クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘 作:オリスケ
二〇分ほど休憩した後、空腹に駆られて立ち上がる。
コートの男性の言う通り、クリミアホワイトの足にはヒリつくような痛みがあった。腿の筋肉が、空気を入れた風船みたいにパンパンに張っているのが分かる。骨は折れていないようで、歩く分には問題ない。
死ぬかも知れなかったのだ。こんな痛みで済んだのなら幸運だろう……自然と出てくるそんな思考に、思わず表情が曇る。
テントを抜けると、喧噪に出迎えられる。
雑然と並んだテントに、テナント。鉛色の空に、訓練中の兵士の行軍の声と、装甲車のエンジンの唸り声が重なって荒々しい喧噪に満ちている。繰り返しの行軍でぬかるんだ地面の上を、土砂を撒き散らしながら沢山の車輌が走っている。
横に広がるように展開された基地の正面には、小高い丘が広がっていた。丘の向こうでは、銃声や大砲の爆轟が木霊のように響いている。
丘を越えた先の平野には塹壕が敷かれ、今現在も敵国との激しい攻防戦が行われている。丘の傾斜を城壁として、防衛線を維持するために建てられたのがこの前線基地だった。
すぐ傍に苛烈な戦場を控え、ほんの少しの油断も許されない刺すような緊張が辺りに満ちている。クリミアホワイトは土砂を踏み、行進する兵士や装甲車を脇目に、基地内を彷徨う。
事前に地図は渡されていたから、迷う事はなかった。お腹はぺこぺこで、今すぐにでも食堂に行きたい気持ちはある。それでも彷徨っているのは、人を探していたからだ。
途中何人かに尋ねながら見つけた、兵舎テントの一つを捲る。
彼はクリミアホワイトに背を向けて、机の上の図面を見つめていた。
「……エドワード伍長」
声を駆けると、彼の動きが止まる。恰幅のいい伍長の背中はまるで壁のようだ。
昨日クリミアホワイトの補給隊を指揮していたエドワード伍長は、背中を向けたまま言う。
「クリミアホワイト。体調は大丈夫なのか?」
「はい。何ともありません。二日もすれば、また任務につけると……」
「そうか」
エドワード伍長は相変わらずの底冷えするような声で、思わず身が強張る。彼は相変わらずクリミアホワイトの方に顔を向けない。
「覚えていないかも知れないが、昨日付けで補給隊は解散し、兵士はそれぞれ別の前線部隊に組み込まれている。お前はもう俺の指示を仰ぐ必要はない……その上で、何の用だ? お前はなぜここに来た」
鉄のような固い声で問われる。
解答は、否応なしに震えた声になった。何度も躊躇い、視線を彷徨わせ、それでも振り絞るようにして、言う。
「正直に言えば、分かりません」
「……」
「ただ、何か、言葉を賜れればと……伍長から、何かを言われるべきだと、そう感じて……」
昨日の出来事が蘇る。
重すぎる荷車を押しての行軍。足は石炭のように熱を籠もらせ痛んで、訳もなく涙が溢れるほど辛かった。
弱音を吐いて、挫けかけて、叱られて……そして、そんな彼女に水を渡し、慰めようとしてくれた人が……
「……作戦報告は五時間前に提出した。物資の運搬は達成。物資の破損は八%。こちらの損害は輸送車が一台に負傷者三名――死者一名だ」
「っ――」
告げられた事実に、胸に針が刺されたような苦しみがこみ上げてきて、クリミアホワイトは思わず俯く。
足音がして、エドワード伍長が向き直ったのが分かる。しかし、顔は上げられない。無礼だと怒鳴られるのは嫌だけれど、彼の顔を見る事が怖くてしょうがない。
目の前に伍長が立っている。刺すような視線をすぐ傍に感じる。このまま撃たれるのでは、という凄まじいプレッシャーにぎゅっと目を瞑る。
「よくやったな」
かけられた言葉を理解するのには、たっぷり三秒の間が必要だった。
「……え?」
長い白毛の耳が、ぴこんと跳ねた。
夢かと思い、顔を上げる。エドワード伍長の顔は相変わらずの鉄面皮だったが、表情に敵意はまるでない。
