クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘 作:オリスケ
掘り返された土の咽せるような匂いに、何かが焦げるような匂いが混ざっている。
空模様は、絶えず舞い上がる土埃を吸い込んだように重たい鉛色だった。
国境付近の平地には、ぽつぽつと民家が立ち並ぶ以外に何もない。その民家も住人は消え失せ、幾度ない略奪で空っぽになってしまっている。
視界に映る大地を一言で表現するとすれば、ずたずただった。土は爆発で捲れ上がって芝の一つもなく、掘られた塹壕や装甲車のキャタピラ痕でデコボコと隆起している。かつて火薬庫でもあったのか、戦闘があったのは二ヶ月も前だというのに、鼠色の煙をもうもうと吹き上げる穴があった。
そんな凄惨たる跡地を右手に、あぜ道を進行する一行がある。
五メートル程度の感覚を開けて列を組む、三台の車輌。
銃座を付けた装甲車一台、歩兵一二人を搭乗させた輸送車二台。全長二五メートル程度の分隊だ。度重なる戦火で煤けた空気に、ブロロロ……という排気音が響く。
その隊列に混じる、ゴトゴトと荒々しい音。
隊列の中心に陣取っているのは、巨大な荷車だった。四つ付いた車輪は成人男性の腰ほどの高さもあり、荷台はいま隊列を組む装甲車を軽く積載できる大きさがある。その荷台には、薬品や食品のラベルを張られた大量のコンテナが積み上げられていた。
さながら小型の倉庫が車輪を付けてそのまま動いているかのような巨大な荷車。
それを引くのは、たった一人の少女だった。
後ろに結った白髪。頭の上にあるぴんと立った耳。小柄な身体を一兵卒と同じ暗色のアーミーグリーンの軍服に包んでいる。
ウマ娘、クリミアホワイト。前線補給部隊に配属された"従軍ウマ娘"は、彼女に命じられた通り、凄まじい量の貨物を引き摺って戦場を歩いている。
「ん、ぐ……んぅぅ……!」
荷車に繋がった、腕ほどの太さのある持ち手を両手で握り、身体全体で押すように進む。息を詰め、一歩一歩に大地を陥没するほどの力を籠めて踏みしめる。
彼女の顔は真っ赤に火照り、滲んだ汗が舞い散る煤や砂を吸い取って酷く汚れていた。
歩調は早い。一歩一歩踏み出す速度は淀みなく、人の歩行と同等の速度で進軍していく。しかし、クリミアホワイトの息は荒く、汗が後から後から吹き出してくる。突っ張ったままの腕が、ふるふると痺れてきていた。
隊列の前方、輸送車の助手席に座っていた無精髭の男が、懐の時計を開き、舌打ち一つ。
「時速五キロか……このままじゃ日が暮れるまでに前線に着かないぞ」
「しかしエドワード伍長。かれこれ六時間、休みなしの行軍です。あんな大荷物じゃ無理もありませんよ」
「だからどうした、やれと言われたらやるのが我々の役目だ」
運転席の兵士にそう返して、伍長はそのまま進行継続を命じて、助手席から降り立った。巨大な荷車を押すクリミアホワイトの横に並ぶ。
「速度が落ちているぞ、クリミアホワイト」
「っは……は、ぃ……!」
息継ぎの合間に絞り出す、喘ぎ声のような返事。荷車を押すので精一杯で声を出すのさえままならない。その様子を静かに眺め、伍長が続ける。
「ウマ娘の基礎能力値、そしてお前の訓練成績からすれば、この輸送量はごく標準的なものだ。何も無理な進軍はしていない。だからお前はもっと早く歩けるんだ。分かるな?」
「で、ですが……!」
「ですが、何だ?」
伍長はさほど声を荒げていないのに、鉄を押し当てられるような威圧感を感じる。クリミアホワイトは、視線を彼の方に向けられない。
