05__ココア一缶
一勝、そしてライバルと800人ほどのファンの獲得に成功したクロクロ。いよいよURAの本戦に出走できるようになったが、しばらくはむやみやたらに出るわけにはいかない。理由は、ファイナルズの出走規定に起因する。
全てのウマ娘に合ったレース場を用意する、という触れ込みながら、その振り分けは主催側だけで行われ、出走するウマ娘の適正や意思は挟まれないのだ。振り分けは出走したレースの傾向、成績により決まると言われているが、よくわかっていないところもある。
クロクロの得意とする長距離レースはそもそもの開催数が少なく出走できる回数は限られている。出られるからと中距離レースに何度も出走していると、中距離レースに放り込まれてしまいかねない。ただでさえ実力者揃いのURAファイナルズ、こちらのなるべく得意な、有利な舞台で戦いたい。
ただし、ある程度は中距離レースに出走せねば、今度はファンが足りなくなる。長距離の重賞はファン投票によって出走できるかどうかが決まるものもあるため、一定数は必要なのだ。先述のとおり長距離レースはGII以下も少ないため、中距離のレースでのファン数稼ぎが重要になってくる。
そもそもからして長距離レースはクラシック級の後半まで一つもない。とりあえずの目標は、年度内、ジュニア級の中距離レースに三戦ほど出走。うち一つはGIII、京都ジュニアSに出走し入着することとした。
紫菊賞は残念な結果に終わった。だからこそここで勝利し、足場を固める。そのつもりだった。しかし、そう思い通りにはならなかった。勝利の女神は、クロクロには優しくなかった。
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ドッ、ドッ、ドッ。芝を蹴る音。ドク、ドク、ドク。強く激しい自分の鼓動。ゼェ、ゼェ、と切れるのは自分の息。まだ半分なのに痛む肺。
バ場が軽い。軽すぎる。踏み込む足が、沈まず弾かれる。スピードを維持するのが辛い。乾いた芝はクロクロの体力を、一歩ごとに容赦なく奪い取っていく。
位置が悪い。内枠から出たクロクロの
こんな、こんなものがあっていいものか。こんなにも、ただ苦痛なだけのレースがあっていいものか。こんなものでは笑えない。
面黒い。
3コーナー抜け、最終コーナー。クロクロは笑わない。歯を強く食いしばる。ためられなかった脚を速める。
間に合うはずもなく。奇跡も起きず。
また、負ける。
最後にゴールラインを踏んだクロクロは、数メートルほどヨロヨロと走ると、そのまま頭からターフに倒れ伏してしまった。
頭が重い。目の前で銀色の羽虫が舞っている。どよどよと、ヒトの声が煩わしい。頭の中で高い音が絶えず鳴っている。
「……ロクロ!クロクロ!!」
誰かが駆け寄ってきて、ワタシの身体を揺すっている。やめてほしい。もう、眠いんだ。
暗転する。
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クロクロは、川辺の公園の木製のベンチに腰掛け、うっすらと雲のかかった空を見上げていた。12月初めともなればそろそろ風が冷たいが、しかしそんなことは意識に登らない。ただ、途切れ途切れの灰色を仰いでいた。
紫菊賞、10着。京都ジュニアS、18着。内枠だったとか、クロクロには走りにくい条件だったとか、言い訳はできる。しかし、負けは負け。そういう環境でも走れなければ、トゥインクル・シリーズを走り切ることすらできなくなるかもしれない。
走ることができなくなる。
胸に鈍い痛みが走る。せっかく、やっとデビューしたのに。心臓がドクドクと、強く鳴る。レース中の弾むような鼓動と違う、鈍く重い、痛みを伴う鼓動。
走れなくなったらどうなる?
