黒々と白   作:げに味わい深きレモン

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 まだ次がある。


04__未勝利戦

 メイクデビュー戦で1着を取れなかったウマ娘は、未勝利戦で一勝するまでプレオープンの舞台にすら立つことを許されない。クロクロはその大事な戦いで、惜しくも2着だった。展開を作っていたのは間違いなくクロクロであったが、最終的に作戦勝ちしたのは相手だ。

 

 猶予としてか、未勝利戦の開催期間は一年ほどある。しかし、そんなに待ってはいられない。1番近い、九月前半の中距離レースでのデビューを目指す。だから、それに向けてのトレーニングを今すぐにでも……。

 

 と、トレーナーは考えていたが、メイクデビュー前のトレーニングと、メイクデビューそのものの疲労の残ったクロクロの体力はもう限界だ。半月ほど休息させた方がいいだろう。今、無理にやらせて、怪我をさせるのは本当に不味い。そもそも低気圧が接近してきているから、外でのトレーニングはできず、屋内も非常に混雑する。満足なトレーニングは望めない。

 

 諸々の事情をクロクロに伝えると、嬉しそうに耳を立てた。休みが貰えて喜んでいる、だけではなさそうだ。何か楽しみなことでもあったのだろうか?

 

ーーーーー

 しとしと、と、窓の外から雨音が聞こえる。陽の光は雨雲に遮られ、拡散した光は建物の外壁を同じ色に照らし出す。影はない。

 ベッドから起き上がったクロクロは、湿った空気を胸いっぱいに吸い込むと、逆さまに吊るしたてるてる坊主を優しく撫でた。彼のおかげか、外は良いお出かけ日和のようだ。

 

 制服(ふだんぎ)に着替えると、玄関のカート掛けに吊るされた透明ビニールのポンチョを身に纏った。長靴を履き玄関の扉を開ければ、濃厚な雨の匂いが鼻腔を満たす。雨に濡れ滑る階段を慎重に、かつ大急ぎで駆け下り、水溜りだらけのアスファルトを踏みしめる。ポンチョのフードを被り、一体化した耳おおいに耳を通せば、雨粒がポンチョで弾ける音がより一層大きくなった。

 

 そのリズムのあるような、ないような音楽に合わせてステップを踏み、人通りの少ない道をゆっくりと進む。鼻歌が雨音とともに、時に和音を、時に不協和音を奏でていく。電線から規則的に滴る水滴は、重なり合い複雑なポリリズムを刻む。観客のいない、クロクロだけのワンマンライブ。聴衆も観客もいないまま、雨と共に歌い踊る。

 クロクロは笑っていた。いつもの仮面とは違う、年頃に見合った、柔らかな笑み。レースの時とはまた違う、穏やかな楽しみ。

 

 いつの間にか川辺の公園へ行き着いた。踊るのを止め、芝生に腰を下ろす。ポンチョ越しの湿った感触が伝わってくる。入りきらない脚が雨に直に打たれるが、ステップで温まった筋肉には冷たく心地よい。

 

 

 クロクロは目を瞑った。今度は黙って、ただ耳を澄ます。静かに、雨音のソロパートを楽しむ。ここにあるのは雨の降る街一つ。水音以外、何一つ無い。

 

 

 やがてクロクロは立ち上がった。雨はまだ降っているが、そろそろ止んでしまいそうだ。雲が忌々しい陽光に切り取られ始める。雨雲を串刺しにした日差しが、対岸のビルを照らし、そのガラスに反射した太陽がクロクロを捉えた。

 咎めるような光を睨み返すと、クロクロはもと来た道を歩き出した。ここにもじきに直射日光がやってくるだろう。

 

 脱いだ長靴をひっくり返し、入り込んだ雨水を流し出すと、陽光に追いつかれる前に駆け出す。濡れた路面はよく滑るが、ウマ娘用の長靴であれば走っても問題はない。来る時よりも足速に、楽しみも何もなくただ疾走する。濡れたポンチョの水滴は風圧で置いてけぼりにされていき、日光なぞいらないとばかりにひとりでに乾いていった。

