クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘   作:オリスケ

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第13話

 

 

 走れ。走れ。走れ。走れ。走れ。走れ。走れ。

 腕を振り、足を回して、枯れた大地を蹴る。掘り返された土と硝煙で煙る咽せるような空気を吸い込み、かき分け、弾丸のように、まっすぐ前に。煤けた灰色の世界に、白い線を引くように。

 銃撃戦の音はあっという間に遠ざかり、聞こえなくなった。みんなは大丈夫だろうか。どうか無事でいてほしい。死んでいい人なんて一人もいないのだ。みんなそれぞれに帰る場所があって、会いたい人がいる。

 それぞれ、傍に居て欲しい人がいる。

 失いたくない人がいるんだ。

 

 

「っは、っは、は、は、は、はぁッ」

 

 

 これまでになく呼吸が早い。腕が自動車のエンジンみたいに回っている。心臓がばくばくばくばく止めどなく跳ねて怖いくらいだ。景色がぐんぐん後ろに流れていく。

 目は見開いたまま前を向いて固定されている。瞬きの仕方を忘れてしまった。目だけじゃない。腕も、足も、肺も心臓も、自分の意識で動かせていない。どうやって自分の身体を動かしているか分からない。ただ辿り着きたいという一心で身体が動いている。

 

 

「はっ、はっ、はっ――っげほ! ふぅっ ――は、はぁッ」

 

 

 まだだ。まだ速く走ってもっと速く速く。前線基地はまだもっと先だ。このままだと何時間かかるか分からないんだぞ分かっているのかクリミアホワイト。間に合わないかもしれないのに。速く速く走らなきゃいけないのに。どうしてもっと速く走れないんだ。どうしてこんなに遅いんだ。

 クリミアホワイトの速度は常軌を逸していた。もう目では追いきれないくらいの加速を見せている。もし何かのはずみで足を取られて転倒してしまったら、そのまま揉みくちゃに大地を転がって、二度と立ち上がれない位の大怪我をしてしまう危険な走行だ。そんな恐れは、一瞬たりともクリミアホワイトの脳裏をよぎらない。

 

 

 走れ。速く、速く速く速く。

 間に合わないかもしれない。既に手遅れかもしれない。

 けれど、そうじゃないかもしれない。

 走れば間に合うかもしれない。

 私が走らない事で手遅れになるかもしれない。

 それは夜空の星のように瞬く希望で、同時に、こめかみに銃口を押し付けられるようなプレッシャー。

 

 

 鼠色の空は、その先にある陽光を受けて橙色に染まりつつあった。刻一刻と時は流れている。

 迫り来る夜が、まるで『終わり』のように感じられて。クリミアホワイトはますます焦燥感に駆られて足を回す。腕を回す。暴走する意識に突き動かされて、壊れた機械のように。

 

 

 ぶし、と音がして、肩の縫合が解けた。

 傷口が開き、抉られるような激痛が走る。包帯に一気に血が滲む。

 

 

「っぎうう! ッああ、あああああああああ!」

 

 

 一瞬、よろめく。悲痛な叫びが平原に木霊する。けれど、それだけだった。クリミアホワイトは気合いで体勢を立て直し、再び腕を振るう。血で染まった包帯から血飛沫が飛び、赤みがかった曇り空に真っ赤な水玉を落とす。

 じくじくとした痛みが突き刺さる。目からボロボロと涙が溢れてくる。肩がもぎ取れて腕が吹き飛んでしまいそうなとてつもない痛みだ。でも、叫んでいられない。叫んでいる場合じゃない。走るために、息を入れなければ。

 

 

「ッふぅー! ふぅー! ――ん、づぅ、う゛ぅぅ!」

 

 

 走って。

 走って。

 走って。

 涙を落として、血で染まった腕を全力で回して、砕けんばかりに歯を食い縛って、破れそうな肺も壊れそうな足も何もかも無視して。

 視界がぼやけても走って。意識が朦朧として身体の感覚が遠くなっても走って。自分が分からなくなっても走って。走って。走って。

 それでも、日が落ちていく。

 煤けた荒野は続く。

 まだまだ、まだまだ、辿り着かない。

 刻一刻と時が流れていく。

 ぼろぼろと止めどなく溢れる涙が後ろに流れていく。

 

 

「っう、うううううっ……!」

 

 

 ――どうして、辿り着かないの。

 

 

 朦朧とした頭の中で、悲痛な叫びが木霊する。

 心の奥底で感じていた仄暗い絶望が、疲弊したクリミアホワイトの魂にじわりじわりと染みてくる。

 

 

 ――こんなに走っているのに。痛くてつらくて苦しくても、走っているのに。

 ――なのに、どうして。

 ――どうして、もう無理だなんて思ってしまうの?