ワタシのアイデンティティ、それはウマ娘であることだ。そしてそのウマ娘のアイデンティティは、走ること。そして勝つこと。そのどちらもできなくなる。
掛かった時のように息が乱れる。
ぐるぐると、頭の中でその“結末”が巡る。
目の前が真っ白に眩む。
耳鳴り。
苦しい。
「オイ、どうしたこんなところで」
誰かが、クロクロに声をかけた。聞き覚えのある声。クロクロが、いつのまにか伏せていた顔を上げる。目の前に立っているのは、芦毛のウマ娘。
「……アルブムニヴイス?」
学園指定の赤いジャージ姿のニヴイスは、クロクロの隣にどっかりと座った。
「確認するまでもなく、オレはアルブムニヴイスだが?」
「ナんで、ココにいル?」
ニヴイスは鼻を鳴らした。
「走り込みして、休憩しようとして、飲みモン買って、どっか座ろうとしたらお前がいた。ホラこれやるよ」
適当に説明をすると、ニヴイスは温かいココアの缶をクロクロに押し付けた。自分はスポーツドリンクのボトルの蓋を開け、喉を鳴らして一気に半分ほど飲み干す。不思議そうに手元のココアを見つめるクロクロに、また粗雑に説明し始めた。
「コレ買った時に不具合かなんかで一緒に出てきた。いらねえから、お前にやる。貰っとけ」
クロクロはちらりとニヴイスの顔を伺ってから、おずおずとプルタブに指をかけた。程よくさめて、ぬるくなったココアの缶。飲み口に唇をつける。ちょうど飲みやすい温度のココアが、甘さと香りを伴い口の中に広がる。ゆっくりと飲み込むと、頭の中のぐるぐるが少しだけ解けた気がした。ほう、とため息を一つ。
「……アルブムニヴイスの戦績、聞いタ。大活躍シてル」
ニヴイスはクロクロに負けた後、すぐにマイルの未勝利戦に出走し5バ身差で圧勝すると、さらにプレオープン、オープンと連勝し、GIIIのアルテミスS、GIIのデイリー杯ジュニアSまでも勝利していた。いずれもマイルのレース。
解き放たれたニヴイスは加速して、停滞したままのクロクロを置き去りにしていくかのようだ。
「ああ、次は朝日杯だな。今度も逃げ切って勝ってやる」
ああ、追い抜いたはずの背中が遠く思える。彼女はそもそも、ワタシと並ぶべきでなかったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。飲みかけのココアの口に目を落とす。10センチもないその底は、光を入れず真っ暗い。
「なあ、クロクロ」
ニヴイスはペットボトルを傍に置き、改まってクロクロに聞く。
「今のところ、この世代でオレを倒したウマ娘が一人しかいないのって、知ってるか?」
クロクロは驚き、ニヴイスの顔を見た。その横顔は、どこか遠くを見つめている。いや、おかしい。話が合わない。
「メイクデビューは?」
すぐさま疑問を口にする。ニヴイスは自嘲するように笑った。
「あの時は不戦敗だ。直前に無茶してケガして、8月の中頃まで療養してた」
ぐりぐり、とケガの治った左足首を回してみせる。もう問題は無い。
「そのとき、というか、お前と戦った未勝利戦まで、オレは中距離路線だったんだ」
不意にニヴイスは自らの両肩を抱き、ぶるりと身震いした。北風のせいではない。
「あの時、悔しかった。お前の首根っこ捕まえるぐらいには、な。でもそれ以上に、怖かったんだ。今度は負けないと言っておきながら、オレはお前ともう一度戦う覚悟がつかなかった」
ペットボトルを取り上げ、もう一度口をつけた。乾いた唇を、喉を潤すために。
ふう、と吐き出した白い息は、風に流されとけていく。
「でも、な。あの時オレは多分、どうしようもなく楽しかったんだ。直線での競り合い。スタミナ切れで届かない背中。そう、届かない相手がいる」
実力では勝っていたはずだ。いや、勝っていた。しかし、運が、彼女の力が、その理不尽が、アルブムニヴイスの輝かしいレース人生の、その1番最初にキズをつけた。
「クロクロ。オレはもう一度、全力のお前と戦いたい。お前に立ち向かいたい。だから、オレと戦えるところまで上がってこい。リベンジさせろ。勝ち逃げなんてさせねえ」
一息に言い切ると、ニヴイスは空になったボトルを握りつぶし、立ち上がった。
