ヒフミちゃんアーカイブ 作:煮豆
「ありがとうございました」
お辞儀をして扉をしめて、最後に回った部室を出る。
ヒフミとアズサは少し気落ちした足取りで、並んで廊下を歩いていた。
「結構な数の部活動は回りましたが……猫さん、見つかりませんね……」
「進展が一切ない。これは良くない傾向だ……ここらでなにか新しい情報が手に入らないと、完全に打つ手がなくなる」
「まだ回ってない部活動はたくさんありますが……あうぅ、もし全部回っても見つけられなかったなら、本当に学園の外に……」
「……首輪がある以上、逃げ出した飼い猫であることは一目瞭然だ。もしもそれがトリニティの生徒の飼い猫だとバレてしまったなら、人質代わりに誘拐されることもあるかもしれない……」
「ひ、人質ですかっ!?」
あまりにも物騒な発言、最悪の想定に、ヒフミは思わず甲高い声を上げた。
アズサはコクリと頷き、至って真剣な眼でヒフミを見つめ返す。
「トリニティの生徒は、身代金目的で誘拐されることがたびたびあると噂で聞いた。子猫なら人よりもさらに扱いやすい。決して無視できる可能性じゃない」
「そ、そんなの猫さんがあまりにも可哀想です。なにも悪いことなんてしてないのに……」
「真面目な善人が損をし、不真面目な悪人が得をする。
「だ、だとしても! わ、私は嫌です……それに、猫さんは人ですらないんですから、そんな人の都合に巻き込んじゃうのは酷な話です……」
「……うん。ヒフミならそう言うと思った。私も全面的に協力するから、早く見つけてあげよう」
二人で顔を見合わせて、一刻も早く見つけなければと意思を通じ合わせる。
そうして足早に次の部活へと向かおうとしたところ、ふと、二人にかけられる声があった。
「あら? ヒフミちゃんとアズサちゃん? こんなところでどうしたんですか? 補習授業部の教室はそっちじゃありませんよ?」
お淑やかでどこか色香を感じさせる、ゆったりとした音色だった。
その聞き慣れた声にヒフミとアズサは足を止める。
この声は、ヒフミとアズサの知り合い――コハルと並ぶ補習授業部のもう一人のメンバー、
毎日放課後に一緒に部活動に勤しんでいる仲なので、聞き間違えることはない。
ヒフミは振り返りながら、かけられた声に返事をする。
「あ、ハナコちゃん。えっとですね、モモトークで連絡しましたが、今日の補習授業部の活動は中止になりまして――あれっ!? なんで水着なんですかっ!?」
もしかしたらちゃんと送れていなかったのかも、と申しわけなく思いながら返事をしていたのだが、少し遅れてその奇天烈な格好に素っ頓狂な声を上げる。
ハナコは持っていた鞄から端末を取り出すと、パチパチと目を瞬かせた。
「これは……なるほど、だから誰も教室に来なかったんですね。おそらく水着に着替えている最中に連絡が……返信できなくてごめんなさい」
「あ、い、いえ。それに関してはむしろ急に中止にした私の方が謝らなきゃいけないくらいで……じゃ、じゃなくてですね!? どうして水着に着替えてるんですか!?」
ヒフミの言う通り、今のハナコは水着を着用していた。
一応補足しておくと、ここは別にプールでもなければ更衣室でもない普通の廊下である。
至極当然なことではあるが、水着が制服だというわけでもない。いやまあ着ている水着自体は学校指定のものだが。
今はヒフミたちしかいないが、普通に他の人も通るし、こんな姿を正義実現委員や警備員に見つかれば間違いなく補導されるだろう。
とどのつまり変質者であった。
「ふふっ。なぜ水着なのか……そうですね。普段皆で過ごしている広い空間、そして誰が来るかわからない状況で、服を脱いで開放的な格好をする……そういうのって、なんだか背徳的でドキドキしませんか? ヒフミちゃんはどう思います?」
「へ!? 私ですか!? わ、私はその、気まずいだけでドキドキなんてしないと思いますけど……」
「……?」
ヒフミの横で話を聞いていたアズサは、ハナコの質問に対して心底不思議そうに小首を傾げていた。
質問の意図がまるで理解できないと言った様子だ。アズサは純情な子だった。
言い様からして、おそらくハナコは水着姿のまま補習授業部の教室で他の皆を待っていたのだろう。
連絡が行き届かず、無駄な時間を使わせてしまった申し訳なさと、なぜそんな格好で待っていたのかという困惑が入り乱れる。
そこへさらにハナコの爆弾のような問いかけも相まって、ヒフミの目はグルグルと渦を巻いてしまっていた。
「ふふっ。本当に、ドキドキしませんか?」
ヒフミが冷静さを失っている様子を見て取ると、ハナコは瞳を覗き込むようにしながら一歩ずつヒフミに詰め寄った。
なにかイケないものににじり寄られている感覚がしたヒフミは無意識に後ずさっており、気がついた時には、トンと廊下の壁に背中がついてしまっていた。
逃げ場をなくしたヒフミとの距離をハナコはさらに縮めて、ヒフミの耳元に自分の口を寄せる。
ハナコの吐息を間近で感じ、ヒフミは反射的に身を縮こませた。
「欲望の形というものは自分では意外とわからないものですから。実際にやってみたら、案外ヒフミちゃんもハマってしまうかもしれませんよ?」
「ふぇ!? わ、私、そういうのはちょっと……!?」
「では、早速実践してみましょう。大丈夫です。この道の先達として、私がヒフミちゃんに手取り足取り、いろんなことを教えてあげますから……ふふ」
戸惑うヒフミをよそに、ハナコはヒフミの制服のボタンに手をかける。
(た、助けて……助けてください、アズサちゃん……!)