 

 

「うぅぅぅぅ、うううううううううう!!」

 

 

 橙色の差した、暗雲と煤に覆われた戦場。

 そこに、故郷の平野が重なる。

 気が付かないだけで、ずっと前から嫌いだった広い平原。

 日が暮れるまで走っても、どこにも辿り着けなかった。

 父も帰ってこなかった。家族と一緒に過ごす事は叶わなかった。

 走っても走っても、何も変わらない。

 そして今、走る目的を与えてくれた人まで失おうとしている。

 

 

「い、やだ……っは、はぁ……やだ、いやですっ、先生!」

 

 

 時間にすれば、ほんの数週間の関係かもしれない。愛称で呼ばれるようになったのだってつい最近だ。住んでいる場所も、家族も、そういえば年齢だって知らない。

 けれど彼は、当たり前のように人が死ぬ戦場という場所で、救える命があると教えてくれた。

 自分の走りで、できる事があると教えてくれた。

 生きていれば勝利だと教えてくれた。つらくて潰れそうだった自分を救ってくれた。

 比喩でもなく、この酷すぎる戦場において、クリミアホワイトの生きる理由だったのだ。

 誰もに帰る場所があるように。

 辿り着きたい場所があるように。

 彼の元に辿り着きたい。

 彼に生きていて欲しい。

 生きていれば勝利だと笑った彼を、助けたい。

 生きてほしい。勝たせたい。

 自分の走りで、彼に勝利を捧げたい。

 

 

「先生……先生っ、先生――ッ!」

 

 

 だから、クリミアホワイトは走る。

 足が砕けても、肺が破れても構わないと思えた。

 彼に届くなら、何を失っても惜しくないと思えた。

 だから、走る。苦しさも、痛みも無視して。こみ上げてくる恐怖と血の味を噛み潰して。

 勝利を願って。勝利を祈って。

 その祈りを、掴み取るために。

 そうして、走って、走って、走り続けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうしてクリミアホワイトは、燃え盛る医療テントを目にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――、――――――」

 

 

 ごうごうと唸りを上げて燃え盛る炎の塊は、まるで暗雲の向こうに隠れた太陽の代わりに、世界を真っ赤に染めようとしているみたいだった。

 目も眩むほどの光が、クリミアホワイトの愕然と見開いた瞳の中で燃え、血の滲んだクリミアホワイトの軍服を煌々と照らし出す。

 ふるふると唇が震え、表情がくしゃりと歪んで。

 限界なんてとうに越えていた足が、折れた。

 糸が切れた人形のように、土くれの上に倒れ伏す。

 

 

「……ぁ……はぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 

 

 悲鳴すら出なかった。肺は潰れたみたいに上手く動かなくて、喉は千切れたみたいに痛くて熱くて、死にかけの小鳥のような、掠れた高音が喉から漏れるばかりだ。

 嘘だと思いたかった。夢だと信じたかった。だけど、そうして蹲って目を背けても、炎の唸りは鼓膜を震わせ、熱が彼女の肌を焼く。

 間に合わなかった。

 届かなかった。

 自分は、叶えたいと願ったものを、またしても奪われたのだ。

 

 

「っぐ……せん、せえぇ……あああ、わあああああ……!」

 

 

 譫言のように先生と呟き、声を上げて泣きじゃくる。

 救いたいと思う人を救えなかった。希望を奪われた。目の前で頭を吹き飛ばされたユリアンのように。家族に会わせる事が叶わなかったエドワードのように。どれだけ手を伸ばしても、次々と死んでいく。

