クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘 作:オリスケ
次にクリミアホワイトが知覚したのは、全身を揺さぶられる乱暴な振動だった。
うっすらと目を開けると、鼠色の空と、自分を覗き込む顔が見えた。医療テントでサブリーダーのような立場にあった壮年の看護婦が、ほっと安堵し肩を落とす。
「ここは……っあ、づぅ」
「動いちゃダメよ、寝てなさい。傷が開いちゃうわ」
目覚めた瞬間、激しい痛みがじんじんと襲いかかってくる。意識を向けると、服の下、右肩に包帯が分厚く巻かれているのが感覚で分かった。首を傾ければ、穴が空いた軍服は真っ赤に塗れている。
ふと見回せば、鼠色の空を背景に沢山の兵士がいて、横たわるクリミアホワイトを見守っていた。誰もが彼女が起きた事に安心して微笑みを浮かべている。
ゴトゴトという振動はずっと続いている。ようやくクリミアホワイトは、自分が軍の自動車に乗せられている事を理解した。
「あの……ここはどこですか? 前線基地はどうなったんですか?」
痛みは酷いが、気絶したように寝入っていたお陰か、思考は鮮明だった。クリミアホワイトは痛みに喘ぎそうになるのを抑えて、看護婦に聞く。
車に乗っていた兵士達が、揃って顔を見合わせる。看護婦は小さく息を飲み、やや躊躇いがちに言う。
「前線基地は放棄されたわ」
「放棄……?」
「敵の侵攻を抑えられなくなったの。北部の前線が崩れて、そこからも敵が雪崩れ込んできているらしいわ……撤退命令が出たの。私達は負けたのよ」
「……そう、ですか」
強張った声で告げられた事実を、クリミアホワイトは自分でも驚くほど冷静に受け止めていた。戦況は圧倒的に厳しく、負けるのは時間の問題だと一兵卒の間でも噂されていたほどだ。医療テントで手伝いをしていたクリミアホワイトも、戦況の厳しさを体験していた一人だ。起こるべき事が起こったというだけの話に違いなかった。
「そうですか……負けた、んですね」
しかし、思う。冴えてしまった頭が、彼女をその事実に直面させてしまう。
果たして自分は、どのくらい寝ていたのか。その間にも、戦いはずっと、ますます苛烈に続いていったはずだ。
沢山の人が、死んだのだろう。
死ぬ必要のなかった命が。帰りたい場所のある人達が。掃いて捨てるような呆気なさで、山のような数。
思い出してしまう。肩を貫く痛み。倒れ込んだ土の苦い味。
胸に突き刺さる銃弾。命を失い、動きを止めた顔。
「っ……エドワード、さん……」
目の前で奪われた命の重さに、心が震え、涙になって頬を濡らす。
助けたかった。家族に会わせてあげたかった。自分のように父を奪われる悲しみを、彼の家族に味合わせたくなかった。それなのに。
「……私は、役立たずですね」
思わず口をついた弱音。
それに反応したのは、周りで息を詰めて見守っていた兵士達だった。
「馬鹿なこと言うなよ嬢ちゃん。嬢ちゃんは、二三人もの負傷兵を救助したんだぞ。役立たずなもんか」
「嬢ちゃんのお陰で、これからも旨い飯を食って家族に会える奴がいるんだ。助けられたみんなが、お前は天使だって口を揃えて言ってる」
「そうだぜ。嬢ちゃんが助けた奴らのためにも、ちゃんと自分を誇ってくれよ」
口々に、クリミアホワイトを激励する言葉をくれる。それは、この前線基地に配属され、怯えて自分を見失っていた頃からすれば、信じられない光景だった。
「私が、助けた人のためにも……」
思い出す。救出した兵士達の、泣き出しそうな安堵の表情。自分に向けられた感謝の言葉。彼等の事を思い出すと、胸が膨らむような喜びを感じる。
けれどそれは、目の前で死んでしまった伍長に対する、胸が張り裂けるような悲しみを和らげはしない。
