ファンファーレが響く。2000人弱の拍手と歓声が湧き、新たにデビューする九人のウマ娘たちを歓迎する。
しかし、すぐに本戦に上がれるのはこの九人うちの一人だけ。そして、もし来年の八月後半までに一勝もできなければ、トゥインクル・シリーズには入れなくなる。そうなれば、トレセン学園から退くよう通告がくることだろう。つまり、引退。このメイクデビューと未勝利戦は、大きなふるいなのだ。
『上空には灰色の空が広がる、阪神レース場。天気はなんとか持ちこたえ、良バ場の発表です』
満席とは言えない観客の、どこか緩んだ、ピクニックにでも来たかのような空気とは打って変わって、トレーナー達のいる区画はひりつくような緊張感に包まれている。それもそのはずだ、自分の担当ウマ娘の未来のかかった大一番なのだから。
パドックに出たウマ娘達を、実況が紹介していき、解説が的確にウマ娘達の状態を分析する。しかし、クロクロの表情は読み違え、自信があるかのように言ってしまった。勿論トレーナーはむっとする。別に彼女は自信があるとかではなく、ずっとその表情でいるだけなのだ。
『ゲートイン完了、出走の準備が整いました』
実況席からの放送が、観客席に、ターフに、ラジオの電波に響く。先程は解説者を否定したが、トレーナーから見てもゲート内のクロクロはどこか嬉しそうに見えた。やはり彼女も、れっきとしたウマ娘なのだろう。
あたりが静まり返る。鳥の声も、風の音もしない。ただ、ゲートが開く数秒を待つ。
ゲートが開く音。実況の声。歓声と、一部からのどよめき。
そして、目を見開いたトレーナーの視界の端でほくそ笑む、一人の男性トレーナー。
全員の視線が、一人へ。
『内側1番、ゲートが開くとともに飛び出し、大きく逃げの体勢だ!!』
ーーーーー
「お前が入るのは1番内、初動で前を取られれば間違いなく沈む。だから、真っ先に逃げろ」
そうトレーナーに言われたとき、あたしは自分の耳を疑った。
この男性トレーナーは、少しばかり名の知れた人だ。数々の優秀なウマ娘達を育て上げてきた、ベテラントレーナーとも言える人。トレーニングの内容や休息のタイミングは的確だし、人柄も良い。時に優しく、時に厳しく、私のことを想像もできないほど成長させてくれた。だから、初めてトレーナーを疑った。
私に逃げの適正は
「いや、それはわかっている。でもな、実力のほとんど拮抗したメイクデビュー戦では、いかにバ群に埋まらないようにするか、ということになってくる。出バ表を見るに、このレースは中央から前に出るのは難しい。なら、とっとと先に走って行ってそのままリードを保ち続け、ゴールするのがいいだろう」
言われた通り、ゲートが開いた瞬間、先頭に飛び出していった。後続を無理矢理突き放し、リードを最初に取る。慌てて2人ほど追い縋ってくるが、スタミナを無駄にした彼女らは最後までもたないだろう。もう気にしなくていい。あたしはただ、私のペースで。
1コーナーを過ぎ2コーナーへ。先行も差しも多いレースだ、バ群は縦にも横にも広い。一番手の私から二番手まで3、4バ身。このリードを保ち続け、スパートで追いつかせない。
……正直、ペース配分はこれでいいのかわからない。まだ今のペースを維持して走れるだけの体力はあるが、終盤には尽きているかもしれない。だが、トレーナーが大丈夫だと判断したのだ。そして、トレーナーはあたしの才を認めてスカウトしてくれたハズなのだ。
自信はそのまま、走る活力に変換された。重くなりかけていた足が、ほんの少し軽くなる。自らの息遣い、心拍、足音。それだけで自らが満ちていく。
ふと、違和感を覚えた。あたしだけが走っているはずなのに、何か、不自然だ。