クリミアホワイトの腕は、危うげにブルブルと震えていた。表情には隠しようもない疲労が浮いている。食い縛った歯の隙間からふぅ、ふぅと浅い呼吸が続き、声を出す余裕もない。
その様子をしばらく見つめていた伍長が、突然、大砲のような大声を上げた。
「上官が何だと聞いているんだぞ! 応答を絶やすなクリミアホワイト!!」
「ッき、休憩を! 休憩を頂戴したいです!」
ほとんど悲鳴のような声で、クリミアホワイトは叫んだ。巨大な荷車を押し、ゴトゴトと重苦しい音を奏でながら、揺れる瞳で伍長の鋭い眼光を伺う。
「う、腕が痺れて力が入りません……足も熱くて、痛くて、重たくて……が、頑張りますから。休めば、もっと早く走れます。だからお願いです、少し休ませてください」
伍長の恫喝に声が震え、目尻から涙が溢れ出てくる。それでも懇願を止められないほど、クリミアホワイトの身体は限界だった。
数十トンの貨物を荷車に乗せて引き、一体何キロ歩いた事か。筋肉に熱が籠もり、踏みしめる度に万力で締められるような痛みがする。ミシミシと軋む音が聞こえるようだった。
クリミアホワイトの嘆願を、伍長は黙って聞いた。進軍の音だけが響く、心の潰れそうな沈黙を挟んで、彼が言う。
「休憩か。今日中の到着を諦めて、進軍を一旦停止させろと、お前はそう言うんだな」
違うとも、そうだとも答えられなかった。彼女に部隊の進行に指示する資格は与えられていない。唇を噛んで、押し黙る、その心の隙間を押し広げるように伍長が続ける。
「クリミアホワイト。お前の引く貨物には今現在も苛烈な防衛戦を敷く前線部隊への補給品が積まれている。到着が一日遅れれば、貨物へ襲撃されるリスクも、前線が崩壊するリスクも倍増する」
鉛のように重たい言葉が、クリミアホワイトの腹の中に染みていく。
「我が国の前線部隊一六〇〇名。そして敵国の前線部隊の想定二七〇〇名。お前の運ぶ食糧と医薬品が同胞を救い、お前の運ぶ弾薬が忌まわしき敵を打倒し同胞を守る。物資が届くかどうかで、この国の行く末と敵味方四三〇〇名の運命が決まるのだ」
「っ……」
「お前が足を止めれば一六〇〇名の同胞が死ぬかもしれない。その上でお前は休憩を望むんだな? 果たせる職務を全うせずにのうのうと休むと言うんだな?」
静かな声音なのに、どんな恫喝よりも心を噛み潰す言葉だった。
クリミアホワイトは、悪夢を振り払うようにぶんぶんと首を振って、荷車を押した。ミシミシと軋む足に泣きそうになりながら、力いっぱいに地面を蹴る。
「っく、ひぐ……進み、ます……このまま、進ませてくださいっ……!」
「その意気だ! 全体、隊列を維持! ……ユリアン、クリミアホワイトに水を飲ませてやれ」
彼なりの優しさとでも言うつもりか。伍長が発破を飛ばすと、輸送車の後部に座っていた兵士が一人、慌てて降りてきた。
少年と言っていい若さの新兵だった。青空のような綺麗な目にはまだあどけない光が宿っている。彼はわたわたとナップザックを漁り、取り出した水筒をクリミアホワイトの口に近づける。
「水です、飲めますか?」
「ん、く……ありがとう、ございます」
「敬語なんてやめてください、自分が一番下っ端なんですから……濡らしたハンカチで顔を拭きます。嫌だったら言ってくださいね」
水筒から溢れる水を、喉を鳴らしてごくごくと飲み干す。その間に、ひんやりと冷たい布が、顔に着いた汗と泥と煤の混じった汚れを落としてくれる。嫌な訳がない、思わず涙が溢れるほど心地いい。
水を飲むと、幾らか元気が湧いてきた。それが表情にも出ていたのだろう。ユリアンはあどけない顔でほっと安堵する。
