8月20日 金曜日 夏休み30日目。
「ただいまー」
恵が少し疲れた声でいった。
倫也が扉を開けて、恵を先に家の中にいれる。
恵は草履を脱いで家へあがり、洗面所で手を洗った。倫也は新しいタオルを恵に渡し、自分も手を洗う。
午後6時。まだ外は夕闇に沈まず明るい。
鈴虫の声がどこからともなく聞こえていた。
恵はソファーに腰を下ろす。
倫也はキッチンでグラスに麦茶をいれて、ソファーの前の小さなテーブルに置いた。
恵はお礼をいったがすぐには口をつけない。
倫也は流し台のプラスチックのタライを綺麗に洗い、そこに水を張り、少量の塩素中和剤をいれる。温度計で温度を確認する。
恵が手にもっていたビニール袋を受け取ると、紐を蛇口にかけて水が混じらないようにビニール袋の底を水につけた。
恵は先週と同じ紺色の浴衣を着ている。髪型も自分でセットして整髪料では固めずピンとヘアゴムで結っているだけだ。
うちわで軽く仰いで、エアコンがきくのを待っている。
倫也がはす向かいに座る。
「浴衣。とても似合っていて可愛い」
「うん。ありがと。それ、今日何回も聞いた」
恵は静かに答える。もちろん何度言われても嬉しいものだ。
結局、新しい浴衣は買っていない。あれはあのシナリオのための会話だ。そんなに無駄使いができない。それに、この浴衣をとても気に入っている。
「でもさ、また家からシナリオは始まるんだね」
「ほっとするだろ?」
「まぁ・・・そうなんだけど」
※※※
倫也と恵は早い時間に納涼末に行き、そこで屋台を巡った。わたがしを買って一緒に食べたり、型抜きをして恵が賞金を稼いだり、射的でつまらないおもちゃをとったりした。倫也はデジカメで撮影していく。これがあとでゲームの資料になる。
恵は出会った頃に比べて、表情がずっと豊かになった。嬉しそうに笑い、恥ずかしそうに照れ、そしてわざとらしく怒ってみせる。倫也はシャッターを切りながら、その都度ショートストーリーがあたまに浮かぶ。今回のゲームで使えなくても、いずれ使うかもしれない。
恵はスマホで写真をとる。倫也と2人でいる時間を記録していく。
2人で写真に写るときは、やはり緊張する。それでも向かいあって笑ったり、ちょっと拗ねてみたり、それからキスをしようとしてみたり・・・いろんなふたりを撮影した。
※※※
恵が麦茶を飲む。
「で、今回の話は?」
「金魚すくいだな」
「もう、掬ってきたよ?描写はされなかったけど」
「ああ、そうだな」
ここで、恵が一部シナリオをカットした。
「恵っ!?」
「しょうがないよ。そんな動物保護の暗い話はちょっと・・・別の機会にして欲しいかな」
「・・・わかった。そういうわけでだ。日本の縁日の文化である金魚すくいもいずれは無くなるだろうね」
「ふーん」
「あの金魚って、餌金なんだよ」
「餌金?」
「アロワナみたいな肉食魚の餌にするための金魚」
「なんか残酷だねぇ」
「生命は命をいただいて生きるからな」
「そうだけど」
「そういう100匹単位で購入するような安い金魚なんだけどさ」
「うん」
「こんな三日も縁日で追いかけまわされると、ストレスと疲労でまず生き残れない。昔は売れ残った金魚を下水に捨てていたんだよ」
「うわぁ・・・」
「それでもアクアリウムファンは金魚をメンテナンスして元気にして飼おうとする。これを『金魚救い』って言う」
「おあとがよろしいようで」
「まだ、おわらないから」
「あー、うん。なんか暗い話だね・・・」
夏祭りイベントってもう少し楽しいのを想像していた。まさか、こんな金魚の話だとは・・・
「だから、こういう初日の夜の前なら金魚が元気だし、救いやすい」
「元気だったから掬いにくかったけど・・・」
「5匹も掬えれば十分だろ」
「そうだね・・・それで?」
「ああやって、温度合わせをして、それから少しずつ水合わせもしていく。病気になったら治療薬も入れる」
「へぇ・・・」
「ところで、金魚飼いたい?」
「別に・・・ほら、金魚鉢で泳がせるのは可愛いなとは思うかな」
「あれはだめだ。水が少ない。エアレーションも空気いれるだけだろ」
「エアレーション?」
「ぶくぶくと空気いれるやつ」
「ああ、宝箱やカバの口が開くようなのもあるよね」
「あれはもっとだめだな」
「そうなんだ」
恵はため息をつく。
アクアリウムオタクの倫也くんはすごく面倒くさいと思った。
「それで、この話のオチは?」
「それがさ・・・」
「またないの?」
「さっきの金魚掬いと金魚救いをかけようかと・・・」
「あー、またそういう謎かけなんだね」
「一応、他のも考えたんだけどな・・・上手くまとまらなくなって・・・」
「どんな?」
倫也が考えのまとまっていない話をしはじめた。
「こう・・・俺が屋台の金魚掬いの水槽で泳いでいるわけ」
「倫也くんが?営業妨害?」
「ちがうから!えっと。金魚になって、泳いでいる」
「ふむ。なんかマンガにありそうな話だね」
「うん。で、恵が金魚掬いにきて、ポイで俺を追いかけまわす」
「その金魚を欲しくなるわけだね?」
「まぁ、そうだな」
「それで?」
