クロクロ
『クロクロ』という名は、ウマ娘にしては短い名前だと思う。
ウマ娘の名前は原則カタカナ表記で9文字以下、というのはよく知られたことだが、だいたいは6〜8文字ぐらいになる。
——『彼女』が最後方から迫ってくる。黒い髪と尾をたなびかせて。
と、いうか。有名なウマ娘はだいたいそのぐらいだ。印象に残る名前は、いつも長い。この短く、絶妙な愛嬌のある名前も、本来なら鮮烈な印象を残す文字列に埋もれていっていた筈だ。
——『彼女』は見据える。自分より前にいるウマ娘どもを、昏い瞳で。
そもそもこの娘は、デビュー前には一切注目されていなかった。あまりに速いわけでも、偶像的カリスマがあるわけでもない。選抜レースの時も、順位とタイムだけを見る無能なトレーナーからすれば取るに足らないウマ娘だったろう。
——『彼女』が嗤う。まるで、自分の前にいるウマ娘を嘲笑うように。ケタケタという声が、コースに響き渡る。
だが、彼らは気づかなかった。クロクロという名のウマ娘が持つ才能を。スピード、スタミナ、パワー、根性、賢さ。その五つの外にある、六つ目の才能を。
——『彼女』の前にいるウマ娘たちに、突如異変が起こる。ある者は足が鈍り、ある者はスタミナを失い、ある者は内に埋もれ、ある者は焦り加速する。
レースにおいて、明確な妨害行為、例えば進路妨害や故意の接触等は禁止されている。しかし、前でフェイントをかけ抜かしにくくする、相手より内に位置取りスタミナを消耗させる、後ろからプレッシャーをかける、といったことは駆け引きと呼ばれ、レースの醍醐味の一つとして親しまれている。
——『彼女』がスパートをかけ始める。スピードもスタミナもパワーも根性も賢さも失ったバ群を、するすると追い抜いてあっさりと前に出る。
ただ、駆け引きが。ただ、それだけが才能。あとは、何もなかった。足の速さも、長距離を走る持久力も、道をこじ開ける力も、諦めないための根性も、展開を読む頭脳も。
——『彼女』に喰らい付こうと、抜かされたウマ娘が無理矢理スパートをかけ始めた。しかし、先行のペースで走っていた彼女に、追込みのロングスパートは長すぎる。すぐにスタミナを切らし沈んでいく。
プレッシャーをかけ、フェイントをかけ、相手の走りを妨害する。相手を落として自分を繰り上げる。それが才能。それが、私達の戦い方。
——『彼女』が第四コーナーから立ち上がり、最終直線を独走する。素晴しく速いワケでもないのに、追随すら許されない。
呼べ。その名を。讃えろ。その走りを。羨め。その才能を。認めろ。そのチカラを。
——『彼女』がゴール板を駆け抜ける。実況が、『彼女』の名を叫ぶ。
『一着はクロクロ、クロクロ!強豪ひしめくレースを制し、黒々とした白星を掲げて見せました!!!』
紙吹雪の舞う中、『クロクロ』と呼ばれたウマ娘は、ビニールのポンチョを翻し、もう一度、声高に笑ってみせた。
ーーーーー
選抜レース。それは、
第一回URAファイナルズが大成功に終わり、第二回が開催されようとしている。三年周期の開催に合わせ、ウマ娘が最も成長するといわれる
とはいえ、選抜レースはタイム重視。レースは例年通りの十人立てだ。レースは多くなり、上位に入着したウマ娘に群がるトレーナーも増える。
身体の小さく、非力なヒトの女性である新人トレーナーは、自分を弾き出した群れを恨みがましく睨み付け、観戦席に戻った。結局、トレーナー業もフィジカル勝負とは。
数分かけて人混みがはけ、次のウマ娘がゲートに入っていく。人数が増えたせいで、テンポが悪い。その分レース前のウマ娘達を観察できるわけだが、しかし流石に鈍い。
「私だって、ようやく一人前になったんだから……」
何年も必死に勉強して、何年もサブトレーナーとして頑張ってきたのだ。やっと認められて、一人でウマ娘の担当をすることができるようになったのに。
現実は目の前のヒトの壁。これでは努力も何もないじゃないか。残り物には福があるというのは負け惜しみでしかないし、そもそもウマ娘たちを残り物と言うのは、彼女らへの最低の侮辱だろう。
あるいは、残り物は自分だろうか。
またしても阻まれた新人トレーナーは、もはや立っている気も失せたとばかりにプラスチックの座席に戻った。
ゲート前に次に走るウマ娘たちが集まっていく。
ふと、一人のウマ娘が新人トレーナーの目にとまった。星も流星もない真っ黒な毛並みに、光を反射しない黒い目の、長身の彼女。枠は1番だ。やけに線が細いというか、明らかに必要な分の肉が付いていない。見るからにパワーの無さそうなのに最内とは、運の無い。
手元の出走表を確認する。クロクロ、というらしい。聞いたことのない名前だ。話題に上がっていた記憶はない。
クロクロはゲートに入ると、胸に手を当て、ひとつ深呼吸した。なんだかぎこちない動きだ。何か悪癖を抑え込んでいるようにも見える。緊張しているのだろうか?それにしては、仮面の張り付いたような笑顔は全く崩れていない。
不思議な娘だ。
ゲートにウマ娘たちが揃い、体勢が整う。
ガシャ、と、ゲートが開いた。各ウマ娘が、芝2000mを駆け抜けていく。逃げは7、10番の2人、先行は2、5、6、9番の4人、差しが3、4、8番の3人。そして追い込みの位置に、1番のクロクロ1人。やはり少々厳しそうに見える。だが、彼女から目を離せない。
どうしてこんなにも気にかかるのだろうか。没個性的な、暗い少女が。
第二コーナー通過。先頭から最後尾までおおよそ12バ身。
レース中盤まで、動きはない。多少先行の位置で順位の変動があった程度だ。各々が理想的なレースを展開しているように見える。追い込みであれば、そろそろ前に詰めていきたいところだが。
クロクロの表情が、動いた。仮面の張り付いたような笑みが歪む。口角が三日月形に吊り上がり、真っ黒な目が前にいるウマ娘を静かに見据えた。
ウマ娘は、ヒトよりも音に敏感だ。自在に操ることのできる大きな耳は、周囲の音をよく拾い、そしてウマ娘の感情をよく表す。耳は口ほどにものを言うのである。
場にいるウマ娘達の耳が、一斉にピンと立ち上がる。これまで騒いでいた彼女らが急に静まり返ったことで、ヒトの中では耳のいい新人トレーナーの耳にも、その『声』は届く。
笑い声。あるいは、嗤い声。かすかに聞こえるそれは、しかし生理的恐怖でもって新人トレーナーを総毛立たせる。この声は、一体どこから?