「地図によれば、あと七キロで前線基地です。もう少しの辛抱ですから……お腹は空いてますか? 僕のビスケットでよければ差し上げますよ」
「ううん、大丈夫。お腹は空いてないから」
力なく首を横に振る。今はただ荷車を押すので精一杯だった。あと七キロ、七キロ、疲労困憊の頭で数字を繰り返す。
水を懐にしまっても、ユリアンはまだ彼女の傍にいた。彼は何度か躊躇ってから、クリミアホワイトに言う。
「あの、僕はユリアン・セステスっていいます。北方の農家の出で……故郷の村にも、ウマ娘が一人いたんです。優しくて、力持ちで、畑仕事や家の補修なんかでは大活躍の、みんなの人気者でした」
早口に語るユリアンには、思わず溢れたという風な笑顔が浮いていた。よほど特別な娘だったんだろうというのが全身から伝わって、クリミアホワイトも顔を上げてユリアンを見る。
「彼女はよく高原をのびのび走っていて、その姿がすごく綺麗で、かっこよくて……この戦争が始まって、彼女も従軍ウマ娘としてどこかに連れていかれてしまったけど……僕は本当は、彼女にはずっとあの高原で走っていて欲しかったと思っているんです」
そう言った彼は、ようやく自分がとりとめもない事を話していると気が付いた。はっと目を丸くし、顔をかぁっと赤くさせて、急にしどろもどろになって言う。
「だ、だからええと、あなたも彼女と同じというか、その……と、とにかく。困った事があったら何でも言ってください。ウマ娘みたいな力はないけれど、僕はあなたの力になりたいです」
「……うん、ありがとう」
クリミアホワイトは、思わず笑顔を浮かべていた。彼のウマ娘に対する優しさが、へとへとの心と身体に染みていくようだった。
「おぉい、ユリアン。早く戻ってこい、いつまで色気使ってんだ!」
「女を口説くなんて早えぞ、ソッチの卒業は、一人でも敵を撃って、戦士として大人になってからやるこった!」
輸送車に乗っていたユリアンの先輩が口々にヤジを飛ばし、彼はまた顔を赤くして俯いてしまう。
その様子に、クリミアホワイトは故郷の弟の事を思い出していた。強がりだけどおっちょこちょいで、転んだりお皿を割ったりとしょっちゅうヘマをしていた。その時の、恥ずかしさを隠してちょっと拗ねたような顔と、ユリアンの照れた顔はよく似ていた。年齢もちょうど弟と同じくらいだ。
残念ながら、彼女に世間話を振る気力は残っていなかった。ただ、走り続けるのに十分な元気は貰えた。ユリアンは赤い顔を俯かせ、「それじゃ、その」と小声で呟くと、前方の輸送車に向けていそいそと走っていく。
その姿が、視界から消し飛んだ。
猛烈な速度で視界を横に流れていく、緑色の軍服。空気中に飛び散る真っ赤な水滴が、クリミアホワイトの頬にぱたたっと触れる。
ついさっきまで彼のいた場所から、絶対に鳴っていい筈のない、ぱぁんという破裂音がした。
「……え」
視界の隅の方で、何かがごろんごろんと転がり、大地に擲たれる。
意識が思考を止めて凍りつく。見開いた瞳が、ゆっくりとその方向に向いていく。
次の瞬間、けたたましい銃声が雨のように降り注いで、周囲の地面を抉り抜いた。耳を劈く音にクリミアホワイトが頭を抑えてしゃがみ込む。倒れていた彼の身体が血飛沫を吹き上げながら、衝撃にまるで生きているようにのたうつ。
「九時方向、迎撃用意!」
伍長の発破を受けて、装甲車が銃座を動かし、輸送車から降り立った歩兵が次々に銃を構える。乾いた発砲音が立て続けに響き、降り立ったばかりの歩兵の一人の肩を打ち抜いた。悲鳴がクリミアホワイトの意識を呼び覚ます。
「敵を確認! 歩兵一二、車輛一! 距離は目測四〇〇!」
