『第4コーナーから14人が一気に立ち上がる! 先頭に上がってきたのはアルブムニヴイス! 立ち上がりからの加速で後続を突き放していく! 12番外から伸びてくるがこれはちょっと届かないか!』
観客席が一気に沸き立つ。GII弥生賞ラスト1ハロン、皐月を賭けたトライアルの最後の直線。
『ニヴイス、さらに加速! リードは1バ身、まだ開く! 残り200m、後続はもう捉えきれないか?!』
歓声を、声援を背に受けて。芦毛のウマ娘が駆け抜ける。大気を突き抜け、大地を蹴りつけ。
『3バ身、4バ身、まだ開く! 2番手争いは12番と8番、5番も内から伸びてくる! しかし先頭はアルブムニヴイス、アルブムニヴイスさらに離す! 実力差を見せつけて今、』
ゴールイン。
誰がどう見ても圧倒的と評するであろうその走りを、GI級レースでの3バ身差という着差がさらに補強する。
「強いね……さすがに」
「はイ……アルブムニヴイスは、やッパり……」
皐月賞、日本ダービー、菊花賞。間違いない、クラシック三冠の器だろう。
そしてそれはきっと、彼女の夢なのだろう。
勝利をただ純粋に喜ぶアルブムニヴイスに、クロクロのような後ろ暗さは無い。当たり前だ、完全なる実力で他を倒せるのだから。
「……イイナア」
これまで一度も思ったことのない言葉が、クロクロの唇から漏れ出た。あるいは、本人も気づかず、ずっと抱いていた感情だったのかもしれない。
正々堂々、なんて口が裂けても言えないような方法で、戦っているのだから。
トレーナーはその呟きに、何も答えなかった。
ーーーーー
4月1日、といえば、始まりの日と考える人が多いだろう。
桜が咲き誇り、暖かい風が優しく流れる、うららかな日を想像するはずだ。あるいは入学式を真っ先に思い浮かべるだろうか。
トレセン学園もまた、新たな伝説を残すであろう将来有望なウマ娘たちを迎え入れていく。
これから夢を叶えるのだ、という希望に満ちた新入生たち。しかしそのうちの何人か、あるいは何割かは、何も残せずに消えていく。
いつのまにか空いていた、名前も覚えていないクラスメイトの席を、クロクロはぼんやりとながめていた。
もしかしたら、自分がそうなっていたのかもしれない。いずれ、そうなるのかもしれない。
空の席から目を逸らした。なんだか、見ていると胸のあたりがぞわぞわする。
授業は休講、トレーニングもなく、新入生を歓迎するムードの学園を、クロクロは足早に歩いていく。なぜだか、居心地が悪い。自分だって新入生にはがんばってほしいと思っているが、顔を合わせるのは嫌だ。すぐそばを駆け抜けていく少女たちから目を逸らした。
学園内は静かに走るべし、なんてきまりを守る気にはなれなかった。
(ソウダ、三女神像ノトコロニ行コウ)
クロクロはそう思うと、ふらふらと歩き始めた。
渡り廊下を抜けて、カフェテリアを通り過ぎ、屋外に出て、石畳を歩く。三女神へ近づくにつれて、だんだんと人影が減っていく。
さっぱりと晴れていたはずの空がかげり、どんよりと灰色に暗くなる。地面に小さな黒い斑点ができたかと思えば、ぽつぽつと雨が降り始めた。
クロクロは肩から提げたスクールバッグからポンチョを取り出し、頭からかぶった。ぱらぱらと弾ける雨脚が、彼女の脚を導いていく。
三女神像前の広場は、午前中というのに薄暗かった。人っ子一人いない、電灯も点いていない肌寒い広場。クロクロは三女神を見上げた。
もう容姿もわからない3人は、何を想っているのだろう。
雨霧で閉ざされたその中で、クロクロは静かに目をつむった。
カラカラカラ、と、音がする。雨音かと一瞬思ったが、どうも違うように感じる。
まるで何かが、まわっているような音。
ブザーが鳴って、幕が上がる。現れた真っ白なスクリーンは、白く照らし出され始めた。