何故か、置いてきたはずの背後が気にかかる。何か、意識に引っかかる。それにより多く意識を割いてから、初めてそれが足音であることに気がついた。いや、おかしい。自分の足音と息遣い、心拍音に掻き消されて然るべき足音が、何故こんなにも気にかかるのか。
首を少しだけ内に傾け、眼球をさらに後ろに向け、見る。自分の2バ身ほど後ろに1人、それに続いて2人。さらに後ろに大きめのバ群。それぞれがバラバラの足音、息遣い。しかしそれらは、注意せねば聞こえない。
さらに後ろ……?ありえない。そんな位置の足音など、間に挟まったバ群からの音で完全にかき消されるはずだ。
だがそれが、確かに聞こえている。
足音はどんどん、あたしの意識の集中を奪う。しかし、その実体を捉えることができない。より大きく振り返れば、全員が、自分の背後を見ていることに気づいた。そして、誰かが私を見ている……。
真っ黒な相貌と、目が合った。
真っ黒な影のようなソイツ。
ソイツは、ケタケタと笑っていた。
「ヒッ……!!!」
思わず悲鳴をあげる。息が乱れる。心拍がズレる。足がもつれる。原始的恐怖が、辛うじて残っていた理性を上書きする。
逃げろ!追いつかれるな!反応が金切声をあげ、喚き、足を、身体を、無茶苦茶に操作し始める。恐怖に駆られた足は、水の中にでもいるかのようにうまく動かない。
10バ身。9バ身。8バ身。
最終コーナーをよろめきながら曲がる。
7バ身。6バ身。5バ身。
直線が異様に長い。400メートルも無いはずなのに。
4バ身。3バ身。
もはや悲鳴にもならないような声をあげながら、背後に迫る足音から全力で逃げる。
2バ身。
すぐ後ろ。奴がいる。意識が、本能が、奴に向けさせられる。
1バ身。
もう力が入らない。足が回らない。汗と涙で、前が見えない。
———。
急に、さっきまでの気配が消えた。ヘロヘロになった足を緩め、恐る恐る背後の様子をうかがう。
まず目に入ったのは、ゲート板。HANSHINと赤く書かれたそれが私に、たった今レースが終わったことを教えてくれる。着順掲示板の1番上には、私の名前。そして、2着までとの差は1/2バ身。なんとか逃げ切った、といったところだ。
2着から3着の差は3バ身。やはり、彼女らも私と同じ影響を受けていたのだろうか?掲示板に表示されている2着の名前を確認し、その名の書かれたゼッケンをつけたウマ娘を探す。
いた。8番の、クロクロ。どこかで聞いたような、と思い返せば、何ヶ月か前にカフェテリアでの奇行で一時期噂になっていた娘だ。影が薄くどこか不気味な、長身痩躯のウマ娘。
その後ろ姿をじっと見ていると、クヘ、とか、キヒ、とか言うような気持ちの悪い吐息をして、ターフから退場していった。
しばらく放心したまま肩で息をしてから、自分がウィニングライブを、それもセンターで踊ることを思い出した。正直、心身ともに疲れ切っている。あんなレースは、あんな恐怖を感じたのは、初めてだったのだ。ライブでは、上手く笑えるだろうか。
いや、それでも勝利したのは私だ。胸を張っていいはずだ。あたしはあいつよりも強いのだから。あいつはあたしより劣っていたのだから。何も恐れることはない。
あたしは、1番最後にターフを後にした。
手の震えが止まないままに。
ーーーーー
新人らしい、どこかぎこちない歌と踊りのウィニングライブ。それでも彼女らについた新しいファンたちは魅了され、歓声をあげる。トレーナーは少しだけ離れたところからクロクロの初ライブを見守っていた。
手足の長いクロクロのダンスは動きが綺麗に見えるし、きちんと歌声も出せている。表情は固いが、そこはご愛嬌。キャラ付けも大事だ。二番手でのパフォーマンスを立派にこなすクロクロに安心しているトレーナーのもとに、1人の男性が近づき、声をかけてきた。
