黒々と白   作:げに味わい深きレモン

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 結局、好きにやればよい。


09__京成杯

「ここにこう回して……よし、できたよ」

 

 

 待ってました、とばかりにクロクロは椅子から立ち上がった。ゲートルを手で触り、足踏みして巻き心地を確かめる。少し緩いかな、と思って直そうとしたのを、トレーナーが止めた。

 

 

「これをつけるためにちょっとだけ緩くしておいたんだよ」

 

 

 トレーナーが取り出したのは初詣の時に買った安走祈願のお札だ。もう一度座ったクロクロの脚に巻かれたゲートルのわずかな隙間に、破いたりしないように丁寧に差し込み、挟み込んだ。

 膝と足首の辺りに一枚づつ、両足で計四枚。怪我をしないように、と、念じながら。ヒラヒラと浮いてしまう端の方はのりづけしてしまう。元々足に貼るのも想定されているおかげで、激しく動いても問題は無さそうだ。

 

 

「……なんダカ、足ガ軽イ気がしまス」

 

 

 思い込みか、ご利益か。そもそも安走祈願なのは言わない。無闇にやる気を削ぐなどもってのほかだ。

 

 

「よかった、ちゃんと効果があったみたいで」

 

 

 トレーナーは嬉しそうにしているクロクロの背を軽く叩いた。勝っておいで、と思いを込めて。

 

 

「じゃ、がんばっておいで!」

 

 

 

 一月の中山レース場の空はどんよりと厚い雲で覆われている。直前まで降っていた雨が濡らした芝は重くぬかるみ、沼のようにドロドロの箇所も所々に見られる。水たまり程度なら問題なくとも、深いぬかるみに嵌ればクロクロでも大幅なロスは免れない。極力避けて走りたいところだ。

 

 パドックからゲート前へ。まだ走っていないのにシューズの中には既に泥水が入り込んでいる。滑って脱げることのないよう、靴紐をきつく結び直した。

 

 ポンチョのフードを少しだけまくって、曇天を見上げる。こんな空模様なのだから一雨来てほしい、とクロクロは思ったが、空は意地悪だ。返事をするような北風が、ポンチョの裾を激しく揺らした。

 

 精神統一を図ろうとするクロクロの耳に、ひそひそと話す声が聞こえた。横目でそちらを見やる。やはり、対戦相手のウマ娘たちだ。三人でかたまって、チラチラとクロクロの方を見ながら何やら小声で話している。耳をすましてよく聞いてみれば、話題はクロクロの格好についてのようだ。

 

 足に包帯をしてその上からお札を貼っているが、何か憑いてるんじゃなかろうか。ただの中二病だろう。雨なんて降っていないしGIIIなのにポンチョまで着て、恥ずかしくないのか。等々。

 なるほど、陰口か。このぐらいの年頃の少女には何も珍しいことではない。それに、なんだかんだでそういうのは言われ慣れているのだ。行動ならともかく、見た目に関してはもう気になどしない。

 

 ゲートへ入るよう促される。今回のスタート位置は16人立ての5枠10番。ほぼ中央。まあ、悪くはないだろう。背後の扉が閉じられる。目をつむり、ゆっくりと息を吐く。コンディションは良好、天気もバ場もクロクロにとっては悪くない。

 

 風の音。湿った土のにおい。少し遠い人の声は気にならない。地面の冷たさが靴底も透かす。

 

 ゆっくりと目を開く。潰れていた肺が冷たい空気で膨らんでいく。左足を前に。右足は後ろ。芝が沈む。

 

 

 ゲートが開いた。一拍置いてからクロクロもスタートする。意図的に出遅れたクロクロは最後尾に位置取り、序盤から背後に誰かがいる状況を拒否した。

 

 最初に飛び出していった娘はいない。先行のペースで走るのが8人、その後ろに6人、そしてさらに後ろ、クロクロのすぐ目の前に1人。珍しくクロクロ以外の追い込みがいる。同じ作戦、ということは動きも同じになるということ。どう避けていくべきか。まだまだ序盤だ、終盤までよく観察していよう。

 先頭集団が大きい。内をつく隙を窺う必要が出てきそうだ。位地取り勝負が激しく行われている中で1コーナーへ入っていく。まだ、アルブムニヴイスから学んだ走法は使わない。もっとクロクロ自身も消耗した、スパートを始める前の3コーナー入り際。それまでは集中力と共に温存する。

 次第に位置取りに負けて外や後ろに追いやられるウマ娘が出てきた。スタミナ勝負では前方より優位に立てることだろう。

 

 バ群は深い蹄跡を刻みながら2コーナーへ。差しの後方集団を巻き込み始めた、熾烈を極める位地取り勝負。後方にいるクロクロからはその様子がよく見える。それぞれがそれぞれを睨み合い、プレッシャーをかけあっている。しかし、追い込み二人の姿はその狭まった視野にはないようだ。

 

 面白い。これなら……気持ちよく走れる。

 

 向こう正面。入ってからしばらくして、位地取り争いに気を取られ過ぎたウマ娘たちがだんだんと下がってくる。ここからは見えない表情にはきっと、少しだけ諦めがあるのだろう。それでも諦めきれずに、前を見据えて。きっととどかない先へ思いを馳せるのだろう。

 

 3コーナー。先頭まで8バ身。遠心力に負けたウマ娘たちが外へ弾かれ、さらに位置を下げてくる。遠心力を味方につけられなかった、憐れな娘たち……。

 

 クロクロの姿勢がわずかに変わる。アルブムニヴイスから学んだあの走り方(コーナー回復)へ。

 ゆらゆらと体が揺れる。重力と遠心力がクロクロの体を取り合うように、交互に引き合う。足で曲がらないで、重心で曲がっていく。結果生まれた推進力に任せ、クロクロ自身は息を入れスタミナを回復。これまでの2つのコーナーよりも負担が小さい。やっぱり、取り入れて正解だった。

