クリミアホワイト 戦場を駆け、命を救い、天使と呼ばれたウマ娘   作:オリスケ

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第8話

 

 

 それから二日後。クリミアホワイトは、いつものように輸送任務を告げられた。

 戦場から家族に向けての郵便物に、現場の様子を告げる書簡、重傷を負い病院へ搬送される負傷兵。それらを一日かけて町まで輸送する。黒い雲が空を覆う中をひた走る、やけに静かな輸送になった。

 敵の襲撃もなく無事に配送を終えた彼女は、そこで告げられた命令に目を丸くする事になる。

 

 

「異動……?」

「そうだ。ここの前線基地への移送任務を終了し、別の任務に就いて貰う事になる」

 

 

 聞き間違えかと思ったクリミアホワイトの耳がぴこんと揺れる。

 町の駐屯基地で彼女にそう告げた兵士は、目を丸くする彼女に、更に驚くべき内容を続ける。

 

 

「詳細は決まり次第追って連絡する。それまでの間は自由行動とする。家族に会いたければ行っても構わないが、遠出の場合は行き先を正確に告げるように」

「ええっ。帰って、いいんですか?」

「そう言ったぞ。あくまで一時的にだがな」

 

 

 兵役から解放されないのか、という不満は頭をよぎったが、そんな事より、いきなり告げられた命令を処理できない。混乱したまま、クリミアホワイトは詰め寄った。

 

 

「ま、待ってください。それじゃあ、前線への補給はどうするんですか? 私の代わりは?」

「それはお前が気にする事じゃない。話は以上だ。ご苦労だったな」

 

 

 一方的に会話は打ち切られ、後にはただ、呆気にとられるクリミアホワイトだけが残される。

 軍の駐屯所を後にした彼女の胸には、空に蟠る暗雲のような不穏なものが蟠っていた。

 物資が届かなければ、前線基地の一六〇〇人が死ぬ――そんなエドワード伍長の言葉が思い出された。

 先の口ぶりからして、代わりのウマ娘がやってくるなんて思えない。クリミアホワイトを任務から外す事は、補給を行わないと宣言するのと同じだ。

 食べ物も銃弾もあっという間に消費される。負傷兵を治療し、癒すための医薬品は常に不足しているのが現状だ。届けるべきものはまだ沢山ある。その任務を途中で投げ出せなんて、以ての外な命令だった。

 それに……

「納得できない。だって私はまだ、ありがとうもさよならも言えてないもん」

 

 

 前線基地の補給役となって長い。お世話になった恩も、貰った言葉も沢山ある。

 脳裏に蘇る「一人でも多くの人を勝たせる」と言ったデュナン先生の穏やかな笑みは、一方的で簡素な命令一つで捨てきれるような物ではなかった。

 

 

 

 

 だから、クリミアホワイトは、その日の深夜に走り出した。

 あてがわれたホテルを抜けだし、いつもの緑色の軍服に袖を通し、静まり返った夜闇の中に飛び込む。

 空は雲で覆われて、前に伸ばした腕が搔き消えてしまうほど暗い。けれど、台車を引いて何度も往復した路だ。雲の向こうの月明かりで、ぼんやりと浮かび上がるシルエットを頼りに、何とか迷わずに進むことができた。慎重な走りなので速度は出せなかったが、身一つで走る分、足取りは軽やかだった。しかし、胸に蟠る嫌な予感は強くなるばかりだ。

 

 

「はっ……はっ、はっ、はっ」

 

 

 荷物のない走りはずっと楽なはずなのに、どうしてか息が切れる。汗が顔に貼り付く嫌な感触が妙に気になる。

 任務の中断を、デュナン先生は知っていたのだろうか。知った上で何も言わなかったなら、どうして? エドワード伍長が手紙を書いていたなんて知らなかった。いや、始めて書いたんじゃないか? どうして今になって? 些細な疑問が、符号になって、悪寒としてクリミアホワイトの胸をざわめかせる。

 

 

「はっ、はっ、はっ――はぁ」

 

 

 息を切らして、いつも以上にうまくいかない呼吸に歯噛みして、暗闇を走る。

 お別れの挨拶をして、ちゃんと顔を見たいという、ただそれだけの気持ちだったのに。

 どうして、こんなに気が急くんだろう。

 どうして、もう会えないような気がしてくるんだろう。

 