「君があの、クロクロって娘のトレーナーで間違いないかな?」
不審に思い、彼のネームプレートを見れば、学園内でも時折その名を聞く、有名なベテラントレーナーであることがわかった。そういえば、1着を取った娘のトレーナーは、この人だったか。一瞬戸惑う。何故新人の私に話しかけて来たのだろう。すぐに思い当たる。
「は、はい、そうですけど」
慌てて返答する。ベテランのトレーナー、しかも1着だったウマ娘のトレーナーが声をかけてくる理由など一つしかないだろう。
「あの娘は、レース中に何をした?」
威圧的な問いかけ。
「ウマ娘がレース後にあんなに怯えているのは初めて見た。しかもこれは圧倒的強者のいるようなレースでもないし、まして負けたわけではない。あのクロクロという娘は、レース中に何をした?」
自分より身体の大きな男性からの問いに怯みそうになる。しかし、ここで臆してはいけない。
「クロクロのトレーナーとして、彼女が何をしたのかを、詳しく教えるわけにはいきません」
へえ、とどこか見下した態度で相槌を打つベテラントレーナーを見上げる。鉤鼻の上、鈍く光る茶色く落ち窪んだ瞳を、鋭く睨みつけ、でも、と続けた。
「クロクロは、レースを楽しんでいた。競い走るのを心の底から楽しんでいた。それだけなんです」
「それが、あんな結果を招き寄せた、と」
ベテラントレーナーが、短い髭が点々と生えた顎を右手でさすりながら、言った。
「随分と身勝手なんだな」
硬い物で殴られたような衝撃を受け、トレーナーは息を詰まらせる。ベテラントレーナーは踵を返し立ち去ろうとして、少しだけ振り返った。
「時間を取らせてしまい申し訳ない。今後の君達の健闘を祈るよ」
心のこもっていない、心にもないであろう定型文を言い捨てて、男性トレーナーは立ち去っていく。
「……こちらこそ」
トレーナーは奥歯を噛み締め、絞り出すように答えた。彼に届いたかはわからない。
会場が一段と盛り上がる。音楽が止んでいる。ライブが終わったのだろう。退場を始めた人混みの中で、トレーナーはそこに立ち尽くしていた。
ーーーーー
「お疲れ様、クロクロ。惜しかったけど、良いレースだったね。ライブもばっちりだったし、よくがんばったね」
労いの言葉をかけるトレーナーに、クロクロが不安げに聞く。
「……アの男の人ハ、誰ですカ」
見られていたのか。クロクロに心配させまいと、トレーナーは咄嗟に嘘をつく。
「1着だった娘のトレーナーさんだよ。クロクロの走りが見事だった、もう少しで負けていたかもしれない、ってさ」
しかしそれは、すぐに見抜かれてしまう。
「デも、トレーナーさンはあマリ嬉シそうじャありマせンでしタ。むしロ、苦シそうナ顔デ……」
どうやらライブ中ながらこちらを見ていたらしい。表情まで見られていた。誤魔化してもしょうがない。事の顛末を素直に、最後に言われたことだけは隠してクロクロに伝えた。
「……嫌ナ人ですね、ソのヒト。先輩ナのニ……」
クロクロは不快そうに尻尾を揺らす。
珍しくあからさまに嫌悪感を露わにするクロクロをトレーナーが宥めるが、どうも気がおさまらないらしい。
「いや、いいんだよ。クロクロが心配することはないよ。そういうのを担当ウマ娘に伝えないようにするのがトレーナーの役目なんだよ、ごめんね」
トレーナーなりの、余計な心配をされないための配慮。
「さ、帰ろっか。途中で寄り道して美味しいものでも食べよう。はじめての公式戦の記念に、ね?」
努めて明るい口調でトレーナーが誘う。その表情はいつも通りの笑顔。
しかし、この小さな女性が、ひどく無理をしながらも、気丈に振る舞っているような気がしてならなかった。
だが想定外はどこにでもある。