「よくやった、クリミアホワイト。お前の頑張りのお陰で、物資の輸送は完遂された。一六〇〇名を保有するこの前線基地は、お前のお陰で更に二ヶ月の間戦う事ができる」
「……あ、あのっ」
「一人の兵士として、お前の奮闘に感謝する――お前達ウマ娘の力は、我が軍を支える要だ」
「違うんです! わ、わたしっ……あの時、私が休むなんて言わなければ! そうすればユリアンさんはっ」
「俺からは以上だ。これからの健勝と健闘を期待している」
エドワード伍長は毅然と立ち、有無を言わさない口調でクリミアホワイトの言葉を断ち切った。彼の鉄面皮は、唇をぎゅっと引き結び、今すぐ泣き出してしまいそうな彼女の顔を見ても、何の反応も示さない。その態度が何よりも彼女に対して「これ以上考えるな」と告げていた。
「今はよく休め。仕事はまだ沢山あるからな……これからも頼むぞ、ウマ娘」
そう告げて、伍長は踵を返し、クリミアホワイトから背を向ける。
それ以上追求する事はできなかった。彼女はもう見向きもされていない敬礼をして、逃げるようにテントから飛びだした。
前線基地の外れの方には、まだ芝生が残っていた。晴れを忘れたような暗雲続きで土は湿っているが、走りやすそうな状態の土だ。
それでも今のクリミアホワイトは、到底走るような気分ではなかった。足は相変わらず痛いし、心が鉛のように全身を重くさせていた。
「……よくやったって、なにさ」
膝を抱えて、ぽつりと呟く。
「それじゃあまるで……アレで、一番良かったみたいじゃないですか……」
敵国の襲撃を受けながら物資を無事に運び届けたのは、確かに功績だ。軽く足を痛めた以外は五体無事。クリミアホワイトはまだまだ走って、沢山の物資を運搬できる。それは翻って多くの味方を救う事に繋がるだろう。
クリミアホワイトが弱音を吐こうが吐くまいが、敵の襲撃は行われた。どうあれ、被害を避ける事はできなかっただろう。
しかし、弱音を吐かなければユリアンは死ななかったかもしれないのだ。
ユリアンは自分のせいで死んだ。自分がもう走れないなんて言ったから。休憩をしたいなんて甘えたから、彼は彼女の所に駆け寄り、撃たれた。自分のせいで、何も関係のない少年が死んだ。その恐ろしい想像が、タールのようにこびり付いて離れてくれない。
けれど……それなら自分は、エドワード伍長に何を言って欲しかったのだろう?
お前のせいじゃないと慰めて欲しかったのだろうか。お前が甘えたから部下が死んだんだと怒られ、殴られたかったのだろうか。気絶するほど痛めつけられれば、この胸のつっかえが取れたのだろうか。彼女には、それすらも分からなかった。
ただ、やるせなさだけが胸に詰まる。
「……なんで、こんな所にいるんだろう」
膝をぎゅっと抱えて、そう呟く。
こんな時も空腹を訴える自分のお腹が浅ましくて、憎らしかった。
答えの出ない、そもそもまともに考える事も出来ない問いに塞ぎ込んで、どのくらい経っただろう。
頭の上でへたれていた耳が、千切れるような悲鳴を拾った。
横に広がる前線基地の端の方、一際大きいテントの方から響いてくる。
顔を上げたクリミアホワイトは、そのテントに向けて大慌てで走る、深緑のコートの姿を見つけた。
「あの人、さっきの……」
目覚めた自分をやたらテキパキと介抱してくれた、従軍医師の男性だ。強烈な印象だったから忘れたくても忘れられない。
彼の笑顔も、かけられた言葉も、覚えている。
――君の届けてくれた物資のお陰で、大勢の命が救える。
あれは、この戦場にはあまりに似つかわしくない、優しい笑顔だった。
自分でも良く分からない衝動に突き動かされて、クリミアホワイトは立ち上がった。
コートの男性を追いかけて、悲鳴の聞こえるテントの中に踏み入る。
「――、――――――――」
地獄が広がっていた。
彼女の知覚に飛び込んできたのは、悲鳴と、血の赤。
テントの中には、簡易ベットが縦三列にビッシリと敷き詰められていた。そのほとんどに兵士が寝かされている。