 

 あるいは、クリミアホワイトは忘れかけていたのかもしれない。

 デュナンに指示を仰ぎながら救うために必死で頑張って、人の命に向き合って、慣れた心が無意識に目を逸らさせたのかもしれない。

 自分が巻き込まれたものが、どうしようもなく大きな力で命を掠め取っていく。戦争であるということを。

 

 

 

 

 

 

「……なんだろう?」

 

 

 走って、走って、やがて東の空がぼんやりと白んでいく頃。

 その空と全く異なる色の光を見つけて、クリミアホワイトは足を止めた。

 北の方、僅かに起伏のある丘の上に、橙色の光があった。

 星のような、針で穴を開けたような小さな小さな光。

 それに異様な物を感じて、クリミアホワイトは恐る恐る近づいていく。

 足下の草がかさかさと音を立てる。乾いたぬるい風が吹いて、頬を撫でていく。

 丘を登る頃には、日は登って、東側の空を更に明るく染めていた。

 暗闇に慣れていたクリミアホワイトの目に、早朝の灰色の明かりを受けた光景が飛び込んでくる。

 

 

 草を刈った平野の上に置かれたランプの、小さな橙色の炎。

 その明かりを取り囲む――知らない色の軍服。

 装甲車が一台、二台……もっと多い。

 人数にして二〇人以上、属に小隊と呼ぶ規模の兵士が、そこに駐屯していた。突然の光景に、クリミアホワイトの思考が凍りつく。

 ランプを囲んでいた兵士が、ついと顔を上げ、クリミアホワイトと目があう。

 

 

 互いに驚愕、戦慄。

 兵士が弾かれたように動き、傍らに立てかけていた小銃を掴み取って、ようやくクリミアホワイトは、踵を返して走り出した。

 

 

「う、わ、わっ!」

「〇◇※△!」

 

 

 背後で聞き取れない外国語が捲し立てられる。二つ、三つと次々増えていく足音。クリミアホワイトは更にぎゅんっと速度を上げる。

 ぱぁんっと破裂音がして、すぐ傍の地面がざっくりと抉られた。

 

 

「きゃあ!? あ、嘘、やだ――!?」

 

 

 撃たれた。撃たれた! 衝撃にびくっと身が竦む、その間に、背後で立て続けに破裂音。ばつ、ばつ、と芝生が抉れる、その全てが人を殺す鉛弾の音だ。ガタガタと震えそうになる身体を必死に奮い立たせて、朝の光で明るく映し出される平野を一目散に懸ける。

 木立まで逃げ込めば、銃撃は止んだ。しかし突然の衝撃に心臓はバクバクと跳ねたまま、少しでも距離を取りたい一心で走り続ける。

 走りながら考える。今のは何だ、夢か? 夢だとしたら相当な悪夢だが、そうじゃない。でも、あんな大きな規模の隊列が、どうして前線の内側に?

 

 

「っ……く、うぅ……!」

 

 

 知らず、歯がガチガチと震えていた。間近で浴びる破裂音。飛来する銃弾。目の前で吹き飛ぶユリアンの姿が脳裏に蘇る。

 とうてい思考できるような状態じゃなかった。今はただ、少しでも早くあの前線基地に辿り着いて、先生の優しい顔を見て、安心したかった。

 

 

 彼女のそんな思いは、呆気なく砕かれる事になる。

 もしかして全て手遅れなのか、と想像した悪夢のような事態はなく、前線基地はまだそこに存在していた。

 しかし一方で、そこはもう彼女の知っている前線基地ではなくなっていた。見かけ上は同じようでも、ひっきりなしに人が駆けずり回り、怒号のような激しい指示が飛び交っている。丘の向こうでは、これまで聞いたこともない、雨のような激しさの銃撃音が響き渡っていた。

 

 

「なに……一体、何が起きているの……!?」

 

 

 否応なしに声が震える。たった一日二日離れただけなのに、まるで一〇年ばかりも経過してしまったような、そんな受け容れがたい変容がそこにあった。

 混乱する足取りのまま辿り着いた医療テントは、クリミアホワイトが最初に訪れた頃を遙かに凌ぐ地獄と化していた。許容人数を越えた負傷者が、テント周辺の地面に転がされるようにして並べられている。その傷はどれも酷く、救護の手は明らかに足りていない。

