クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘 作:オリスケ
どこまでもどこまでも、走っていけるような気がした。
そこには真っ平らな草原があった。
若く萌える淡い緑色の絨毯が地平の果てまでまっすぐ続いている。
空は高く、太陽は眩しく温かい。澄んだ空気には土と若草の香りが混じっている。時折涼やかな風が吹くと、若草が一斉にそよいで、陽光を反射した光の流線を幾重にも描き、平原全体がまるで海のように躍動する。
少女は走る事が好きで、その平原が大好きだった。
両足をめいっぱい回して地面を蹴り、大きく振った手で空気を切る。時速五〇キロを越す彼女の走りが風を呼び、草葉をザァッと騒がせる。
手を広げて青空に翳し、火照った身体全部で風を受ければ、そのまま翼が生えて飛び立てるような気がした。
後ろに結った白髪を靡かせ、ざん、ざんと力一杯大地を蹴る。走る事は彼女の喜びだ。その昂揚を、広い草原が全て受け止めてくれる。
それが、この地域で一人しかいないウマ娘の、最も好きな時間だった。
彼女はとにかく走る事が好きだった。力いっぱいに身体を動かすと胸がすっと透くような気がする。足を回し更に加速すると、自分が風になったような高揚感で勝手に笑顔が吹き出してくる。
彼女の走る草原は放牧地域となっており、時折羊を放牧している農家の人と出会うと、皆走る彼女に向けて手を振って挨拶してくれる。彼女は元気いっぱいに手を振り返し、時には休憩代わりに羊の毛繕いや乳搾りの手伝いをする。この草原に暮らす酪農家の数は一〇に届かず、みんな家族のように仲が良くて、彼女はみんなの娘のように扱われていた。
日は高く、雲は一つもなく、草原はずぅっと先まで続いている。
いつまでも走り続けられる気がした。このまま走って、どこへでも行けるような気がした。
そんな風に駆けていた彼女の、頭の上からぴんと伸びた耳が音を捉える。
立ち止まって顔を向ければ、一〇〇メートルほど先、一本だけ伸びるあぜ道を進む影があった。
暗い緑色の塗装に沢山の泥と煤を付けた無骨な車体。軍の輸送車だ。それが五台並んで行進している。
珍しい。それが最初に抱いた感想だった。父の聞くラジオのニュースで「そういう事をしている」とは知っていたが、少女の過ごす草原とは無縁の話だと思っていた。
ブロロロという激しい排気音が遠ざかるまで見送って、少女は再び草原を走り出す。
再び風を感じ始めた時には、軍用車両の事なんて頭から消えていた。
その時までは、戦争なんて他人事でしかなかった。
家に帰ると、父がいなくなっていた。
母は明かりも点けず薄暗いリビングに蹲って啜り泣いている。癇癪か、あるいは諍いがあったのか、割れた食器の破片が散乱している。
憔悴した様子の兄と弟から、父が戦争に行った事を教えられた。肩を叩かれ、抱き締められる。
呻くような母の泣き声はずっと続いていた。それを振り払うように、兄は少女に言った。つらいけど頑張ろうと。父さんが帰ってくるまでの辛抱だと。
それから、少女は兄と弟と三人で、父の仕事をこなすようになった。羊の世話をし、庭の小さな畑を耕し、野菜を育てる。山羊の乳を搾って街に売りに出かけ、そのお金で食糧を買う。母の元気がない時には料理もした。
大変な生活だったが、耐えられないほどではなかった。父さんが帰ってくるまでの辛抱だと、家族みんなで力を合わせて頑張った。
それに、少女は走る事が大好きだった。家畜の世話でくたくたになっても、草原を走れば、その疲れさえ吹き飛ばす事ができた。
草原は相変わらず果てしなく、どこへだって行けるような気がした。あの夕日の沈む地平線の先から、いつか父が手を振って帰ってきてくれると信じる事ができた。
半年後に父は帰ってきた。
父は、穴の空いた標識と、数枚の書類に姿を変えていた。
軍人から書類を受け取った母は、その場で崩れ落ちた。皮肉のように澄んだ青空に、母の泣き声が響き渡る。
悲鳴に気づいて家畜の世話を切り上げた少女は、家の前で崩れ落ちた母の姿を見た瞬間に、逃げるように草原へと駆けだした。毅然と立つ軍人が、彼女のお尻で揺れる白毛の尾に視線を向けているのを感じ、それから逃げるように更に速度を上げる。
足はいつもより重く、息はすぐに荒くなる。けれど止まりたくなかった。彼女はまだ自分の見た光景を信じ切れずにいた。立ち止まると、彼女が見た光景が現実のものとなってしまう気がした。
空は真っ青に澄んで、土の香りがする風に若草がそよぐ。草原は相変わらずどこへでも行けそうな気がした。少女は息を荒げ、吹き出す汗を拭うのも忘れて、走って、走って、走り続けた。
空が赤くなる頃に、体力の限界が来た。草原に膝をつき、痺れる肺に空気を送り込む。
相変わらず、草原は地平の先まで続いていた。
