あれからさらに2ヶ月。トレーニングは日に日に厳しさを増していく。流石に慢性的疲労の見えてきたクロクロに、半月のお休みをとるよう言ったトレーナーは、自らも数日だけ休みをとった。
これからしばらくは、自宅に戻らずトレーナー寮に寝泊まりするため、片付けをするためだ。ここ最近もこのアパートには寝る以外で戻っていないため、少々散らかってしまっていた。
ゴミをまとめ、掃除機をかけ、食器を片付け、しばらく放置されても割と青々としている多肉の観葉植物の鉢ををレジ袋に入れる。トレーナーが自宅から持ち込む私物はこの鉢一つだけ。あとは
昼でも混んでいる電車の、珍しく空いていた座席に揺られながら、トレーナーはスマホをいじる。見るのはデビューするウマ娘についての記事。才能あふれるウマ娘たちの、クロクロのライバルになるかもしれないウマ娘たちの情報。
今年は母数が多い分、記事も多い。それだけ脅威も増える。単純な走力勝負ではなく、搦め手を主力にするクロクロにとっては、情報戦も重要だ。
クロクロが最も得意とする長距離レースは二年目後半まで無い。そのため、まず警戒すべきは中距離を得意とするウマ娘たちだ。対策をしなければ。
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午後3時。クロクロは、自宅に1人立ち尽くしていた。
別に何かあるわけではない。座っているより立っていた方が楽だからだ。
休日。休日か。と、クロクロは1人、考えていた。
好きなことをして休め、と言われても、特にしたいこともない。
外出する趣味もないし、小説もなんだか読む気になれない。トレーニングしようにも身体を休めるようトレーナーに言われているし、テレビやラジオの類はそもそも置いていない。スマートフォンは一応持っているものの、電話とメール以外の使い方をよく理解していないし、何より目が疲れるのだ。
壁掛け時計に目をやる。2本の針は未だ、午後3時30分を指している。
「……面黒イ」
クロクロはそう呟くと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。ぼす、という音と共に、細かなホコリが舞い上がり、陽射しの中をちらちらと踊るのを眺める。
晴れはキライだ。日光は、自分には眩し過ぎる。もしも雨が降っていたなら、せめて雲の一つもかかっていれば、散歩する気でも起きていたろうに。
視界が暗くなり始める。寝巻きに着替えるのも億劫なほど、身体が重い。
アア、制服にシワができテシまうナ。
クロクロはそう思い、眠ってしまった。起きるのはきっと、日没後だろう。
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「メイクデビューはすぐそこまで迫ってる。出来るだけ仕上げていくよ!」
「ハイ……」
休日が開けた。今日もまたトレーニングが始まる。しかし、クロクロはどうも眠たそうだ。
「大丈夫?寝不足みたいだけど」
トレーナーが聞くと、クロクロは目を擦りながら答える。
「実ハ……少々お昼寝ヲしすぎテ、夜ニ眠れマせんデしタ」
しょうがない、と、許してあげたいところであるが、そうとも言っていられない。自己管理は重要だ。
「次からは気をつけるようにね。自分がデビューを直前に控えたウマ娘であることを意識すること」
少々厳しいようだが、言うことは言わねば。クロクロのためにもならないのだ。
「……ハイ」
耳を横に垂らし、目を伏せたクロクロを見て、トレーナーも若干の罪悪感を感じる。だが、甘くするだけではレースには勝てないのだ。レースの世界は、シビアだ。新人の私でも、それはわかる。
「じゃ、始めよっか!」
だから、あえて明るい口調で言った。甘いだけでは勝てない。しかし同様に、厳しいだけでも勝てない。トレーナーはそう考えている。長々と説教しても、やる気を無駄に下げるだけ。