助けられた人がいる、助けられなかった人がいる。
誰一人として死んで欲しくないけれど、救えるのは自分の手の届く場所までだ。
できたこと、できなかったこと。助けられた喜び、助けられなかった悲しさ。相反する二つの感情が、混じり合わないまま心の中で渦巻いている。
笑えばいいのか、泣いていいかも分からない。
気が付けば、クリミアホワイトは彼を探していた。
「……あの。デュナン先生はどこにいますか?」
生きてさえいれば勝ち。一人でも多くの人を勝たせるために、できる事をする。前に聞いた彼の言葉を脳裏で反芻する。
彼は柔らかな笑みを浮かべ、力強くそう宣言して、自分に頑張る目標をくれた。一人でも多くの人を助けたいと心を震わせ、走る力をくれた。
先生なら、このこんがらがった感情も解きほぐして、また目標をくれるはずだ。
そんな縋るような感情を込めて聞いた質問に対し……看護婦が目を見開き、固まった。
周りの兵士も押し黙り、凍りついたような静寂が満ちる。
「……皆さん? なんで、そんな顔をするんですか」
「……」
誰も答えない。看護婦はぎゅっと表情を強張らせ、必死に言葉を探している。
神経に針を通されるような怖気が、クリミアホワイトに襲った。
「っ先生、先生はどこにいるんですか!? 会わせてください! 今すぐに!」
「待って! 暴れてはダメよ、クレア!」
身を起こそうとしたクリミアホワイトの身体を看護婦が掴んだ。撃ち抜かれた肩が激しく痛み、そのまま抑え込まれる。
「落ちついて聞いて頂戴……先生は、前線基地にいるわ」
「え……どうしてですか? だって、さっき、撤退命令が出たって。私達は、負けたって言ったじゃないですか」
「自分の足で撤退できない、車に乗せきれない負傷兵が沢山いるの。デュナン先生は、その人達のために残る事を選んだの」
「だから、どうしてなんですか!? みんな撤退して、空っぽの前線基地に残るなんてしたら……!」
言葉は最後まで続かなかった。クリミアホワイトがあえて言葉にせずとも、誰もがその事を承知だった。
どうにもならない事なのだ。全員を運べる数の車輌はない。輸送できる人員には限界がある。彼等は必然として、命を選別せざると得なかったのだ。そして、その切り捨てられた命の中に、デュナンは残ったのだという。
「あなたのように、自分にできる事を最後までやりぬくって、先生は言ったわ。医療テントに患者がいる限り、最後まで守り抜くのが自分の務めだって」
「そんな……そんなことって……!」
「私だって止めたわ。皆で必死に説得した。けれどクレアも分かるでしょう。あの人は本当に、心に決めた事はちっとも曲げてくれないの……!」
看護婦の声は震えていた。睨み付けるような険しい表情には、奥底の悔しさ虚しさがありありと滲んでいる。
困惑して痺れた脳に、告げられた現実がじわじわと染みてくる。
今になって、記憶が蘇ってくる。鎮静剤を投与され意識を朦朧とさせたクリミアホワイトにかけられた、慈しむような声。
――どうか元気で、クリミアホワイト。
横髪を梳いて囁かれたそれは、間違いなく別れの言葉だった。
そう気付いた瞬間、クリミアホワイトは飛びだそうとした。しかしダメだった。看護婦が身体をがっしりと押さえつけ、彼女を寝かしつけようとする。銃弾に抉られた肩から激痛が電撃のように走る。
「っぐ……やだ、離してください!」
「ダメよ! 肩の傷は酷いし、転んだ足も負傷しているかもしれない――私はあなたを守るように先生から頼まれたの。行かせる訳にはいかないわ!」
「いやだ、そんなの認めません! 先生が死のうとしているのに、見殺しになんてできる訳ないじゃないですか!」