 充満する血と火薬と、肉の焦げた匂い。耳を埋め尽くすほどの悲鳴、悲鳴、悲鳴。

 大多数の人が、助からない――一目で見てそう分かってしまうほどの、凄惨たる有り様だった。

 

 

 

 

「一一五番が痙攣を起こしています! 先生!」

「後にしてくれ! 君、腕は動かせる? なら押さえてるんだ。後で必ず縫合するから!」

「痛み止め、これで最後です! 強心剤もあと二〇人分ほどしかありません!」

「先生! 九五番、太股の銃創が三度です! 弾を取り出さないといけません、メスはどこですか!?」

「もう無いよ、足りるわけない! 患部をキツく縛って血を止めて。足を一本失うより、命がある方が大事だ!」

「一一五番、失血性ショックです! 輸血をお願いします!」

「無理だ、その患者に回す血も人手もない!」

「先生ッ!」

「諦めろ!! 一人でも多くの命を救うんだ。選り好みしている場合じゃない、"救える奴を救え"! 分かったら早く!」

 

 

 痛みに悶える声と、混乱した看護婦のヒステリックな叫びが木霊する悪夢のような空間の只中に、デュナンがいた。呻き声に負けない、聞いたこともない大声で指示を飛ばしている。赤十字の腕章を着けたコートも、薄いフレームの眼鏡にも、治療過程で飛び散った血で真っ赤に滲んでいた。

 周囲を取り巻く凄惨たる状況に歯噛みする彼に、クリミアホワイトは駆け寄った。

 

 

「先生!」

「すぐに向かう! とにかく止血を――クレア? 待ってくれ、なんで君がここに……」

「様子が気になって、走って来たんです。それより、これはどういうことですか。どうしてこんなに沢山の負傷者がいるんですか!?」

 

 

 デュナンの服を掴んで揺さぶる。

 時間にして二日も経っていない。それなのに状況は人が変わったように豹変していた。デュナンにも、いつもの穏やかな微笑みはなく、表情を険しくしたまま強張らせている。

 デュナンは、ここにクリミアホワイトがいる事について考える余裕すら無いようだった。彼は一度周りを見回し、忌忌しげに眉を険しくすると、クリミアホワイトの肩に手を置いて言う。

 

 

「昨晩から敵が攻めてきて、こちらの第一塹壕が突破されたんだ。一二〇を越える死傷者が出て、今も激しく交戦中だ」

「っ――」

「予見は出ていた。だから君を下がらせたのに……どうして戻ってきてしまったんだ。ああくそ、違う。君にもちゃんと伝えておけばこんな事には……」

 

 

 歯切れの悪いひとり言を呟き、頭を振る。普段の何もかもテキパキとこなす彼からは考えられないその余裕の無さが、何より事態の深刻さをクリミアホワイトに理解させる。

 そして、デュナンが彼女に裂ける時間などあるはずもなかった。負傷兵の悲鳴はひっきりなりに鼓膜を揺さぶり、「先生!」という呼びかけが起こる。

 彼はもう一度大きく頭を振って、クリミアホワイトの目を見た。有無を言わせない強い眼光に、彼女の身体が竦む。

 

 

「今すぐ町に戻れ。これは命令だ」

「な……待ってください、私も手伝います! 止血や、患者を運ぶくらいはできます!」

「ダメだ! 君はここにいてはいけないんだ! 僕は君に、こんな光景を見せたくなかったんだよ!!」

 

 

 激しく叫び、デュナンは両手を広げて、この空間全てを指し示した。血の匂いと悲鳴が渦巻く、悪夢のような光景を。

 デュナンによって改めて直視させられた光景に、クリミアホワイトが息を飲む。こうしている間にも命が磨り減り、一人また一人と息絶えていく。

 

 

「走るために産まれてきたウマ娘が、戦場なんかに縛られていい筈がない――君はもう充分に戦争を味わった。これから先の戦争を、君は見るべきじゃない。いま君にできる事は、一つだってありはしないんだ!」

 

 