そう、思ったのだ。
「ほら、まずは準備体操からだよ!きちんと身体を目覚めさせて、ケガをしないように頑張ろう!」
シュンとしていたクロクロの耳がピクリと起き、伏せていた視線が上がり、トレーナーを向く。
「……ハイ!」
その日のクロクロは、朝の不調が嘘のような頑張りを見せた。
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いよいよメイクデビューが数日後に迫ってきた。出走表がトレーナーの元へ届く。すぐにクロクロと共に目を通し、レース場とクロクロの枠番、そして出走する相手を確認する。
コースは例年通りの、阪神競技場芝2000m。9人立てで、クロクロは8枠8番。外から2番目だ。悪くない。ここなら、クロクロは自分のペースで走ることができそうだ。
次は相手がどう出るか、だ。データは集めてある。相手の作戦もある程度であれば予測が可能だ。棚から資料を引き出し、ノートのページに情報をまとめていく。逃げはいなさそうだ。先行も差しも四人ずつ。追い込みはクロクロ一人。配置から考えるに、バ群はインコース気味に進むだろう。その外から、一気に追い抜く。そのために加速力とトップスピードを鍛えたのだ。
さらに作戦を練るため、過去のレース記録のまとめられた資料を出そうとしたとき、くぅ、という小さくも可愛らしい音がトレーナーの耳に届いた。
棚に向けていた視線を戻すと、頬を紅くしたクロクロの姿。気まずそうにお腹をおさえ、そわそわとしている。壁の時計を見れば、もうお昼時だ。
「アノ……エっト……」
恥ずかしそうにもじもじとしているクロクロにトレーナーは微笑みかけ、資料を仕舞った。
「先にお昼にしよっか」
カフェテリアへ繋がる廊下はいつも通り混んでいる。ノロノロと進むその中を、トレーナーとクロクロがすり抜けていく。この六ヶ月でクロクロも少しはコツが掴めてきて、トレーナーにぴったりとついて行くとまではいかないものの、距離を大きく離されることは無くなった。
2人で座れる席を取ってからビュッフェへ。クロクロはカレーを大皿に一杯とパン三つ、そしてデザートのプリンを一つ。トレーナーはヒト用サイズのカレーと同じくプリン一つ。席に座り、2人で同時に手を合わせる。
「いただきます」「イたダきマス」
ゆらゆらと湯気のたったルーをスプーンですくいあげ、口に運ぶ。夏野菜のうま味とスパイスの香りが口の中に広がり、一杯おいてピリリとした辛さがやってくる。学園の1番人気メニューの一角であるこのカレーを、嫌いな者などいないのだ。
そういえば、とクロクロは思い返す。トレーナーさんの好物を聞いたことがなかった。今聞いてみよう、と、カレーを飲み込み口を開く。
「クロクロって……」
「トレーナーさんは……」
あっ、と二人で口を閉じる。数秒おいて、トレーナーが肩を震わせ始め、クロクロは身を縮こまらせた。
「いや、先にいいよ、クロクロ」
トレーナーは笑いながら言うが、クロクロは首を横に振った。
「イえ、大しタことデハなイのデ……」
そっか、とトレーナーは内心残念に思った。クロクロから話しかけてくれるのは稀だ。折角の機会を逃してしまったことを後悔する。
「ソれよリ、トレーナーさんハ、ワタシに何カ?」
「ああ、うん。クロクロってウマ娘にしては少食だよねって」
クロクロの食事量は、食べ盛りの男子高校生と大して変わらない。ウマ娘向けにカロリーや栄養価は高いものの、それだけで足りるものなのだろうか。
あたりをチラリと見れば、トレーに山積みにされたパンを小さな体に詰め込んでいる娘がいたり、カレーの大皿を無数に積み重ねている娘がいたり。ごく普通の娘でもクロクロの倍は食べている。
「アぁ、なるほド。ワタシはドウやら生まレつキ胃が小さイようデ、アまり多くは食べラれナイんでス。流石に普通のヒトよりハ多イのでスガ……」
