこなせず、勘当された挙げ句にスラム街で暮らしていた。
そうして泥水と腐ったネズミで食いつないでいたとき、姉に出会った。
『──このように、魔力がゼロに近くとも地脈エネルギーと同調し、増幅させれば魔法を使える。完全に魔力がゼロなら代わりに生命力を増幅させればいい。ただし地脈エネルギーを直接魔法に使うのは絶対やめろよ。分かった?』
『分かんない……ぐすっ……ごめんなさい』
『なんて物分りが悪いガキだ! 私はお前みたいなやつが大好きだ! 存在してくれてありがとう!』
『えっ』
姉は変わっていた。魔法の国でもっともえらい最上位魔性位階、魔法少女のくせに、魔獣とも戦わずスラム街で魔法を教えていた。それだけでなく、ユノンの類まれな理解の悪さを褒めそやした。
『どうして、怒らないの? 私は頭が悪いのに……』
『ダメな自分を恥じるんじゃない。そんなダメなところが大好きってバカも世の中にはいるのさ……誰がバカだテメーケンカ売ってんのか』
『!?』
一人で勝手にキレていた姉の言い分は奇怪至極だったが、これだけは分かった。姉は皮肉でもからかいでもなく、本当にユノンを必要としている。生まれて初めて好きだと言ってくれた。妹分だと突如言われたあの日、どれだけ嬉しかったか。
ユノンは妹分として姉と暮らすうち、不器用なところが好かれていると理解が及んだ。しかし出来ないことが出来るようになったとき、姉は飛び上がって喜んでくれる。それに気づいたときユノンは、出来ることさえ出来ないと言い張ろうかと考えていた自分を恥じた。
今日もどうにか、今の自分に出来る精一杯の役割を果たした。出来上がった学習用例文を姉に見せ、褒めてもらう。そのために、ユノンは変革途上のスラム街をごきげんに急ぐ。
姉の姿はスラム街の一角、職人たちの詰め所にあった。簡素な木組みのテーブルを、職人たちと一緒に囲んでいる。体格のいい男たちと比べると、姉の細い身体は人形のように小さく見える。
「嬢ちゃん、明日朝イチの資材の置き場がねえ。ちょちょいと魔法少女の力でどうにかならんか?」
「楽勝よ、北東エリアの空き地に行きな」
「あそこは一昨日の暴走騒ぎで吹っ飛んだだろうが、ええおい犯人さんよ」
「あー……んじゃ南の農地に場所作っとくわ」
ユノンには分からない難しい話が聞こえる。改革計画の打ち合わせをしているようだ。
ふと周りを見てみると、かつての汚くてひもじいスラム街の面影はもうない。元の住人たちはみんなある程度魔法を使えるようになったし、何人かは中央の学校で活躍しているらしい。みんな姉が頑張ったおかげだ。
その気になれば魔獣退治で活躍することもできるのに、無償で弱者たちに魔法を教え、暮らしを良くしてくれる。姉はなんて良い人なんだろうとユノンは改めて思った。まさか魔法少女の初日でやる気を喪失して相対的最強論などという意味不明な理論に基づきスラム街にやってきたなんて、欠片たりとも想像がつかない。
しばらく物陰から姉へ熱い視線を送っていたユノンだが、ハッと我に返る。いつまでも見とれてはいられない。
忙しそうだから確認だけ、褒めてもらうのは後、後。健気にそう決めてユノンが一歩踏み出すと──
「ああ、やっと見つけた。お父さんが迎えに来たぞ、ユノン」
苦しい過去が、ユノンの肩を掴んだ。
ーーー
魔法少女サクリファイスのアトリエ、応接室。
粗末なイスにはサクリファイス当人と、向かいに妹分のユノン、その隣に目つきの鋭いやせぎすの男性が腰掛けている。男性の後ろには護衛らしきいかつい男たちが五人、仏頂面で立っている。部屋の外には、心配げな顔のクロアとサプーがそわそわしていた。
少女は困惑していた。職人たちと打ち合わせをしていたら、突如男たちがユノンを連れて声をかけてきたのだ。内容次第では相手にしないが、さすがにそうもいかない。
「えーと、ユノンのお父さんでしたっけ?」
「ええ。ユリアス・グランマギクスと申します。ご存知の通り、グランマギクス中央学校の校長を務めさせていただいております」
「ご存知じゃないですが、えらい人ですね。すごいですね」
ユリアス校長の笑顔がこわばった。少女の率直な返しを挑発と受け取ったらしい。
むろん少女に別意はない。校長の顔どころか教師や同輩の顔さえ覚えてないが、並外れた立場であることは知っている。数百年続くグランマギクス中央学校の校長といえば、市井の頂点と言っても過言ではない。要はすごいおじさんだ。
(たしかに魔王様の隠し子とかではないけど……校長の娘かー)
意表を突かれた少女は、ユノンに目をやった。妹分のユノン改めユノン・グランマギクスは石のように固まってうつむいている。