3……2……1……ノイズ混じりのカウントダウン。少し黄ばんだ、モノクロの無声映画。
ーーーーー
映っているのは……赤ちゃん?まだ首も据わっていないような、生まれたてのウマ娘。黒毛の前髪には、白く流星が入っていた。これは、一体誰だろう。
白い手が、赤子を抱き上げあやしはじめた。ぬくもりにつつまれた赤子は、声を上げて笑っていた。
ーーーーー
広い野原を、まだ幼い少女が走っている。先程の赤子と同一人物らしい。小さな身体を本能のままに、楽しげに大地を駆け回る。
両手をいっぱいに広げて、よたよたと危なっかしく走る幼いウマ娘。案の定つまづいて、転んでしまった。
ゴロゴロと転がり、草葉と土にまみれて仰向けになった幼子は、しかし歓喜に身を震わせ笑っていた。
ーーーーー
観客席の最前列に、小学生ほどになったあの少女がいる。食い入るように見つめているのは、中山芝2500mのコース。
空から黒く雪が舞い降りる、寒い日のレース。しかしその熱気は、白黒の画面からも伝わってくる。
最後の直線。一気にスパートをかけた18人。逃げる、追う、下がる、上がる、みんなが夢をかけていく。
頬を紅潮させた少女は、歓声を、拍手を、小さな身体から惜しげもなく振り撒いた。そして彼女はきっと、ウマ娘として当然の感情を抱いたのだろう。その顔は、強い憧れに満ちた笑顔だった。
ーーーーー
日本トレーニングセンター学園、そう刻まれた門の前で、少女が両親と思われる人物とともに写真を撮られている。
真新しいトレセン学園の制服をぴしりと着た彼女は誇らしげではあるものの、どこか緊張したままのようで、どうも笑顔が固く見える。
カメラマンが合図をして、フラッシュが二、三度瞬く。ファインダーから目を離したカメラマンが何かを呼びかけて、少女は自らの口角を指で押し上げた。しかしまだまだ表情はほぐれない。
少女の母はその様子を見てにっこりと笑うと、娘の頭を撫ではじめた。少女の父もそれを見て、娘の肩に手を乗せた。娘は恥ずかしがるように二人の手を退けようとする。
もう一度だけフラッシュが焚かれた。写真に収められた少女は、はにかんだ、しかし本心からの喜びの笑みの表情をしていた。
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ゲートの中に、あの少女が収まっていた。体操着の上にゼッケンをつけている。コースや観客の感じからして、選抜レースらしい。
胸に手を当て、深呼吸。真っ直ぐ前を見据えた眼差しは真剣そのもの。夢を叶える一歩目の、さらにそのスタート地点に立つためのレース。夢を叶える力を持った誰かと出会うためのレース。
ゲートが開いた。
さすがに中央、全員のレベルが高い。読み誤った彼女は後半から3番手に。焦って加速、中盤でトップへ。そして終盤。掛かりに掛かった彼女は失速していく。
10人立てのレース。芝、2000。走れないわけじゃなかったはずの彼女の順位は……10着。
走りには、一定の自信があった。少女は震えていた。少女ははじめて、走りの悔しさを知った。
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また、ゲートの中。だが今度は舞台が違う。これは……メイクデビュー。悔しさを知った少女の表情は、もはや別人のようにも見えた。
ゲートにいるのは8人、前よりも少ない。自分の走りはしやすいが、それは周りも同じこと。
ゲートが開いた。
逃げウマ娘のいないレース、少女は1番前に出ていた。後続も遅れずついてくる。先頭集団と、少し離れて後方集団。それで終わり。寂しくも見えるかもしれない。