臑から先の無くなった脚をバタバタと悶えさせる人がいる。真っ赤に染まった包帯で目を覆い、亡者のように呻き声を上げる人がいる。今まさに腹の銃弾を取り出され、劈くような絶叫が轟いた。
悲鳴と呻き声と痛みに悶える絶叫が何重にもなって、肌をビリビリと震わせるほどに響いている。
ざっと一五名ばかりの看護婦が、ベッドの間をひっきりなしに走り回り、処置に追われていた。暴れる患者をベルトで押さえつけ、合間に置かれた箪笥から薬品を取り出して患者に投与している。
悲鳴に掻き消されない大声での指示が飛び交い、休む間もなく患者から患者へ駆け回っている。明らかに許容値を越えた人数の患者に、必死に措置を施していく。それはクリミアホワイトが知らなかった、苛烈な戦場の姿だった。
その戦場の只中に、彼はいた。ベッドの上で身悶える兵士の傷を押さえ、語りかけている。
「よし、弾丸の摘出完了。よく耐えました! 落ちついて、深呼吸して。すぐ痛み止めを処方します!」
「ぅ、あ……先生……いやだ、死にたくないよ、先生……」
「大丈夫、僕が死なせませんよ。貴方は勇敢です。ここまでよく頑張りました……君、そこが終わったら彼の縫合を頼む! 二度の裂傷だ、とにかく出血を止めて!」
「先生、三五番の患者の心拍数が急激に低下しています!」
「状態は? 四度? 強心剤を投与して適宜心臓マッサージ! 薬は補充されたばかりだ、出し惜しみはしないで!」
立て続けにやって来る看護婦に対し、条件反射のような速度で的確な指示を出していく。眼鏡の向こうの顔は真剣そのもので、クリミアホワイトに向けた柔らかな微笑とはまるで別人だった。
繰り広げられる凄まじい光景に圧倒されていると、一際大きな絶叫がクリミアホワイトの耳を揺らした。
見れば、一つのベッドに寝かせられた兵士が、激しく暴れていた。千切れるような勢いで手足を振り回している。手榴弾を近場で受けたのだろうか、その兵士の左半身は真っ赤に爛れ、腕の片方は無かった。無い腕を振り回し、血飛沫で辺りを真っ赤に濡らしている。
看護婦が二人がかりでベッドに押さえつけようとしているが、叶わなかった。兵士は半狂乱のまま看護婦二人を弾き飛ばし、ベッドを飛びだして暴れ回る。
その兵士の腕が、薬品を詰めた棚に思い切りぶつかった。身の丈ほどもある大きな棚が、ぐらりとよろめき、患者の寝るベッドに倒れようとする。
看護婦の悲鳴のような声。倒れてくる棚の影に覆われて、兵士の顔が死の恐怖に染まる。
「ひ――!?」
「ッやあああああああ!」
咄嗟に反応できたのは、ウマ娘の天性の身体能力ゆえだった。
棚の傾きを認めた瞬間には、クリミアホワイトは飛びだしていた。看護婦を押し退けて棚の前に立ち、受け止めた。
薬品を大量に詰めた棚は、人ひとり位なら難なく押し潰してしまえそうな重さだった。しかし、人を凌ぐ身体能力を持つウマ娘であればものの数ではない。身体全部を支えにして、青ざめるベッドの上の負傷兵に聞く。
「んぐ……だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……ありがとう」
目を丸くした負傷兵は、小刻みに震えながら、囁くような小声で何度もそう告げる。
クリミアホワイトが棚を持ち上げ、元の場所に戻す間に、暴れた負傷兵の保護は完了したらしい。気付けば病院のテント内は静まり返り、皆がクリミアホワイトに視線を向けていた。緑コートの彼もまた、驚きの目を彼女に向けている。
大勢の視線にもどかしさを覚え、何かを言おうと口を開いた、その時。
――ぐぎゅるるるるるぅぅぅぐごごごごごぉぉぉぉ……
まるで大砲かと疑うようなとんでもない音が、クリミアホワイトの腹から轟く。
緊張で思い詰め続け、実はとっくにカラッケツだと気付かなかった空腹が、ここに来て限界を迎えていた。
「……はにゃ」
そんな気の抜けた声を最後に、クリミアホワイトはエネルギーを使い果たし、ばったりとその場に倒れ伏すのだった。