 

ーーーーー

 

 メイクデビューから丸二ヶ月。いよいよ、リベンジの未勝利戦。今回のレース場はメイクデビューとは違う中山レース場。連日の雨でバ場は重く、さらに一時間ほど前からぱらつき始めた雨はいよいよ本降りになりかけている。クロクロはウキウキした様子で、いつもの体操服の上からお気に入りのポンチョを被っていた。もちろん服装規定は通して、当日の勝負服として登録されている。

 

 

「大丈夫?動きづらくない?」

 

 

 膝まであるポンチョの裾と、袖の無いその構造は走る時見た目には邪魔そうだが、そうでもないらしい。クロクロは首を横に振った。

 

 

「カなリ着慣れテいまスし、やわラかイ素材なノデ」

 

 

 くるり、と爪先を軸に一回転してみせる。ふわりと優雅に裾が舞い、まるでドレスのようだ。

 透明なビニールの向こうに書かれた番号は9番。枠は8番、1番外。発表されたバ場は重。条件は最高と言っていいだろう。

 

 

「いイ天気デスね、トレーナーさン」

 

 

 地下バ道の出口から外を見たクロクロが呟いた。そうだね、とトレーナーが同意する。

 

 

「いってらっしゃい、クロクロ」

 

 

「いっテきマス、トレーナーさン」

 

 

 雨天でのレースをさっさと終わらせるためか、レースを始めるまでの諸々は手早く進んだ。そもそもが未勝利戦、しかも雨で観客も少ない。盛大にやる意味もないのだ。

 

 パドックのウマ娘たちは、羨ましそうな目でクロクロを見ていた。この雨の中で、雨具の類を身につけているのはクロクロのみ。普通の、雨の苦手なウマ娘からすれば羨ましいのか。耳が動かしづらく音も聞こえにくくなる、なんて欠点は彼女たちにはわからないことなのだろう。それとも、そこを差し引いても雨に濡れるのが嫌だったか。

 

 まあ、何でもいい。雨はクロクロ一人だけを味方している。

 ゲート前で改めてターフを踏み締めてみる。あの公園の芝生とは比べ物にならないほど足が重く深く沈み、雨に濡れたアスファルト並みにずるずると滑る。だが、これでいい。これがいい。

 

 ゲートに収まる。雨音。風音。観客の声は掻き消え、鋭敏なウマ娘の耳にも届かない。それとも、最初から無かったのか。

 

 ゲートが開いた。直線をまず駆けて行く(逃げ)のは2番と8番。その後ろから(先行)4番、5番、7番、さらに続いて(差し)1、3番。クロクロはそのまた後ろだ。外枠からのスタート、クロクロはゆったりと1コーナーに向かう。

 バ群の動きはかなり遅い。重バ場での体力消耗を防ぐためか、怪我を避けるためか。クロクロのすぐ目の前、1/2バ身先に3番の娘の背がある。水溜りの位置やスタミナによっては、スパートを始める前に追い抜いてしまいそうだ。

 

 2コーナー過ぎ、向こう正面。バ群がだんだん詰まり始め、前のウマ娘の動きから水溜りを回避する動きが続く。クロクロだけはその動きに合わせず、自ら水溜りに踏み入り、減速無しで踏み越える。

 

 3コーナー。前方からの辛そうな息遣いが感じられる。雨の湿度と高い体温がその呼気を白く可視化する。余裕が無くなっていくのが、手に取るようにわかる。そろそろ、仕掛け時。

 

 3コーナー過ぎ、すぐに最終曲線。ここから、全員抜く。

 

 抑えていた足を解き放つ。加速を始める感覚が心地よい。

 

 だからやはり、ワラってしまうのだ。

 

 ケタケタ、ケタケタ、ケタケタ。

 