「言いたいことは言った。オレはもう少し走ってくる。じゃあな」
ニヴイスは背を向け走り去っていった。その背中にクロクロは小さく手を振ると、彼女がくれたココアの缶を傾けた。最後の一滴まで大切に飲み切ると、空になった小さなスチール缶を手にベンチから立ち上がる。
そして、見えないほどに遠い、しかし追い抜くべきその影を見据えた。
「アりガトウ」
小さな声。微風が吹いていた。
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倒れたクロクロ。その原因は、脚の鬱血にあった。ウマ娘はヒトよりも多くの血液流を必要とする。そのため、脚部のポンプ機能が発達している。あの京都ジュニアSの時、良バ場を普段と違うペースで走っていたクロクロは、そのポンプ機能に異常をきたしたと考えられる。
循環系がうまく働かず、貧血に。もちろんレース中にはとてつもない苦しみを味わうし、レース後の少しだけ心拍数が下がったタイミングでは全身の血圧がバラバラになり、結果頭から血が引いていってしまったのだろう。レース後に倒れたのはそれが原因のはずだ。
「鬱血の対策、か……」
深夜、トレセン学園。消灯時間はとうに過ぎているというのに、トレーナー寮の一室だけがカーテンの隙間から光を漏らしている。眠気を覚ますためか、冷たい外の空気を取り入れるために空いた窓からまろび出たカーテンの、その奥には、机に向かう人影。クロクロのトレーナーだ。
クロクロが倒れた原因は大方わかった。しかし、この問題はどう解決すべきであろうか。
まず挙げられるのは、心肺機能の強化。心臓、および脚のポンプ機能を強化し、肺活量を強化し酸素吸入量を増やす。最もらしい解決策だが、これには時間がかかる。
集中的にトレーニングしたとして、ざっと5ヶ月ほどか。その間レースに出ない、という選択をする必要が生じる。しかし、これまでのレースの成績が良くないクロクロにとって、このジュニア級での残りの5ヶ月は足場固めの最後のチャンスだ。
今からのファン、いわゆる古参のファンを多く獲得すること。それは、後のレースへの出走のための足掛かりになる。それを捨てるのか。
雨の日、重バ場ならば、問題は無い。クロクロはそういう時はとても調子良く走ることができる。だがいつもそうとは限らないのは先の二戦でわかっていることだ。不確定要素にたよるべきではない。
であれば、血液量を増やすか。これは、肺活量以外の方向で酸素吸入量を増やすアプローチだ。だがここでも、問題が生じる。
血液を増やすために必要な鉄分や血を作るためのエネルギーは、食事から摂る必要がある。しかし、クロクロは非常に少食なのだ。身体が欲するエネルギー量に対して、クロクロは最低限のエネルギーしか摂取できていない。
メイクデビュー前に気づき放置してきた問題が、今になって牙を剥く。明らかなミスに、自分が嫌になってくる。
何か、何か他に無いか。資料をめくってみても、その答えになり得るものはなかった。
何か、今すぐにできて効果的、さらにクロクロに負担のかからない鬱血対策。言葉にしてみれば、それは奇跡や魔法の類に思えた。
何か、何か。
いつの間にか空が白く、明るくなっている。冬の早朝の静かな寒さは、起き始めたヒトの音が、無遠慮な車が、そして一際大きな電車の音が蹴散らしていく。
ふと、通行人の一人に目がとまった。毎日早朝からこの辺りをジョギングしている老人だ。この寒い中で、薄着でゆっくりと走っている。ウマ娘の速度を見慣れていればそれは非常にのろく見えるが、なぜ目についたのだろうか。
じっと観察していると、不意に老人が立ち止まり、膝と脛を気にするように触り始めた。ああ、サポーターをつけているのか。ウマ娘の脚を治療するためにも同タイプの、マジックテープ式のものが使われることがある。ウマ娘のため、生体工学的に考え抜かれたそのサポーターは、少しだけ形を変えてあの老人を助けているのだ。
しかし、いやにきつく巻いているようだ。ぐいぐいと力を込めて巻いている。あれでは、血が止まってしまいそうだ。
その瞬間、トレーナーの脳裏には電撃が閃いた。
これだ。
だがそれは、どこからきたのだろう。