「で、校長先生がどんな御用で?」
「……いえ、大したことではありません。恥ずかしながら、困った家出娘を連れ戻しにきただけなのです」
ユノンは不意に顔を上げた。絶望的な表情で少女を見つめる。
しかし校長が目だけ動かして一瞥すると、また俯いて動かなくなる。
校長はわざとらしく眉間に指を当て、弱った表情を見せる。
「実は一年ほど前、ユノンは魔力がないことに絶望し、姿を消したのです。グランマギクス家が総力を上げて捜索しましたが見つからず、失意にくれる毎日でした。ですがつい先日、貴女の私塾と銀髪の娘の噂を聞きつけ、こうして本日確認に参った次第です」
指輪だらけの黄ばんだ指が、ユノンの銀髪を梳いた。ユノンの身体がガタガタ震え、膝の上の小さな拳がこれでもかと握られている。
「……へえー。魔力がない子供にはきつく当たるのが普通な世の中ですけど、校長は家出したユノンを、わざわざ探したんですか」
「当然です。魔力の有無など、父が娘に向ける愛に比べれば何の価値がありましょう」
「はあ、愛」
「愛です。いやしかし、私のユノンが本当にお世話になりました。聞けば魔力のない娘でも魔法が使えるよう躾けてくれたとか。これで娘が家名に気を遣って家出する理由はなくなった。なあ、そうでしょうユノン?」
「……」
黙り込むユノンの肩に、太い指が食い込む。
「これからは家族で仲良く暮らそう。お前は昔から要領が悪かったが、大丈夫だ。魔法少女から直接薫陶を受けた魔法の腕前がある。我がグランマギクス家、ひいては魔法の国全体に貢献する能力が備わっているはずだ」
「……は、い」
返事は死にかけの虫みたいな声だった。
校長は壁面の落書きみたいなとびきり安っぽい笑顔で、魔法少女に向き合った。
「魔法少女サクリファイス。娘の面倒を見ていただいてたいへん助かりました。後日グランマギクス家から正式な謝礼を贈ります。それでは今日はこのへんで……ユノン?」
立ち上がり、ユノンの腕を掴んで強引に引き立たせる校長。小さな悲鳴が漏れた。
そのまま出ていこうとする校長だが、ユノンはうつむいてその場を動こうとしない。
魔法少女サクリファイスはその様子に、深いため息をついた。
(冷静に考えろ、私)
少女は校長の話に何一つ納得していない。校長の動きの端々に見られるユノンへのぞんざいな扱いには、モヤモヤとイライラを通り越して怒りさえ覚える。
しかし感情のままに振る舞った結果、魔王に失礼を働いてしまった。えらい人間が悪いやつばかりだと決めつけるのはいけない。物事の表面だけ見て動いてはいけない。
かといって現状の情報だけでごちゃごちゃ推理するのも面倒なので、少女はもっとも手っ取り早い確認を取ることにした。
「くそっ、おい誰かこの子を運べ、きっと疲れてるんだろう」
「待って待って、校長待って」
「む?」
しびれを切らした校長にあわてて待ったをかける。
「ユノンにちょっと聞きたいことあるんですよ。いいでしょ?」
「……手短に頼むよ」
うつむいたユノンの両肩をつかみ、正面から目を合わせる。恐怖で涙をいっぱいためた瞳が忙しなく揺れていた。
冷静に、抑えろ。賢い魔法少女は同じ失敗をしない。必死で言い聞かせる。
「ユノンはお父さんと一緒に暮らしたい? それはユノンが本当に望んでいること?」
「おい、何を」
「黙ってろ」
校長が声を荒げたのに反射で少女は変身してしまった。逆転した赤い蝋燭の火はいつもより大きく激しい。
ピンと張り詰めた空気の中、ユノンは喘ぐように口をぱくぱくさせる。何かを言おうとしては喉奥につっかえている。
「はい、とそう言おうとしてるんだ。悪いが急いでいるんでね、失礼──」
「私は嫌だぞ、ユノン」
校長と同じく少女もしびれを切らした。ユノンを置いてけぼりにして言いたいことを言う。
「私はユノンと一緒に暮らしたい。いろんなことを教えてやりたい。お前は私の教え方だと中々覚えないくせに、クロアの教えはすぐ覚えるんだ。憎たらしいやつだよ。あと最近、サプーいじめるの楽しんでるよね? 私も楽しい、だけどあいつを取り押さえるには人手がいるわけ。だからさ、その──行かないで」
まっすぐな少女の言葉を受け、ユノンは苦しむのさえ忘れて絶句していた。
静寂の中、堰を切ったようにユノンの瞳から涙が溢れ出す。
「私も、行きたくない。お姉ちゃんと、クロア姉とサプ姉と、一緒が良い。そこの人は私を捨てた、名前も呼んでくれなかった。全部ウソ、怖い、嫌い、嫌い!」
「よーし分かった!」
「何をバカなことを。子供の妄言だ。おい、引きずってでも連れ帰れ」
苛立たしげに吐き捨てる校長。安っぽい笑顔は消え、計算高い冷徹な目がユノンを見下している。