「単身回り込んで補給隊を狙って来たか、なんて無謀な――このまま応戦をしつつ、前線基地まで進行する! リコー隊は先行して応援要請を! 射撃開始だ、距離を詰めさせるな!」
助手席から降り立った伍長が指示を出し、横列を組んだ歩兵隊が弾幕を張る。
伍長は、地面に横たわるクリミアホワイトを力任せに立ち上がらせた。しゃがんだままガクガクと震える彼女の肩を殴りつけるような強さで叩く。
「クリミアホワイト! しっかりしろ、立て!」
「ぁ、ぁ……ゆ、ユリアンさん。ユリアンさんどこですか、さっきまでそこに立って、なんで、音、ぱぁんって……!」
「いいから立て! 荷車を引くんだ! 引け!」
「敵の進行止まらず! 撃ってきます!」
誰かが叫び、銃弾が降り注ぐ。鋼鉄に穴の空くガガガガっという轟音に、呻き声が混じる。
我を失ったクリミアホワイトの頬が張られた。無理矢理意識を呼びさました伍長が、彼女の肩を鷲掴み、叫ぶ。
「荷車を引け、クリミアホワイト! お前が引かなければここにいる全員が死ぬ! 務めを果たせ、死にたくなければ足を動かせ!」
「う、うううううううううううううあああああああああ!」
途端に押し寄せてきた死の気配に、クリミアホワイトは叫びながら荷車に手をかけた。もうとっくに限界の迎えている足に必死で力を籠め、地面を蹴る。
銃声がひっきりなりに鳴り響いている。破裂音の連続に、ウマ娘の敏感な耳が痛み、神経をガリガリと削っていく。
「根性を見せろウマ娘! 押せ! 押さなければ死ぬぞ!」
「いやだ! 死にたくない、死にたくない!」
「いいぞその意気だ、死にたくないなら走れ! ――応戦しながら前進! このまま林まで逃げ切るんだ!」
銃声が雨のように轟き、時折その音に肉を貫く音と不運な兵士の悲鳴が続く。荷車に積んだコンテナに次々と風穴が開き、クリミアホワイトの握る手すりに当たってガァンと火花を散らせる。
「ひ――っああああ、うああああああああ!」
半狂乱になりながら、クリミアホワイトは走る。その必死の力に反して、重い荷車はゆっくりとしか進まない。早く逃げないと撃たれるのに。逃げたいという欲求に速度が着いてこない。まるで悪夢に囚われたみたいに、ちっとも前に進まない。
「ジェスが撃たれた! 誰かカバーを!」
「弾幕を絶やすな! 撃て撃て、撃ち続けろ!」
「くそ、早く走れよ! 走れ走れ走れ走れ、走れーー!」
銃撃と、怒号。重すぎる荷車はトロトロとしか進まない。降り注ぐ銃弾の一発でも喰らったら死んでしまう。その恐怖が早く走れと急かすのに、身体が着いてこない。
「死にたくない死にたくない死にたくない……いやだ、死にたく、ない、よぉぉ……!」
涙で顔を濡らし、ガチガチと鳴る歯から恐怖を垂れ流し、クリミアホワイトは歩く。鉛のように重たい足を動かし、恐怖で焼き切れそうな意識で必死に前を向いて。
どこに行くのかも、なんで走るのかも、どうして死にかけているのかさえも分からず、ただ命じられるままに、走る。
一九一四年。複数の国を巻き込んだ、かつてない規模の争いが世界を呑み込んだ。国の未来と威信を懸けた戦争に、誰もが無関係ではいられなかった。
生きるための作物は糧食として軍に徴収された。銃器と戦車を鋳造するために、鉄であれば家族の形見のアクセサリーさえ奪われた。
国民全員が勝利のための献身が命じられた。ラジオや新聞は『最高の名誉』と評して取り立てて、多くの人々を戦場へと駆り出された。
ウマ娘――別世界の存在の名を受け、走るために産まれてくる彼女達もまた、無関係では居られない。
それは人もウマ娘も区別なく、走る事も、生きる事すらもままならない、自由など欠片もない争いの時代だった。