砂漠の中を一人の少女が歩いていました。
赤い髪にターバンを巻いて。手には穴の開いたぼろぼろの袋をもっています。陽に焼けないようにでしょう。丈の長いスカートと白い羽織を着ていました。
ただ、今日の砂漠は少し様子が違いました。いつもはギラギラと燃え盛っている太陽はどんよりした雲の後ろに隠れています。
少女は立ち止まりました。空気がほんの少し重い気がします。
「ああ、雨が来ますね」
そういったとき空からぽつりと彼女に落ちてくるものがありました。
少女の鼻先にいたずらするように落ちてきた水滴に彼女は「冷たっ」と言います。それは少し楽しそうで、かわいらしいものでした。
それからざぁと雨が降り始めました。
砂漠を洗い流すように、
一年に数度ある空からの恵みです。
少女は空を見て笑顔になります。ぼろぼろの袋を投げ捨てて、その場で両手を広げます。そしてくるくるくると踊るように、スカートをひらひらと動かしながら、楽しそうに。
その時です。
ごろごろと空が鳴り、ぱぁんと光が世界を包みました。
「きゃっ」
少女は雨の中でしりもちをついて、耳をふさぎました。久しぶりに見た雷に彼女はどうしようどうしようとあたりを見回します。
ごろごろ
その音に少女は転がっていた袋をつかんで走り出しました。
今にも泣きだしてしまいそうな顔で走ります。雨の降る砂漠を彼女は――飛んで逃げることにしました
☆
とあるオアシスの街に少女は駆け込みました。
とある家の軒下を借りて、ふうと息をつきます。濡れてしまった服を手で搾ります。ちゅうと搾りだされた水が地面に落ちます。
「おい、お前」
しわがれた声が聞こえました。少女が顔を上げると家の窓から老人が見下ろしていました。
「そんな格好だと風邪をひくぞ。中に入れ」
「……いいですか?」
「いいから入れ」
少女は老人の好意に甘えることにして中へ入りました。家の中はそう広くはありません。出迎えてくれた老人は黒いローブをまとっています。深いしわに白いひげ、そこに彼の人生が刻まれているような気が少女にはしました。
「私は宝石商のラドルマと言います。ご厚意に感謝します」
ぺこりと丁寧に赤い髪の少女――ラドルマは頭を下げました。老人は煩わしそうに手を振りました。
「人の家の前で困っている者を放置しておくほど冷たくはない。適当にくつろげ。ああ、その服は着替えたほうがいい、あっちに私の妻の服がある」
「……ありがとうございます。奥さんの服を勝手にお借りしてよいのですか?」
「かまわんさ。あれも文句は言わないだろう」
ラドルマは奥できれいに仕舞ってあった服に着替えました。それは青い、空の色を落とし込んだような長衣でした。彼女はそれに袖を通すと、運の良いことに体にぴったりとなじんでくれました。
脱いだ服は乾きやすいように干してラドルマはターバンを取ります。水にぬれてつややかに光る赤い髪がぱらっとこぼれました。
ラドルマは着替えた後、老人を探しました。窓の外はまだ雨が降っています。
その小さな窓の前に老人は座っていました。彼の前には小さなテーブルと誰も座っていな椅子がありました。そのテーブルの上には小さな冊子が置かれていました。
「着替えたか」
「はい。とても助かりました」
「…………」
老人は雨を見ながら何も答えませんでした。ラドルマは照れ隠しではないかとすこしいたずらっぽく想像を膨らませましたが、何も言わずに椅子に座りました。
「よろしければ少し話の相手でもいたしましょうか?」
「ふん。余計なことだ」
ラドルマは少し笑いました。
「……私は宝石商ですから、お礼といえばお話の相手をするか……高価な宝石をお渡しするしかありません」
「そんなものいらん」
「お礼はしなくてはいけませんから……わざと落としていくかも」
ラドルマはにこりと笑いました。老人はため息をついていいます。
「なんだその脅しは、初めて聞いた。いいだろう、話くらいしてやるから宝石を落としていくな」