命令を受けた五人の屈強な男たちは、ユノンの小さな背中に手を伸ばす。しかし直後、金縛りにあったようにびくりと硬直した。
ユノンの肩越しに少女が睨みつけていたからだ。多少荒ごとに縁がある男たちだからこそ、あと一歩でも踏み込めば魔法少女の殺意が躊躇なく発揮されることを察知した。
「何を突っ立っている! 揃いも揃って木偶の棒か、忌々しい……おい魔法少女」
「は?」
「ママゴトはやめてさっさとソレを渡せ」
「なんで?」
「貴様の新説は価値がある。その手法を身に付けたソレの価値もまた高い。我がグランマギクス家で研究を深め、普及し、後世まで語り継がれる功績とする。そのためにソレが必要だ」
「なんで?」
「いいから渡せと言っている。私の一言で、貴様の訳の分からん改革計画など白紙に──むぐっ!?」
「なんでっつーのはそーゆーことじゃなくてさ」
校長の口は塞がれた。不意打ちで接近した少女が、拳を校長の口へ捻じ込んだからである。
脂汗を浮かべる校長の頭をぐいと目線まで引き下げて、静かに言った。
「なんで私が言うこと聞く前提で話してんのってことよ」
「ぐっ、ぬ……!?」
「動くな、喉千切るぞ」
校長に目線で合図された護衛の男たちは、少女の冷え切った声で再び動きを止める。校長は恐怖か生理反応によるものか、どちらともつかない涙を流している。
「ほんと、あのおっさんがいいやつだったせいで無駄に時間食った。ありがとうね校長、分かりやすい悪者でいてくれて。本来えらいヤツってのはあんたみたいのがふさわしい」
「ぐぐ……!」
「女の子の手咥えてんなよ気持ち悪いっ!」
少女は突如声を荒げ、校長の胸板を蹴って距離を取った。言い分はもう無茶苦茶だ。ヨダレと血といくらか折れた前歯が床を汚す。校長はひどく咳き込んでいた。
「おい、きれいにしろ」
「は、はいっ!」
怒れる魔法少女の眼光に貫かれた護衛の男の一人は、上着の裾で必死に床の汚れを拭い始めた。
ひとしきりきれいになったところで校長がようやく持ち直し、アトリエの外へそそくさと向かう。
「薄汚い尖兵風情がふざけおって……! いいか、グランマギクス家にたてついたこと、後悔させてやる! 精々力に酔っているがいい、小娘!」
少女は後を追わず、ただ変身を解いて、泣いているユノンを抱きしめる。
泣き止むまで付き合おうかと思ったものの、ユノンは涙を流しながら、くしゃくしゃになった一枚の紙を取り出した。それには少女と共に作るはずだった文字学習用の例文が綴られている。
『わたしはだれにもひつようとされなかった』『おねえちゃんがひつようとしてくれた』『だからわたしはここにいる』
「おっっも! こんなクソ重い文章講堂に貼り出せんわ!」
「えへへ」
「えへへじゃないよ、まったく」
相変わらず出来の悪いユノンに笑顔を浮かべながら、サラサラした銀髪を撫でる。
そうしていると、応接室の外でハラハラしていた妹たちが顔を出す。クロアは憤怒、サプーは冷めきった無表情だ。
「あの男許せない! ユノン泣かせて姉さんの手を汚した!」
「追わなくてよろしいの?」
「よろしい。逃げる相手を追うのは魔法少女じゃない。そうそう、クロア?」
「え?」
「クロアの苗字言ってみて」
「ただのクロアだよ? 気がついたらスラムだったから」
つまり、クロアが亡国の元王族だったり魔法の国の中枢に食い込む権力者の縁者だったりする血縁トラブルは今後ないわけだ。少女はほっと息をついた。
グランマギクス家は魔法の国でかなりの権力を持つ。校長の捨て台詞は形だけでなく中身を伴うものになる。仮に脅し文句の通りスラム街改革計画が白紙に戻されれば、せっかく暮らし向きが向上してきた今かなりの打撃になる。
そうなるとやはり、代償の魔法を使わざるを得ない。果たして校長による有形無形の圧力を無効化する現実改変に、どれだけの代償が必要となるのか。見当もつかないが、必要ならやるしかない。
そこまで考え覚悟を決めたところで、少女はあっと閃いた。
「魔王がいるじゃん」
ーーー
結果的に、校長からの嫌がらせの類は一つとしてなかった。
私的密偵を動かし始めて間もなく、校長は知ったのだ。スラム街の改革には魔王が絡んでいる。つまりその計画を現場で主導する魔法少女サクリファイスは、魔法の国の象徴でもある魔王を後ろ盾としている。
同じお飾りの立場とはいえ、国を興した魔王一族と学校を設営したグランマギクス家では格が違う。下手に盾突けば魔王一族と近い国の上層部が動き出し、反逆者扱いされて取り潰しの憂き目に合うだろう。
そのように報告を受けたところで、校長は思い切り執務机を殴りつけながら、
「あのクソガキ共がっ!」
と毒づいたとか。