 形容すらできないほどの、凄まじい絶望だった。

 心に走っていた亀裂が音を立てて広がり、壊れていく感覚。身体がひび割れ、命と形容できるどろどろとした熱い物が溢れて広がっていくよう。

 このまま地面に蹲って、溶けて崩れて消えていってしまいそうだった。

 そんな、どこまでも暗く沈んでいくようなクリミアホワイトの意識は――

 

 

 乾いた発砲音に、呼びさまされる。

 

 

 ウマ娘のぴんと伸びた耳が、敏感にそれを捉える。

 燃え盛るテントの向こうから、た、た、たん。と三発。ざくざくと土を踏みしめる忙しない足音が一つ、二つ。

 

 

「――」

 

 

 ほとんど無意識に、クリミアホワイトは立ち上がっていた。鉛のように重たく感覚の鈍った足に力を籠めて、つんのめるように前に踏み出す。

 前線基地は既に占領されている。一刻も早く逃げなければ、自分の命も危うい局面だ。

 発砲音の方に向かっていくなんて、自殺以外の何でもない。

 それでも、『もしかしたら』という星屑のような希望が、クリミアホワイトの足を前に踏み出させる。

 体力も気力も尽き果てて、微睡みの中のようなぼうっとした足取りで、燃え盛る劫火に胡乱な瞳を照らさせて。医療テントの角を曲がる。

 

 

 一人の負傷兵が、そこで死にかけていた。

 立ち並んでいる兵舎用テントの一角。彼はテントに背を預けて、苦しげに呼吸していた。右肩は赤くぐっしょりと濡れている。もたれ掛かるテントの布には、飛び散った真新しい血が付着していた。

 敵兵が二人、彼を取り囲んで追い詰めている。手にしたライフルを持ち上げ、おもむろに彼の眉間へ狙いを定める。

 今まさに殺されようとしている、あと数秒の命。

 そんな彼の朦朧とした目が、呆然と佇むクリミアホワイトを見つける。

 

 

「……っ」

 

 

 ――果たして。彼の顔に浮かんだ感情を、どう表現すればいいだろう。

 まるで、彼の中の時が止まったような。あるいはその真逆に、その瞬間ようやく動き出したような。

 今際の際、最期の最期に、信じていた祈りが報われたような。

 彼は、クリミアホワイトの姿に奇跡を見ていた。

 見開いた目が揺れ、涙が一気に吹きこぼれて。

 

 

「――行け」

 

 

 人生で数回しか残されていない息を振り絞って、彼は叫んだ。

 

 

「南だ! 南に向けて走れ!」

「――ぁ」

「まだ間に合う! あの人は南の路へ行った! アンタを信じて、生きようとしてくれたぞ!」

 

 

 ぼろぼろと涙を溢して。死の恐怖すら塗り潰すほどの歓喜に顔をくしゃくしゃに歪めて、彼は叫ぶ。

 銃を構えていた敵兵が、突然の咆哮に驚いて振り向き、クリミアホワイトに銃を向ける。だが彼もクリミアホワイトも、そんな恐怖は意にも介さない。

 今まさに、奇跡が起ころうとしている。

 

 

「あの人はアンタのために走ると決めたんだ! だから行け! 追いつけ! 走れぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

「ッはい――はい!」

 

 

 それは、涙の滲むほど力強い、希望の歓声だった。信じられないほど熱い力が魂の奥底から漲る。

 クリミアホワイトは走り出した。ライフルが吼え立ち、足下の地面が弾ける。それよりも力強い、轟くような彼の歓声が、クリミアホワイトの背中を押す。

 絶望から這い上がって、彼女は再び風のように走り出した。燃え盛る医療テントも、燃えるような橙の空も置き去りに、幾つかある輸送路の一つ、南に伸びる路をひた走る。

 

 

 たぁん、と短い銃声が背後で響いた。

 それの意味は理解している。クリミアホワイトは涙を堪え、ぐっと歯を食い縛る。

 

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 私は弱くて、臆病で、無力だ。

 助けてあげられなかった。あなたに勝利をあげられなかった。

 もっと早く走れば、沢山の人を助けられたかもしれないのに、できなかった。私は誰も救えなかった。また一人、目の前で奪われてしまった。

 でも――確かに、託されました。

 あなたが託してくれたお陰で、私は走れます。

 撃たれた肩はとてもとても痛むけれど。足はもう棒みたいだけれど。肺が痺れて満足に呼吸もできないけれど。身体はあちこちボロボロで、今すぐにも倒れて死んでしまいそうだけれど。