このままだと本当にハナコと同じ水着姿に着替えさせられてしまう。
そう直感したヒフミは恥ずかしさで顔を赤らめながらも必死に、それはもう必死に視線でアズサに助けを乞うた。
それが通じたのかどうかは定かではないが、アズサはようやく状況を理解したとばかりの得心が行った様子で頷くと、二人をなだめるようにピシャリと告げた。
「二人とも。制圧術の訓練はいいけど、今は子猫の救出が先。未だ子猫の状況が不明確な以上、あまり余計な時間は使っていられない」
どう見ても制圧術の訓練ではなかったが、ヒフミに詰め寄るハナコの行動、そして実践や教えてあげますと言った数々の発言から、アズサはそんな答えを導き出したらしい。
アズサの推測は的外れではあったものの、主張自体はもっともだと感じたのだろう。
ハナコは少し残念そうにヒフミから体を離す。
「そういえばメッセージにそんなことも書かれていましたね……しかたありません。残念ですがヒフミちゃん、続きはまた今度ということで」
「で、できれば続きはない方が嬉しいのですが……ひとまず助かりました……」
ヒフミはホッと息をつくと、また同じような目に遭ってもすぐ助けてもらえるよう、さり気なくアズサの隣に移動する。
ハナコはそのヒフミの行動に気がついてはいたが、口に出して指摘することはしない。
むしろ、普段以上に距離を詰めて並んだヒフミとアズサの二人がとても仲良しに見えて、微笑ましそうに頬に手を当てた。
「それにしても迷子の子猫ちゃんですか。思い出したのですが、そういえば補習授業部の教室についたばかりの頃に窓から白い毛並みの子が見えましたね」
「えっ!? 本当ですかっ?」
「もちろん本当ですよ。庭園を不安そうに一匹で歩いていて……ちょうど通りかかったハスミさんに保護されていました」
「え、ハスミさん……ですか?」
「はい。正義実現委員会、副委員長のハスミさんです」
子猫の目撃証言と、その子がどうなったか。
数々の部活動を回ってもまったく得られなかった情報の一端を、ヒフミはようやく手に入れることができた。
「そうですか。正義実現委員会に……ふぅ、よかったです。猫さんが無事そうで……」
手遅れだとか誘拐だとか、今まで散々嫌な想像を繰り返してきたが、やっと手に入った子猫が無事だろうという情報にヒフミはホッと胸を撫で下ろす。
正義実現委員会はトリニティの武力の象徴ではあるが、その名の通り正義を為すための組織だ。
なんの罪もない保護した子猫に手荒な真似をしたりはしない。なんなら飼い主を探すと言ったことまでしてくれそうだ。
ヒフミの中では、これでこの件は解決したも同然だと思っていた。
けれどそんなヒフミとは反対に、ヒフミの隣に立っていたアズサは険しい顔になって瞼を閉じた。
「そうか。正義実現委員会に……確かに、正義実現委員会はまだ回っていなかった。でもまさか、よりにもよって正義実現委員会に囚われているなんて……」
「えっと……アズサちゃん? どうかしたんですか? 正義実現委員会に保護されているなら、きっと無事だと思うのですが……」
「そうとは言い切れない」
ヒフミの推測を甘い考えだとばかりにバッサリ切り捨てると、アズサはその宝石のような眼でヒフミを見据えた。
「ヒフミは聞いたことない? 正義実現委員会の委員長……その苛烈な戦いぶりを見た生徒は皆、
「その噂は私も聞いたことはありますが……」
正義実現委員会の委員長――
好戦的で暴力的な正確であり、気に入らないものがあったらとりあえず壊してから考えるタイプ。
トリニティの戦略兵器の異名を持ち、その驚異的な戦闘能力と危険性を評した噂は数知れない。
トリニティに住む者であれば……否。キヴォトスに住む者であれば、彼女の存在を知らない者などほとんどいないだろう。
「実際に戦ったわけでもない者でもそうなんだ。そんな光景をまだ幼い子猫がもしも目にしてしまったら。その心に癒えない傷を負うことになる。早く救出してあげるべきだ」
「えっと……さすがに猫さんを戦場に連れて行くことはないと思うのですが……正義実現委員会の方々も、その辺は考慮してくれると思いますし」