 しかし、集中力を使う走り方だ。気を取られ過ぎれば、レース展開を致命的に間違えかねない。だが、この後はスパートするだけ。

 

 また姿勢が変わる。スパートをする前の、ほんの十数歩だけの脚を溜めるステップ。独特の足音。熱を帯び始めた、しかし血流の制御された脚。

 

 最終コーナーに入る直前。突然バ群が左右に分かれた。ターフにできた水たまりが、川の流れを歪める岩のようにバ群を分ち隙間を作る。クロクロのすぐ前にいたウマ娘がそれを外側へ回避した。クロクロの前に、道が開ける。

 まさに絶好のタイミング。ここを逃すなんてできない。

 

 横隔膜が振動する。声帯を通った断続的な空気が音となって吐き出される。口の端が歪んでいく。耳まで裂けるように唇が弧を描く。その笑い声に反応して振り返った全員の目を奪ったのは、真っ紅な三日月。そしてそのすぐ上の、光の無い、何も反射しない、全てを飲み込む黒。

 

 誰も目を逸らさない。逸らせない。逸らさせない。

 

 

 

 

 ワタシはココにいる。

 

 

 

 

 クロクロの前にいる、クロクロと目の合った全員のフォームが乱れた。立て直そうとするその隙。減速。

 何故だかいつもより軽い脚で、地面を強く蹴りつける。水飛沫をあげ踏み越えた、その水たまりが裂いたバ群の隙間は埋まっていない。すり抜けるのは容易いことだ。

 

 最終コーナーを抜けた。最初に立ち上がったのはただ一人自分の走りをしたクロクロのみ。後続も必至に追うが、ただでさえ一度崩れた体幹、フォーム。焦りを滲ませた表情で追ってきても、クロクロに近づくことはない。

 あとは前を、ゴールを見据えて走るだけ。差は小さくとも、詰まらない。わずかづつ離れていく。

 

 中山の短い直線で、クロクロはその快感を噛み締めている。今までのレースよりも、足が軽い。きちんと全身に血が巡り、走りながら目が眩むこともない。不思議な温もりを感じる脚は、さらなる加速を実現してみせる。差が開く。ゴールはすぐそこだ。

 

 

 3/4バ身差。しかし、本人たちにとっては、絶対的すぎる差。

 

 

『一着は10番クロクロ!着差以上の実力を見せつけた、見事な勝利です!!』

 

 

 掲示板が点灯する。一着に表情されているのは、もちろんクロクロの名。スピーカーから実況の声が響く。観客の一部が沸き立ち、クロクロへ惜しげもない称賛を送った。走り終えたクロクロは、少しだけ恥ずかしそうに、自らのファンへ小さく手を振って返した。

 

 

「フン。そうでなくちゃな」

 

 

 何かに気づいたクロクロは、観客席の出口の方を見た。

 見覚えのある後ろ姿。灰色の髪と尻尾。

 ああ、来ていたのか。見ていてくれたのか。あの娘も。

 

 戦うことになるのは半年以上後のことだろう。

ーーーーー

 

 

「一着おめでとう、クロクロ!とってもいい走りだったよ!」

 

 

 ライブも終えて控え室に戻ってきたクロクロのもとに、トレーナーが駆け寄ってきた。飛びついて抱きしめるような勢いにクロクロは少しびっくりしたが、嬉しそうに耳をぴこぴこと跳ねさせた。トレーナーはさらに続けて言う。

 

 

「今回のレース、クロクロの自己ベストのタイムだったんだよ!よくがんばったね!」

 

 

 クロクロは目をぱちくりとさせた。確かに今日はなんだか速く走れたような気がしていたが、まさか自己ベストとは。日頃のトレーニングの成果か、それともお札の効果だろうか。

 

 ゲートルを解こうと椅子に座ってから、異変に気がついた。左膝のお札の端が、黒く変色しているのだ。

 泥汚れか、とも思ったが、明らかに違う。鼻を近づけて嗅いでみると、わずかに焦げ臭い。まさか、燃えたとでもいうのだろうか。

 

 

「トレーナーさン、こレ……」

 

 

 トレーナーにそのお札を見せる。トレーナーはお札をまじまじと見つめ、天井の照明に透かして見てみたりするが、どうしてこうなったのかは全くもって見当がつかなかった。

 物理現象で説明できないとなると、あとはオカルチックな妄想の域になるが、これはもしかして……。

 

 

「このお札が、クロクロの怪我を防いでくれたのかな」

 

 

 焦げたお札は左膝の近くに貼られていた一枚だけだ。他のものは泥に汚れてはいるもののそんな様子は一切無い。つまりはそういうことなのだろう。このお札が、クロクロの代わりに燃えて怪我を防いだのだ。

 なかなかに非現実的だが、きっとその通りだ。

 

 クロクロはお札を取っておきたいようだが、厄を吸ったものだ。あまり縁起のいいものではないので、購入した神社でお焚き上げしてもらうのが良いだろう。トレーナーがそうクロクロに伝えると、あからさまに残念そうに耳を垂らした。守ってくれたことでお札に愛着がわいてしまったようだ。

 

 

「仕方ないよ、クロクロ。守ってくれた神様に感謝して、このお札も返しに行こう」

 

 

 クロクロは渋々といった様子でうなづいた。他の三枚も、汚れてしまって効果がなくなっているかもしれないため、一緒に神社へ持って行こう。

 

 

「守っテクれて、アリがとウ」

 

 

 四枚のお札を大切そうに胸に抱いて、クロクロは小さな声で言った。




 それで、よい結果が出るのであれば。
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