 まだ助かる命があると教えて貰ったから。

 この手を伸ばせば届く場所に、奇跡があると教えてくれたから。

 必ず、あなたに託された奇跡を叶えてみせます。

 

 

「先生……先生……!」

 

 

 腕を回す。大地を踏みしめ、加速する。肺に空気を入れ、心臓を鳴らし、熱い血潮を漲らせる。

 苦しさなんて何ともない。痛みなんて知るもんか。

 だって、自分にできる事がある。

 辿り着ける場所がある。

 会いたいと願う人がいる。どうか会えますようにと願ってくれる人がいた。

 だから走る。走る。走る――走る。走る。走る。

 思いを背負って。

 叶わなかった人の分まで、奇跡を起こすために――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、クリミアホワイトは見る。

 遠く続く道の最中。夕暮れに燃える赤い荒野の只中をよろめきながら走る姿。

 会いたくて会いたくてたまらなかった、濃緑のコートの背中。

 

 

「っ先生ーーーーーーーー!!」

「……クレア?」

 

 

 力一杯に振り絞った叫びに、応える声。

 振り向いた彼の、ひび割れた眼鏡の奥の瞳と、視線が交じる。それだけで、胸一杯の感情が溢れてくる。辿り着いた。自分は辿り着いたんだ! 赤く染まった空の下、一目散に彼の下に走り寄る。

 クリミアホワイトの姿を認めた瞬間、デュナンは苦しげに唸り、崩れそうになった。駆け寄ったクリミアホワイトが、彼を抱き受ける。

 凭れかけられる彼の重み。命の温かさ。クリミアホワイトは両手を回し、今度は決して離さないというように抱き締める。

 背中に回した手に、熱く濡れた感触。濃厚な鉄の匂いがクリミアホワイトの鼻を突く。

 

 

「先生、撃たれて……!?」

「っ平気だ。皆が……医療テントに残った皆が、僕のために……っく」

「先生、落ちついてください! 動いたら傷が――きゃっ」

 

 

 介抱しようとしたクリミアホワイトの身体が、デュナンに力一杯抱き寄せられた。突然の事に、クリミアホワイトの顔がかぁっと熱くなり、一気に密着した彼を感じて、身体がぎゅっと縮こまる。

 

 

「っせ、先生!? あぅ、あのっ。先生が私に会えて嬉しいのは私もとても嬉しいのですが、これはちょっと突然すぎ――」

「っ……本当に、君なんだな……ああ、君という子は、本当に……!」

 

 

 クリミアホワイトはすぐに、自分を抱き締めるデュナンの身体が小刻みに震えている事に気が付いた。ぴんと伸びた耳が、彼の熱い吐息を感じる。

 気付いた瞬間、ぞっとした。デュナンの傷は相当に酷い。濡れた血の熱さだけで、少なくとも二発の銃弾が彼の腹を穿っている事が分かる。背中に回された手は、かなり冷たくなっていた。

 多くの血を流し朦朧とした意識で、彼はクリミアホワイトを抱き締める。夢を見るような危うげな精神状態で、目の前の彼女が、嘘じゃないんだと確かめるように。

 

 

「ごめんよクレア。僕は酷い奴だ。僕は彼等を……医療テントに取り残された彼等を見捨ててしまった」

「……」

「医者として、職責を全うするべきだった。例え取り残され、見捨てられたとしても、僕だけは、医者だけは最後まで傍にいると……そうやって、彼等に寄り添うべきだったのに」

「……」

「なのに僕は……ッここで生きて君に出会えた事を、涙が出るくらい嬉しく感じてしまっている! まったく僕って奴は、医者失格だな……!」

 

 

 はは、と掠れた笑い声を漏らす。デュナンは泣きながら笑っていた。苦しみ、同時に喜んでいた。

 クリミアホワイトもまた、すぐにかける言葉を探せなかった。

 身体が壊れるほどに走って、生きてデュナンに会えた。生きた温もりを感じられる嬉しさが胸の内から溢れてくる。

 けれど、喜べない。

 彼を抱き締め返して、そんな事を言わないで、なんて言えない。

 再会できた奇跡を歓迎するには、ともに多くの犠牲を払いすぎていた。

 