「でも、可能性はゼロじゃない。たとえば、飼い主探しの途中とか。正義実現委員会に恨みを持ってる不良生徒だって相当な数だ。意図しないタイミングで襲撃されて、戦闘が発生することだってあるかもしれない」
いくらなんでも悪い方向に想像を飛躍しすぎではないかとも思ったけれど……絶対にありえないとまでは言い切れない。
「……うぅ。そう、ですね。正義実現委員会……あまり気は進みませんが、教室を尋ねてみましょうか。事情を話せば、きっと猫さんを引き渡してもらえるはずです」
正義実現委員会の部室はトリニティの生徒たちからも少し恐れられているような場所だ。
その大体の原因は、やはりツルギに付き纏う数々の噂話にあるのだが……ともあれ、多少なりとも恐れているのはヒフミも例外ではなかった。
それでも子猫のためであればとヒフミは奮起する。
しかしアズサは再び否定するように、ふるふると首を振った。
「それも得策とは言えないかな。だってヒフミのその行動はつまり、あの正義実現委員会に下手に出て
「ア、アズサちゃん? ちょっと言ってる意味がわからないのですが……」
「ただでさえ私たちはやつらから目をつけられているのに……そうなったら、いったいどんな払いがたい対価を要求されるかわかったものじゃない。私は反対だ」
「えっと……その、ちょっと言いにくいのですが、目をつけられているのは主にアズサちゃんとハナコちゃんの普段の行いのせいだと思いますよ……?」
アズサは見た目は小さくて可愛らしいが、そのお人形みたいな容姿に反して非常に好戦的だ。
特に正義実現委員会とは確執でもあるかのごとく、些細なことでしょっちゅう衝突している。
ハナコも見た目は一見上品でお淑やかそうに見えるが、中身は相当アレである。
学園の敷地内を大胆な格好で出歩くことで補導された回数数知れず。今もなんか水着着てるし。
毎回のように問題を起こしまくっている二人が正義実現委員会から目をつけられるのは必然というか当然と言えた。
「そもそも借りというほどのものにはならないような……? 私たちの誰かが飼ってる猫というわけでもないんですし、普通に引き取らせてもらえる気が……」
「いや、正義実現委員会に頭を下げるなんて絶対に良い結果は生まない。それに頑迷な正義実現委員会のことだ。一度保護した以上は自分たちの仕事の領分だからって、話も聞かず突っぱねるに決まってる」
「そ、そうなんですか……?」
「うん。そう。連中と何度も戦ってるし、連中のことは熟知してる。絶対にそうなる」
どう聞いても一方的な言いがかりというか、凄まじい偏見に思えたが……ヒフミは正義実現委員会についてそこまで詳しいわけじゃない。
アズサちゃんがここまで言い切るからにはそうなんでしょうか……? と、ちょっと疑問に覚えつつも、ヒフミはとりあえずアズサを信じることにした。
「そこで……私に一つ、良い提案がある」
いかにも自信がありそうに、アズサが人差し指を立てる。
……今までの経験が警鐘を鳴らしたように、ヒフミはなんだか嫌な予感がしていた。
こうしてアズサが自分からなにか行動を起こそうとする時は、大抵なにか物騒な事態に発展するのである。
ヒフミと同様にハナコもなにかを察知したようだったが、彼女はヒフミとは真逆で、面白そうなことになってきましたねと言いたげにニコニコと頬を緩めていた。
「そ、その、アズサちゃんが考える良い案というのはいったい……?」
恐る恐るヒフミが問いかけると、アズサは至極真面目な表情で答えた。
「――私たち三人で、正義実現委員会を襲撃する。私たちの手で正義実現委員会の教室から子猫を救出し、飼い主のもとに届けてあげよう」
「しゅ、襲撃っ!?」
そっちの方が良い結果は生まないと思うんですが!?
思わず浮かんだヒフミのそんな心の叫びは……いやまあ実際に口にも出したのだが、残念ながらアズサの心には届かなかった。
かくしてヒフミの嫌な予感は的中し、いかにも乗り気な様子の他の二人に頭を悩ませることになるのであった。