老人の言葉にラドルマは「残念」とわざとらしく肩をすくめました。老人は招き入れた少女の様子にすこしおかしみを覚えました。
「お前はどこから来たんだ?」
「どこから……さあ、旅の商人ですから、あっちからこっち。どこからでも来ますしどこへでも行きます」
「なるほどな。故郷はどこだ」
「よく覚えていませんね」
「……そうか」
雨の音が響きます。きっともうすぐやむでしょう。ですが砂漠の雨は激しく地面をたたきます。ラドルマと老人は暗い室内から外を見ていました。
「静かですね」
「雨音がうるさいだろう」
正反対の感想を言い合いながら、他愛のない話を続けました。
老人はその途中でテーブルの冊子を開いて、動物の骨で作ったペンで何かを書き込みました。
「それはなんですか?」
「ああ、大したものじゃない。物覚えが悪くなっているから、日記代わりに付けているだけだ。お前の名前や話を簡単にメモしている」
「……なんでそんなことを?」
「だから物覚えが悪くなっているからだ」
「いえいえ。書き留めるほどのことを話した気がしませんでしたから」
「……そうだな。まあ、それはな、わからないものだ」
「わからない? 不思議なことを言いますね」
「そうでもない」
老人は冊子を閉じて表紙を愛おしそうに撫でました。
「そうでもないさ。人生あとから考えたら他愛のないと思ったことが大切なことだったと気が付くことがある。それはな……わからないものだ」
彼は眼を閉じました。
――これは妻が書き始めたものだ。中には私と一緒にいた日々のことが書いてある。本当にどうでもいいようなこと簡単に残してくれている。食事の様子や、どこを歩いただとかな。
――気を悪くしないでくれ、妻は……亡くなった。お前の着ているのは形見のようなものだ。あれが生きていればな、お前を雨にぬれさせたままの方が怒るだろうと思った。お礼などいらない。どうせ私一人だけなら見捨てていただろうからな。
――妻は優しい女性だった。愚かな私をたててくれる聡明な女性だった。
――……私は妻がなくなったときこの冊子を開いた。毎日のことを他愛のないことを残してくれていた。だが、私は、そのほとんどを記憶のどこかに忘れてきてしまった。……その日々のことをぼんやりとしか思い出せない。妻は大切に思っていくれていたのにな。
――もちろん私が大切だと思った記憶は思い出すことができる。だがそれもだんだんとぼやけていく……怖いものだ、私は怖いと思った。人は忘れることのできる生き物だ。だから、妻を亡くした時の悲しみさえもだんだんと薄らいでいく。いつか私はすべて忘れてしまうのではないか……本当の私は妻を大切になど思ってなかったのではないか? そう思うと……心から恐ろしい。……だから恐ろしさを紛らわせるために私は何かあるたびに記録している、ただ、それだけのことだ。
――まあ、若いお前にはわかりにくいことだと思うが……意外と人生は振り返らないとわからないものだということだ。
老人は椅子に深く腰掛けて息を吐きました。少し疲れているような、そんな様子でした。
ラドルマは言いました。
「……きっと奥さんもいつまでも悲しんでほしいとは思わないでしょう。……それに人間が忘れてしまえることは……残酷なことの多いこの世界でも、優しいことだと思いますよ。だって、全部覚えていたら……押しつぶされてしまいますから」
ラドルマも何かを思い出すように沈黙しました。そしてしばらくして老人に優しく微笑みましたら。老人もふっと笑いました。彼は冊子になにかをまた、書き足します。
☆
星のきれいな夜でした。
砂漠に降った雨が空をきれいに磨いてくれたのでしょうか。遠い、とおい空の果てまでつづく天の川が見えました。
砂漠の中に一人の少女がいます。
彼女は空を見上げていました。彼女はポケットから紙を取り出して動物の骨で作ったペンでさらさらと何かを書きます。
それからはっとしたように苦笑しました。
彼女はその紙を片手で空に掲げました。そして指を離します。
砂漠の風がその紙を巻きあげました。
星の空に向かって、書き残したそれを