 

 けれど……けれど、それでも。

 クリミアホワイトは、辿り着いたのだ。

 走って、間に合ったのは、デュナンたった一人だけだけれど。それでも、彼女が誰よりも辿り着きたかった人に、手が届いたのだ。

 だからクリミアホワイトは、言いたい事も溢れる気持ちもぐっと呑み込んで、デュナンの身体を抱き受ける。

 

 

「傷が酷いです。早く安全な場所まで下がりましょう。傷口を押さえられますか?」

「っぐ。誰に、聞いてるんだい……ここまで来て、死んでたまるもんか」

「はい。私も、先生と同じ気持ちです」

 

 

 ぐったりとしたデュナンを慎重に持ち上げて、背負う。

 首下に感じる苦しげな呻き声も、もう随分と弱々しい。でも、まだ生きてる。助ける事はできる。

 走って、走って辿り着いたこの温もりを、決して手放したりしない。

 掌ですくった水を溢さないように、彼の温もりをしっかりと背負い、足を前に踏み出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「※△〇×!」

 

 

 聞き覚えのない、つんざくような声。

 乾いた破裂音が木霊して、足下の地面が爆ぜた。舞い上がった土が飛沫になってクリミアホワイトの身体にかかる。

 驚き、足を止め、戦慄する。

 敵の兵士が追いかけて来たのだ。でも信じられない。身体はボロボロでも、ほんの少しも速度を落とさなかった。なのに追いつけるなんて、一体どうして。

 その疑問は、痺れるような怖気と一緒に振り返った瞬間に氷塊する。

 

 

 鼠色の雲の隙間から覗く、眩いばかりの夕焼けの赤。

 その赤を背にして佇む、一人の影。

 クリミアホワイトに向けられる一丁の銃口は、扱いの慣れなさを示すように小刻みに震えていた。

 質素なアーミーカラーの軍服は、度重なる戦闘でこびり付いた煤と泥で黒ずんでいる。

 相手を威圧するために無理矢理に力を籠めた、引きつったような顔。

 

 

「っ※#◇……※△〇×!」

 

 

 焦げ茶の尻尾を振り払い、そのウマ娘は再び叫び、クリミアホワイトに銃口を翳した。

 クリミアホワイトの足は縫い止められたように動かなくなり、目を逸らせなくなった。銃口を向けられる恐怖からでなく、銃を翳す、茶髪のウマ娘自身に対して。

 年の頃はクリミアホワイトと同じくらいのはずだ。けれど、彼女の様相は似ても似つかない。

 煤のこびり付き、乾いて色褪せた肌。紙の折り目のように深く刻まれれた眉間の皺。後ろに結った茶髪は乱れきって、離れていても分かるくらいにハッキリと白髪が混じっていた。

 その目は、何度も地獄を目撃したように荒みきっている。

 ほんの少し運命が違えればクリミアホワイトも辿っていたかもしれない、惨すぎる戦争を経験したウマ娘がそこにいた。

 

 

「……□#%〇」

 

 

 焦げ茶のウマ娘は、銃口を動かし、這い蹲れと指示してくる。

 彼女の、ギリと音が鳴るほど食い縛った歯の隙間から、細い息が漏れる音がした。構えた銃が震えるカチカチという音はずっと続いている。

 

 

 震えているが、構えは堂に入っている。

 怯えているが、銃口は決して下げない。

 きっと、軍の命令を受けて追ってきたのだろう。

 こんな風に、沢山走って、自慢の足を使って、沢山の人を追い詰めてきたのだろう。

 引き金を引いたのは、一度や二度じゃないはずだ。

 その手で命を奪った事があると、顔を見ただけで分かる。

 

 

 しかし、表情には動揺が見て取れた。

 敵国の、戦争に従事するウマ娘を見るのは始めてだったのかもしれない。

 あるいは彼女もまた、クリミアホワイトに、自分が辿るかもしれなかった別の路を感じているのかもしれなかった。

 クリミアホワイトは、彼女の瞳の中の震えに、同じウマ娘としての繋がりを確かに感じた。

 