 迫ってくる背を回避する。足捌きは、雨が教えてくれる。もう一回、もう一回。繰り返して、あっという間に三番手。やはり遠いと効果が薄いのか、前の二人はまだがんばっている。4コーナー後、最後の直線で加速してくることもありえる。まだ1バ身差。

 

 4コーナー入り先頭、逃げの2人は横並びだ。間も内も抜ける隙間は無く、コーナー終わり直前で外から抜けるのも危険。外側、8番がちらちらとクロクロを見ている。わかってやっているのか。で、あれば、今は無理。まだ、待つ。

 

 4コーナーを過ぎ、直線へ入る直前。中山の直線は短く、コーナーが終わる前に残り400mを切る。それに焦ってのことか、カーブに負けたか。あるいは、雨の所為か。内にいた2番が踏み込んだ足を滑らせ、大きく外に膨らんでいく。隣にいた8番はそのまま巻き込まれ、さらに外へ追い出される。内側に、大きな隙。

 

 クロクロは迷わずそこに飛び込んだ。限界まで内側をつく。内ラチが身体を掠める。雨に濡れた芝に蹄鉄を滑らせそうになるが、深く沈ませ踏み留まる。

 隣に並んだ2番が歯を食いしばり、クロクロを睨みつける。鏡のように白い瞳と、暗闇のように黒い瞳。一瞬の交錯。吸い込まれそうな、鮮やかに輝く白。呑み込まれそうな、鈍やかに蠢く黒。

 時間が引き延ばされるような感覚。見つめあっていたのは、数秒か。それとも、1秒にも満たない時間か。

 

 同時に、一歩踏み込んだ。

 

 ぐん、と加速した身体に圧がかかる。足の回転が高まっていく。芝を蹴る力が強くなっていく。

 

 完全にスタミナを切らし後方へ流れていく8番は、二人の意識には入らない。

 

 肺が痛む。笑うことができない。息が苦しい。しかし、これまでにないほど、楽しい。

 

 並んでいた二人の距離が、だんだんと離れていく。2番の体力は、もう限界だったのだ。ふらふらと揺れる彼女を尻目に、クロクロはさらに加速を続ける。

 

 

「…ソ、クソ、クソ!!」

 

 

 ずるずると離れたその差は、1バ身。50mを切ってのこの差。この速度差。もう追いつけない。その背を、眺めるしかない。

 

 ゴール板は無常にも、視界の端へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 走り抜けたその先。レース結果の点る掲示板を見もせずに、白い目のウマ娘はクロクロに近づいていく。

 足音に振り向いたクロクロの、そのポンチョの喉元を両手で掴み上げ、雨に濡れたその瞳で、クロクロを見上げた。

 

 

「……………」

 

 

 ギリギリ、と音を立て、ポンチョの首元が軋み、伸びる。無言で見つめるクロクロの顔には、いつもの笑顔(仮面)が無い。剥がれ落ちたその裏の無表情。しかしそれは、強い好奇でもって眼前のウマ娘を見つめ返している。

 

 先程と違い、時間の流れは正常だ。しばらく見つめあった後、白い目のウマ娘は一つ舌打ちをしてその手を離した。やや灰みがかった短い芦毛をかき上げ雨水を払うと、クロクロへ向け名乗りを上げた。

 

 

「オレの名はアルブムニヴイス!」

 

 

 その右手で真っ直ぐにクロクロを指差す。

 

 

「次こそは、オマエに追い付かせない!」

 

 

 クロクロは目を見開いた。こんなのがいるのか、レースの世界には。

 

 面白い。

 

 クロクロはもう一度わらって、名乗り返す。

 

 

「ワタシはクロクロ」

 

 

 その両手をアルブムニヴイスに差し出す。

 

 

「次も、アナタとの楽しいレースを期待する」

 

 

 雨脚がさらに強くなる。ざあざあと鳴るその音は、彼女達に向けられた割れんばかりの歓声のようであった。




 その次のことは知らないが。
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