何度も深呼吸して、夕日の沈んでいく草原の先を呆然と見つめて、やがて少女は踵を返す。
そうして、彼女は戦争を実感した。
変わらず苦しい、父が死んだ事で変わり果てた生活が始まった。空気は重く、会話はぐっと減った。兄も弟も懸命に頑張ったが、疲労は次第に積み重なり、喧嘩も増えた。夜に寝付けず、時に母が啜り泣き、時に兄弟が取っ組み合いの喧嘩をして、目が覚める事もしょっちゅうだった。
前より、草原が好きでなくなった。
力一杯に地面を蹴っても、爽快感が心のわだかまりを消してくれない。どこにでも行けそうだと感じたあの高揚は嘘のように消えていた。
少女は理由も分からず、何も感じられずにただ走る。そうして空が赤くなった頃、草原の真ん中で呆然と佇み、力なく踵を返すのだった。
その日、とぼとぼと家に帰ってきた少女は、血相を変えた弟に呼び止められた。身を隠すように家の裏手に回る。そっと覗き見た家の前には、軍の車輌が止まっていた。
娘は戦争になんて行きません! という母の張り裂けるような叫びが家の中からした。目を真っ赤に泣き腫らした母が、起立する軍人に掴みかかるような勢いで怒鳴っている。傍らの兄も敵意を隠さずに睨み付ける。
軍人は起立したまま、二人の威圧に微動だにしない。ウマ娘の従軍を拒否するのであれば、それに見合う我が国の貢献をして貰わなければいけない。そう淡々と告げる。
俺が行く、と兄が言った。
軍人は首を振り、弟と二人だと言い放った。ウマ娘に変わるのだからその位は当然だと態度が伝えていた。
隠れてそれを聞いていた少女は、傍にいる弟を見る。まだそばかすも取れていない幼い彼は、唇を噛んで、少女にぐっと頷いて見せた。同じタイミングで、兄が構わないと告げる。
とうとう耐えかねた母が崩れ落ちる音が響く。もう、泣く気力さえも残っていなかった。
明日迎えに来ると言う軍がいなくなっても、兄も弟も泣かなった。戸惑うばかりの少女の肩を抱き、この家を頼むと告げる。
少女はどうすればと不安を吐露した。ウマ娘とはいえ、家畜の世話から家の事まで、母とたった二人でこなせるものではない。
我慢できず、少女は自分の代わりに戦争に行こうとする二人に聞いた。
――こわくないの? と。
二人は何も言わなかった。まだ幼い二人の顔は固く強張り、目は潤んでいる。
――待っててくれ、クレア。
絞り出すような声で、兄が言う。
少女はようやく、自分の肩に乗せられた手が小刻みに震えている事に気が付いた。
――必ず、生きて帰ってくるから。それまで、どうか……
それ以上は言葉にならなかった。それが父ですら果たせなかった約束であることを、誰もが思い知っていた。
その日の夜、少女は一人草原を駆けていた。
相も変わらず空は高く、眩い月が浮いていた。冷たい明かりが草葉を銀色に照らしている。
りぃんりぃんと鈴虫が鳴き、冷たい風が呻き声のような音を奏でる。風は身体の芯に届くような冷たさだった。そんな銀色の静かな草原を、少女は一人駆ける。
はぁ、はぁ、荒い吐息が夜の空気に溶けていく。高揚感はまったくやってこない。
ウマ娘。
走るために産まれてきた、人と異なる少女達。
走る事が好きだった。思い切り地面を蹴って全身に風を浴びると、胸が一杯になる幸せを感じられた。火照った身体で吸い込む土と草の香りが好きだった。
一面に広がる草原を走っていると、どこへでも行けそうな気がした。
なのに、草原はどこまで行っても変わらなく、延々と続いていた。
全力で走って、疲れ果てるまで走って、とうとう足も動かなくなって地面に倒れ込んで――そうして顔を上げた先にも、草原は果てしなく続いていた。
走っても、走っても、何も変わらなかった。
地平の先から父が帰ってくる事は絶対にない。
朝日と一緒に、軍の輸送車は必ずやってくる。
兄弟が一緒にいなくなれば、家族は必ず崩壊する。
どれだけ走ったところで、この現実は絶対に変わらない。
ぎゅっと唇を噛んで、ぽろぽろと涙を溢して、少女はただただ茫漠と広がる、何もない草原の中で泣きじゃくった。
そうして、朝日と共に少女は家に帰り着く。
家の前で少女の帰りを待っていた母と兄弟は、顔を見て、彼女の意志を悟る。
少女は何も言わず、ただ深く頷いた。迷子の子供のように憔悴しきった顔で。
間もなく、排気音を奏でて、軍の輸送車が地平線の向こうからやって来る。
少女は抵抗せず、残される事になる家族を強く強く抱き締めて、輸送車に乗り込む。
それが最後の邂逅になるかどうかも、どこに行くのかも、なぜ行くのかも、何もかも分からない少女を乗せて、輸送車は草原を駆けていく。
空は相変わらず、場違いなほど澄んでいた。
時は一九一五年、第一次世界大戦。
そのウマ娘の名前はクリミアホワイト。
これは走るために産まれたにも関わらず、走る自由を奪われた、時代に翻弄された少女の物語だ。