 突きつけるようにそう言って、デュナンはクリミアホワイトに背を向けた。すぐに負傷兵の治療に取りかかり、彼女が踏み込む余地など全く無くなる。

 看護婦は誰もクリミアホワイトに声をかけない。デュナンの意志を尊重したのかもしれないし、この戦場にはもう、彼女にできる事など何も残っていないのかもしれなかった。

 多くの死を見たつもりだった。直接立ち会った事も、不甲斐ない自分の無力感に涙を飲んだ事もある。しかし、そのいずれもが本当の戦争ではなかったのだと、クリミアホワイトは悟る。

 

 

 これから、凄まじい数の人が死ぬ。

 生きさせたいという必死の努力など何の意味もなく、次々に死んでいく。

 そういう本当の戦争を前にして、クリミアホワイトは我を見失い、ただ呆然と佇む他になかった。

 もの凄い数の負傷者が横たわり、呻き声を上げている。誰が死にそうで、誰が助けられそうか。その区別は付かない。そんな命を選別するような真似なんてしたことない。

 死にかける人に対し、どんな言葉を懸けるべきかも分からない。まして「人手も薬も足りないので、貴方に死んで貰う事になりました」なんて、どうやって伝える。それで死を納得させられる訳がない。

 

 

(何もない……本当に、私には何もできないの?)

 

 

 自分に対するその問いかけに、答えられない。答えを考えられない。クリミアホワイトの心は、自分を取り囲む血と悲鳴に呑み込まれて、石像のように固まってしまっている。

 その時、医療テントに数人の兵士が駆け込んでいた。激しい爆発の余波を受けてか、皆大量の泥を被っている。ぎょっと目を丸くした看護婦が叫んだ。

 

 

「ちょっと、困ります! ここはもう満員で――」

「悪い! でも頼む、暴れて手を付けられないんだ!」

 

 

 兵士の一人が言う通り、腹部から出血した負傷兵が、何事かを叫びながら激しく身悶えていた。暴れる彼を、二人の兵士が両脇を抱えて無理矢理抑え込んでいる。

 

 

「うぁ、あがあああぁっ……ダメだ、寝てられるか! 行かせてくれ、俺を連れていけぇぇ!」

「その怪我で何をするっていうんだ! なあ先生、鎮静剤だかなんだかあるんだろ。早いとこ打ってくれ!」

「すまないが在庫が残り僅かなんだ。見たところ命に別状はない。落ちつくまで抑えておいてくれ!」

「いやだ! 置いていけない! 俺を行かせてくれ……伍長ぉぉ……!」

 

 

 呻くように呟いた言葉が、クリミアホワイトの耳を跳ねさせた。途端、クリミアホワイトは弾かれたように動いて、負傷兵の元へ駆け寄っていた。

 

 

「伍長? エドワード伍長の事ですか!? 伍長に何があったんですか!?」

「っ……最前線の第三塹壕から避難する時に……伍長が俺を庇って、足を……」

 

 

 兵士の泥まみれになった顔が、子供のようにくしゃくしゃに歪む。

 

 

「まだ生きてる筈なんだ。助かる筈だ! だから――う、ぐぅ……あああぁ!」

「暴れないで! 分かった、鎮静剤を投与しよう。君、すぐに持ってきて」

 

 

 歯噛みしたデュナンが看護婦に指示を出す。

 負傷兵は涙を流し、雁字搦めにされた身体を暴れさせている。腹部から血を溢れさせながら、酷く痛むだろうに、行かせてくれと頼み込んでいる。

 その必死の様相が伝えていた。彼がまだ生きていて、まだ間に合う事を。

 そう感じた次の瞬間、クリミアホワイトは動いていた。泣きじゃくる負傷兵の肩に手を置き、その顔を覗き込んで、誓う。

 

 

「安心してください。私が必ず、助けてみせます!」

 

 

 そう言うが早いか、クリミアホワイトは走り出していた。泡を食ったようなデュナンの叫びが背中にかかる。

 

 

「待ちなさい、クレア! 何をする気だ!」

「私にできる事をするんです! 私にできる、一人でも多くを勝たせる方法を!」

 

 

 言い残し、クリミアホワイトは颯爽と医療テントを飛びだした。ウマ娘の脚力を最大限に発揮して、彼女は後に懸けられたデュナンの声も置き去りにするほどに、一気に加速した。

 

 

 

 

 

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