「恵が『もう、なんで逃げるかなー』みたいなことをいう」
「もうぅー、なんで逃げるかなっ!」
恵が苛立ったふりをした。
「さらに『溺れちゃうよ?』みたいにいうのだけど」
「金魚が溺れるの?」
「そそ、そこが上手くつくれなくって・・・」
「まだ続くの?」
「うん。それで、俺が『恵になら溺れたい』・・・みたいなことを・・・」
「あーそう」
恵が上を向いて考える。さすがに白々しいセリフに顔を赤らめて照れることはできない。できそこないの話なのはわかる。
「うん、でもさ、そんな日もあるよね」
「そんな日?」
「上手くオチができない日。でも、だったら最初から縁日で遊んでいるようなシナリオで良かったんじゃないの?」
「そーだな・・・でも、俺さ・・・恵とこうやって物語の話をしているのが好きなんだよ」
「・・・うん」
倫也が物語を考えて、恵がそれをすこし修正する。それが楽しくて将来は結婚まですることになる。
※※※
恵が麦茶を飲み終わって、立ち上がった。ずれた浴衣を直す。
「じゃ、帰るね」
「帰るの?」
「うん。だって、今日は平日だし、浴衣姿は家に帰らないと・・・明日この浴衣をまた着て帰らないといけなくなるもん」
「ああ、そっか。先週も泊まらなかったもんな」
「うん」
「明日は・・・?」
「明日は、明日になってみないとわからないよ。また倫也くんに『面倒くさい女』とか言われるかもしれないし」
「根に持つね・・・」
「うん。一生忘れないから」
「そこは忘れようよ・・・」
恵が玄関に向かう。
「送っていくよ」
「いいよ、まだ明るいし」
「じゃあ、駅まで」
「・・・うん」
「ちょっとまってて、急いで着替えてくる」
倫也は部屋に駆け上がって、慣れない浴衣を脱いで、適当な服を着る。
それから急いで戻ってきた。
「なんていうか・・・そんなに急がれると、早く帰れって言われているようで・・・」
「深読みしすぎだよ!」
「ごめん」
恵がちょっと舌を出して謝る。それから微笑んだ。
※※※
外はずいぶんと暗くなってきていた。薄い雲が流れているのがみえる。
「倫也くん、夏休みもあと少しだよ」
「早いな」
「40話以上も短編作るの大変だと思ったけど・・・なんとかなりそう?」
「あと10話ぐらいだろ?恵がいればなんとか」
「だといいけど」
恵は手に持った辛子色の巾着袋を揺らしている。帯のところにうちわを挿していて、暑い時は使うが、日も暮れて今は過ごしやすかった。
「駅まで・・・手をつないでいいか?」
「うん。でも、そういうのは黙って手を添えて欲しいかな」
倫也が恵の右手をそっと握る。
恵が浴衣に草履なので2人はゆっくりと歩いている。
周りの人にはこれから夏祭りに向かう2人にみえるだろう。
「倫也くん、明日の予定は?」
「恵が泊まっていくなら、夜をゆっくり過ごしたいかな」
「そうだね・・・」
「うん?どうかした?」
「いや・・・自制心を総動員しないとね」
「だな!」
やがて駅に着く。駅前は賑やかだ。
街中華もある。
「何か食べてく?」
「ううん。縁日でいろいろ口にしたし・・・このまま帰るよ」
「わかった」
2人は手を離す。この瞬間が少し寂しい。
改札を抜けて、駅のホームに入っていく。
「少し座ってお話をしていいかな?」
「うん」
恵と倫也がベンチに並んで座った。
恵はうちわをもって、パタパタと扇ぐ、ときどき倫也の方にも扇ぐ。
「ねぇ、明日やってみたいイベントがあるんだけど・・・」
「恵から珍しいな」
「ほら、いちゃいちゃするイベントだし・・・たまにはね」
「どんなの?」
ホームにアナウンスが流れて、電車がやってくる。
「えっと・・・その前に、ネグリジェなんだけど・・・」
「うん?」
「英梨々のお古なんて嫌だ」
「あっ」
英梨々パートで英梨々が恵の買ってきたピンクのネグリジェを横取りしている。
「ふむ・・・買う?」
「うん」
「昼間買いにいく?」
「そう・・・しようかな」
「わかった」
「どうせ、家からシナリオはじまるものね?」
「もちろん」
ホームに電車が到着して、ぞろぞろと人が乗り降りしている。
恵は立ち上がらず、喧噪が過ぎ去るのを待っている。
やがて、電車の扉が閉まり、発車していった。
「これなんだけど・・・」
恵が隠していたメモ用紙を渡した。
倫也は受け取って、中を確認する。
「・・・これ・・・やるの?」
「どうかな?」
「高校生だよな・・・俺ら」
「高校生ならこれくらいしているよ」
「健全な高校生だよな・・・」
「・・・やりたくないならいいよ。捨ててくれる?」
「でもさ・・・これ・・・我慢できるの?」
「倫也くんが我慢できればできるよ」
「・・・賢者タイムでやるか・・・いててててっ」
恵が倫也つねった。
次回予告。
倫也「夏休みも残すところ1/4、長いようで早い夏が終わる」
恵「そして発展していく2人の仲は遂に禁断の領域へと踏み込む・・・の?倫也くん?」
倫也「次回!『抱かれたい恵』」
恵「もう、倫也くんのえっちぃ!」
倫也「・・・」
恵「・・・」
次の電車がくるまでまだしばらくの時間がまだ少しある。
(了)