こうしてみると当たり障りのないレースは、コーナーを抜けて最終直線。差しにくる後続から逃れ突き進む。ゴールは目の前。一歩目まであと数十歩。より強く、一歩、踏み込んだ。
少女は笑っていた。やっと、スタートだった。
ーーーーー
カラカラとフィルムは回転する。
9月
10月
11月
負けた。
12月
憧れた。
1月 勝った。
2月
3月 勝った。
4月 負けた。
5月
負けた。
6月
7月
8月
9月 勝った。
勝った。
10月
勝った。
11月
12月 出られなかった。
1月
2月
3月
勝った。
4月
負けた。
5月
6月
負けた。
7月
8月
9月 勝った。
10月
11月 勝った。
12月 脚から嫌な音がした。
出られなかった。
でられなかった。
カラカラとフィルムは空転する。
ーーーーー
映像が止まり、白く照らされるのみになった舞台上に、誰かが立っている。逆光で顔は見えないが、ウマ娘のようだ。
かつ、かつ、かつ、と、蹄鉄を響かせながら、黒い影は舞台から降りる。近づくその顔は、やはりあの娘の顔だった。
目の前に差し出されたその手は、照り返しのせいで黒くて白い。
クロクロは右手を伸ばした。まだ不安の残る表情で。
舞台を降りた彼女が、そこへ誘っている。新たな役者を、自分の代わりを、自分の後継を、そこへ。
さあ、次はあなたの番。
影は歩き出した。クロクロの手を引いて。
「でも、わたしはそんなふうにはできない。……わたしは、そんなふうには走れない」
脚がすくみ立ち止まった少女を振り返り、影はにっこりと笑いかけた。
白くて黒い手が、少女の体に回される。優しく抱きしめた少女の背中を、温かい手で撫でる。小さな子供の不安を、取り除くように。
大丈夫。きっとできるよ。あなたは、わたしの娘なんだから。
「……うん、わかった。やってみるよ——……
カシャン、と、音が鳴り、またフィルムは回り出す。
スクリーンに映し出されたのは、母の手に優しく包まれた、生まれたばかりのウマ娘。
その黒い髪に、星はなかった。薄く開いたその目は、吸い込まれそうなほど、黒かった。
クロクロは目を覚ました。何か、夢を見ていたような気がする。目を擦り、あたりを見回した。
三女神像前、ベンチで居眠りをしていたようだ。太陽は天辺から少し傾いている。
そこそこの人数が集まっている三女神像前、居眠りをするには少々うるさかったかもしれない。そもそも、なんでこんなに人気のあるところにきたのだろう。ポンチョのフードを脱いだ。
濡れたポンチョからは、濃密な雨のにおいが漂っている。雨なんて、降らなかったはずなのに。いつかのカフェテリアのときのように、クロクロを見ながら小声で話す集団がちらほら。
場所を変えよう。そう思ったクロクロは立ちあがろうとして、無意識に握っていた手の中にかたいものがあることに気づいた。
手を開く。中にあったのは……ガラス細工の花だった。ユリの花だろうか?
指先で持ち上げ、太陽に透かし見る。花が落とした影と、花が透かした光が、クロクロの頬に落ちた。
「綺麗……」
ぽろりとつぶやく。目を奪う白と黒。きっと自分を守ってくれる、そんな予感。
クロクロは左耳に手を伸ばした。そこに付けたピアスを外す。細い鎖を繋げたそれ。飾りのない鎖。これを繋げるにはちょうどいいかもしれない。
白くて黒い花の付け根にあった留め具に、鎖の端を繋げる。多少振り回しても外れない。
重くなったピアスを、左耳に付け直した。鎖の長さはピッタリだった。花が邪魔になることはない。
満足げに左耳の飾りを弄ぶと、クロクロはベンチから腰を上げた。ポンチョに残った雨水が滑り落ち、地面にシミをつけていく。ビニールの向こうで尻尾を揺らして、わずかなその音に合わせて歩む。
かつ、かつ、かつ。黒いウマ娘は、蹄鉄の音とともにその場を去っていった。
だってこれはお話だから。