 

「……お願い」

 

 

 デュナンを背負ったまま、クリミアホワイトは言う。向けられた銃口の向こう、彼女の荒んだ目をまっすぐに見つめる。

 

 

「私を、走らせて」

 

 

 たとえ言葉が通じなくても、この気持ちが伝わるはずだと信じて。

 

 

「助けられる人がいるの……走って、助けたい人がいるの」

 

 

 言葉を遮るように、破裂音が炸裂した。クリミアホワイトの耳のすぐ傍の空気が唸りを上げて、反射的に身を竦ませる。

 

 

「※△〇×!!」

 

 

 つんざくような金切り声で、焦げ茶のウマ娘は叫んだ。

 肌が死の気配を感じている。次は当ててくると、漠然と悟った。

 死にたくなければ、両手を挙げて投稿し、大地に伏せて負けを認めるべきだ。焦げ茶毛の彼女の揺れ動く瞳が、殺させるなと懇願している。だが、聞き入れる事はできない。クリミアホワイトの背中は、一分一秒を争う怪我人の命を背負っている。

 だから強く地面を踏みしめて、立つ。立って、彼女の目を真っ向から見据える。

 

 

「本当は誰も死ぬ必要なんてない。殺していい人なんて、一人だっていないの。そうでしょう?」

 

 

 目で、態度で、彼女の魂で、言葉よりも強い思いをぶつける。

 胸を狙ってビタリと向けられた銃口、そこから噴出する死の恐怖を、ここで止まってたまるかという根性でねじ伏せる。

 なぜなら彼女はウマ娘だから。

 走るために産まれてきた。

 走ることが大好きで、走る事が自分の存在意義そのもので。

 でも、走るだけではいられない。

 走る楽しさ以上に、魂が渇望する物がある。

 

 

「私の走りで、できる事がある。私が走ることで、救える人がいる。私の走りが、誰かに勝利をあげられる」

 

 

 意義。目的。信念。言葉にすればそういう類の感情。

 故郷のただ延々と続く草原では、決して満たされなかったもの。

 胸の内に滾る熱が、走る理由を求めている。

 気付かなかっただけで、ずっと昔から抱いていた渇望。それを潤してくれるものを、クリミアホワイトは戦場で見つけた。

 何に替えても惜しくない、それが為し遂げられるならばどうなっても構わないと思うほどの、魂を懸けるに値するだけの強い理由がある。理由を今、背負っている。

 だから折れない。

 命を天秤に懸けても、走る。走って、辿り着く。

 魂の底から渇望するその決意は、決して砕けたりしない。

 

 

「私は、走る。撃たれても、足が折れても走るよ……だからお願い。どうか私を止めないで」

 

 

 まっすぐ、告げる。

 溢れる決意は、同じウマ娘である焦げ茶毛の彼女の胸に、強く刺さった。

 食い縛った歯がわなわなと震える。荒んだ目はクリミアホワイトから逸らすことができず、構えた銃口が彼女の

胸から外れている事にも気付かない。

 やがて、矜恃とも呼ぶべき最後の一線が途切れ、重すぎる荷物に耐えかねるように、銃が下ろされた。俯き、白髪交じりの茶髪が流れる。

 

 

「……※#〇」

 

 

 小さく絞り出すように、彼女が言う。

 キッと顔を上げた彼女の目には、大粒の涙が溜まっていた。

 

 

「※#〇!」

 

 

 もう一度、今度はありったけの声で叫ぶ。

 悔しげに。哀しげに。クリミアホワイトが持ち得て、彼女が得られなかった、その隔絶から目を背けるように。

 

 

「――ありがとう」

 

 

 今、扉が開かれた。

 クリミアホワイトは飛びだす。痛みも辛さもはね除けて、風のように疾走する。

 それを見送って、焦げ茶のウマ娘は、ゆっくりとその場に膝を着き、崩れ落ちた。

 涙をいっぱいに溜めた目は、みるみる小さくなっていく眩しい白毛の後ろ姿を追っている。

 揺れる瞳の中には、自分が終ぞ持ち得なかったものを彼女の中に見出した、憧れというには残酷すぎる渇望が滲んでいた。

 

 

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