辺りを見回すと、ウマ娘達の耳が同じ方向を向いていることに気づいた。今まさにレースが行われている、コースの方だ。
慌ててコースに目を戻すと、滅茶苦茶になったバ群が、もつれるように向こう正面から第三コーナーへ入っていくところだった。逃げていた7番が下がって、差しのはずの3番が先頭に出てしまっている。綺麗に縦に並んでいた先行の4人は、ぶつかりそうなほど近い距離で横に並びかけている。4番と8番がその壁に阻まれ、さらに壁に組み込まれていく。
そのままコーナーに差し掛かったバ群は大きく外に広がり、完全に壁のようになってしまっている。クロクロは?
……いた。未だに1番後ろだ。何故だ?あの笑い声の主は、彼女だった筈だ。この状況は、彼女が作り出したのだ。しかし、クロクロは垂れウマの回避をしきれず、足を余してしまっている。大外から回ろうと横に動くが、迂回しきれずに内に戻っていってしまった。
最終コーナー。混みきったバ群の後方から、やはり抜け出せない。むしろ、ヘトヘトになった他のウマ娘達に前だけでなく横も塞がれてしまい、もはや前には出られなくなっている。
最後の直線。またしても横に広がったバ群は迂回も強行突破も不可能な強固な壁となり、クロクロの進路を塞いだ。無情にもゴールラインは近づいてくる。
ゴール。連続のレースに声を枯らし気味の実況により、着順が呼び上げられていく。実力を出し切れず、残念そうな顔をした面々の最後に、クロクロの名前が呼ばれた。10着だ。
何を見ていたのか、相変わらず入着したウマ娘にばかり群がるトレーナー達を無視して、クロクロの元に向かった。真っ先にターフから出た彼女は、1番悔しいはずなのに、騒ぎを一瞥することすらせず立ち去ろうとしていた。
トレーナーはその背を引き止めるため、呼びかけた。
「ねえ、あなた」
背後から声をかけられ、クロクロは振り返った。自分に声をかけてきたのは、自分より頭ひとつ以上小さな、ヒトの女性。トレーナーさんだろうか?胸元に、真新しいトレーナーバッジが付いているのをみとめた。
「……何カ、あリマしたカ」
どうしても舌足らずな口を動かす。不自由な発音は聞き取りづらく、不気味に思われることも多い。怖がられて避けられて、レースも最下位。スカウトされる理由なんか無いハズだ。
「アレは、貴方がやったんでしょう?」
はて、『アレ』とは?レースを思い返してみる。そういえば、昂ってしまい、声を出して笑ってしまっていたか。幼い頃から、言われていたのだ。自分の笑い声は他人を不快にさせる、止めるようにと。彼女も、何か気分を悪くしてしまったのだろう。
「すみませン、レース前ハ堪えられタんですガ、どうしてモ抑え切れなくテ。気分ヲ害されたのなラ、謝罪しまス」
どうしたって、レースは楽しいのだ。ウマ娘として生を受けた、それだけの理由で、走り、競うのがどうしても楽しくて仕方ない。だから、ワラってしまう。
「そう、それだよ」
ああ、やはり叱られるのか。動かない表情を裏切るように、耳が横に垂れる。いつまで経っても叱られるのは嫌だ。子供じみているが、実際自分はまだ小娘なわけで。
「貴方を、スカウトしたいの」
だから、その言葉の意味を理解するのに、少しながら時間を要した。彼女は、この小さなヒトは、何と言った?
「貴方にはレースに勝つ才能がある。磨けば、より光るはず。だから、私を貴方の専属トレーナーにしてほしい」
信じられない言葉に、口の端が少しだけ上がってしまう。何を言い出すんだ、このヒトは。
少しだけ漏れた笑い声は、レースの時と同じもの。
「ワタシに、アナタが思うほどノ才能ハ無いかもしれなイ。それでモ?」
試すように、新人トレーナーに聞く。威圧するように、一歩踏み出す。小さなヒトは、長身なウマ娘の影に完全に収まってしまう。しかし、怯える様子は無い。それどころか、より一層、その目を決意の色に染める。
「いいえ、貴方がわかっていないだけで、それは貴方の才能だよ。だから、私に任せてほしい」
凄い口説き文句だ。クロクロの耳が震える。左耳についた細い真鍮のチェーンが、微かに音を立てた。
面白い。彼女に、任せてみよう。
クロクロは右手を彼女に差し出す。まずは、握手から。
「ワタシはクロクロ。よろしク、ワタシのトレーナーさン」
新人トレーナーは、彼女の手を取った。
「よろしく、クロクロ。私はーー……」
そして、クロクロと新人トレーナーの、三年間が始まった。
しかし彼女はそうでもない。