ウマ娘はその身体能力の代わりにかなり燃費の悪い生き物だ。人一倍ではきかないほど食べるのは当たり前、毎食数十人分食べるような食いしん坊もいる。つまり、それだけのエネルギーが必要な筈なのだが……。
「足りるの?それだけで」
「ハイ、一応ハ。ここノご飯ハ元気が出ルので」
まあ無理矢理食べさせることもない。そんなことをすればむしろ体調を崩させてしまいそうだ。しかし、トレーナーとしてはもう少しエネルギーを摂ってもらいたい。今はまだ大丈夫だが、もっと先の、より厳しいトレーニングが始まった時には栄養が不足してしまうだろう。
となると、サプリメントか。できれば食事で栄養を摂ってもらいたい、と本心では思うし、ドーピング検査に引っ掛かる薬品を誤って使用してしまえば、二度と競技場のコースに立てなくなってしまうという危険性もある。
「トレーナーさン……?」
冷め始めたカレー目の前に考え事を続けるトレーナーの顔を、クロクロが不安げに覗き込む。半年間彼女のトレーニングを受け、一緒に過ごしてきてわかったことだが、トレーナーは一度考え事を始めると他のことを放り出して逡巡し続けてしまう質らしいのだ。
新人ゆえの経験の無さからくることでもあるのだろうが、そういう時こそ、自分に相談してくれればいいのに……。
そう思いながら、クロクロはプリンの蓋を開けた。
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六月下旬某日、阪神競技場。天気は曇り、風が少しだけ吹いている。温暖化が騒がれる昨今の夏にしては、涼しい日だ。快晴が続いたため、バ場状態は良と発表された。世間一般的には、レース日和。
控え室で着替えを行う。トレーナーと出会い前より、少しだけ太くなった脚を、タイツに通す。トレーナーが鍛えてくれた脚は、増えた筋肉こそ頼もしいが、自分のものと考えると途端に弱々しく思えてくる。
「ワタシは本当ニ、勝てルのでしョうカ……」
つい漏らした弱気な言葉を、トレーナーが否定する。
「自信を持って。あなたなら、きっと勝てる。私は信じているよ」
ともすれば大きなプレッシャーになるような言葉だったが、クロクロには激励として届いた。しばしの間目を瞑り、深呼吸。鋭く吐いた息と共に、不安がどこかへ消えていった気がした。
「ほら、ゼッケンつけたげるからこっち来て」
8という数字、そしてクロクロの名前が描かれたゼッケンをトレーナーがクロクロに着せる。蹄鉄付きのシューズを履けば、床に擦れた金属が硬質な音を響かせる。
準備はできた。出走の時間だ。
「じゃあ、クロクロ。いってらっしゃい」
「ハイ、行ッてきマス、トレーナーさン」
パドックに出たクロクロを迎えるのは、スピーカーから響く実況解説の声と、観客席からの歓声。
勝利できるか、というところに関しては不安こそ無いものの確証は持てない。しかし、走るのが楽しみでたまらない。緊張と興奮が入り混じっている。口角が勝手に上がってしまう。
ゲートへ向かうクロクロの名を実況が呼ぶ。人気は7番。しかし、メイクデビューの人気などアテにならないものだ、とトレーナーが言っていた。このレースに出るウマ娘達の実力は拮抗しているハズだ、とも。面白いレースができそうではないか。
ゲートへ収まる。未だニヤつきが治らない顔を両手で覆い、余分な悦びと緊張を拭い去る。冷静にリセットされた思考が、表情にいつもの無表情な
全員がスターティングゲートに収まった。背後の扉が閉じられ、閉鎖された狭い空間に一人で閉じ込められる。左足と右手を前に、右足と左手を後ろに。スタンディングスタートの体勢。
「……くフッ♪」
ほんの僅か、残っていたヨロコびが、ごく短い、不気味なワラい声として漏れ出した。
張り詰めた糸のような空気。競技場から、一切の音が消える。耳が痛くなるような静寂。
静寂を破るのは、機械の動作音。
ゲートが開いた。
だが落ち着きすぎもよろしくない。