押さえつけられたまま悶え、悪夢を振り払うように懸命に叫ぶ。
このままでは死んでしまう。エドワード伍長に続きデュナンまで。頑張る自分を応援してくれた、自分に目標をくれた先生が。
「とっくに前線基地は占領されているわ。間に合う筈がない!」
「そんなの分からないでしょう! もしかしたら間に合うかもしれない、それで充分です! 私は走ります! 私が走れば、先生を助けられるかもしれないから!」
「いま戻れば、あなただって死んでしまうわよ!?」
「それでもです! 私は、ただ草原を走っていたあの頃とは違う――今の私には、辿り着きたいゴールがあるんです!」
懸命の叫びに、看護婦がぐっと表情を歪める。
彼女だって辛いのだ。共に働き命を救い続けたデュナンを諦めていいはずがない。クリミアホワイトの気持ちは痛いほど分かって、その上で彼女は、クレアを守ってくれというデュナンとの約束を果たそうとしているのだ。彼女は一向に暴れる事を止めないクリミアホワイトに、辛そうに歯噛みする。
「ッ皆さん、ぼうっと見てないで手伝ってください! この娘を車から出す訳には――」
看護婦が顔を上げて口を開いた時。
突然鳴り響いた金切り音が、後に続く言葉を断ち切った。同時に車輌が急ブレーキをかけ、乗っていた全員を横倒しにする。
皆が混乱から立ち直るより早く、鼠色の空に破裂音が轟いた。鉛弾が車体を直撃する激しい音が雨のように降り注ぐ。
「敵襲! 北部から回り込んできた敵軍が、ここまで追ってきやがった!」
「動ける奴は車を降りて応戦しろ、早く早く!」
後続に控えていた車輌の兵士が叫び、兵士達が銃を手に車を降りていく。
視線を向けた平野の向こうには、車輌四両を軸に、即席の陣形を展開した敵軍隊。星粒のような光が煌めくたび、空気を切り裂く唸りが鳴って、どこかに風穴が開く。ばつと破裂音を立てて車体が穿たれ、横に広がった自軍のあちこちから悲鳴が上がる。
「っあ、んぐぁぁぁ……!」
倒れた拍子に肩を強く打ったクリミアホワイトが、身体に走った痛みに悶絶する。
しかし、決意を抱いた彼女の立ち直りは早かった。根性で痛みを黙殺し、よろめきながらも立ち上がる。
視線を向けると、同じく投げ出された看護婦と目があった。突然の襲撃に竦み上がっていた彼女は、クリミアホワイトの目を見、彼女の決意を悟り、大きく目を見開く。
「――ダメよ、よしなさい」
「止まりたくないんです。助けられるかもしれない命があるなら、私はそのために走りたい」
「先生だって、そんな事は望んでいないわ」
「だったら、引っぱたいてでも正気に戻して連れて帰ります」
「……」
「死んでいい人なんて一人もいない……先生が私に教えてくれた事を、今度は私から教え返してきます!」
クリミアホワイトのまっすぐな目を見て、看護婦は返す言葉を失った。
もしかしたら助けられるかもしれない。間に合うかもしれない。
それに賭けたいと願ってしまった。
彼女の足に、願いを託したいと思ってしまった。
クリミアホワイトは、すぅ、と深く息を吸った。
揺るがない決意を、更に固く引き結んで。
迷いなんて一つもないと宣言するように。
「ごめんなさい。いってきます!」
そう言って、クリミアホワイトは車輌を飛び出し、走り出した。車輌の前面、即席の横陣を組む兵士達の後ろ、弾幕の弾ける只中を、風のように走る。
緊張に竦み上がるような感情を抑えて、冷静に自分を検める。足は動く。疲れは無視できる。肩はとてつもなく痛むが、腕は振れる。だから問題ない。
後は、走るだけだ。
大地を蹴って、白髪を後ろに靡かせて、クリミアホワイトは突き進む。
戦場で出会えた、辿り着きたい目標に向けて。どうか間に合ってという願いすら追いつけないほど早く。