8月24日 火曜日 夏休み34日目。
「実家に帰らせていただきます」
恵が玄関先で黒いキャリーバックを横に置いて倫也に言った。
白いキャミソールワンピースに麦わら帽子をかぶっている。夏らしい爽やかな恰好だ。
これから実家に帰るような暗さがまったくない。
「あの・・・恵。おはよう・・・?」
倫也はチャイムがなったので玄関まで迎えにいったら、キャリーバックをもった恵がいた。そして、突然の恵のボケに戸惑いを隠せない。
「おはよぉ・・・」
恵もちょっと恥ずかしい。
「どうしたの?」
「いや・・・なんか昨日は倫也くんが英梨々ルートの話をするっていうから、とりあえず来てみたのだけど、それなら実家に帰ろうかなって」
「えっと・・・英梨々の話はするなってこと?」
「当然だと思うのだけど・・・?」
「じゃあ、英梨々ルートの構想の話は?」
「実家に帰らせていただきます」
もちろん、そんな話は昨日の時点で恵がリテイクをだした。
恵が玄関の扉を開ける。
「わっわっ!ちょっとまって。わかった・・・しないから」
「ほんと?」
「ほんと」
「英梨々の名前はこれから先ださないでね?」
「そこまでっ!?」
「うん・・・嫌なら、帰るけど」
「・・・わかった」
「じゃあ、ただいまぁ」
恵が白い靴を脱いで上がった。キャリーバックを持ち上げている。
「持つよ」
「うん」
倫也がキャリーバックをもって運ぶ。
※※※
2階の箪笥の前で、恵は美智留の衣装をダンボールにつめている。
「あの・・・恵。さっきから気になっているんだけど、そのキャリーバックの中身はなに?」
「ん?服だよ」
「服・・・?」
「うん」
箪笥にスペースができたので、恵はキャリーバックを開けて服を箪笥に詰め替えていく。
「えっと・・・?」
「何か変かな?」
「なんで・・・そんなにたくさんの服を持ってきた?」
「だって、メインヒロインルート全然できてないんだよね?締め切り夏休みまでだったよね?」
「・・・そうだな」
「じゃ、泊まり込みで仕上げるしかないよね?」
ということで、残りを泊まり込むらしい。
※※※
時刻は午前11時。猛暑も収まり、天気は曇り。今日は風も吹いているせいか過ごしやすい。
恵は服を片付け終わると、キッチンでなにやら忙しく料理をしている。倫也は手伝わなくていいからと言われて、部屋で作業をしている。
英梨々ルート作成案が拒否された以上は、いちゃいちゃして過ごす夏休みの短編集として終わらせるつもりらしい。それはそれでいいだろう。
やはり、英梨々だけは恵にとって特別な相手のようだ。
倫也が鍵で引き出しを開ける。中に入っていた白い封筒は消え失せてなくなっていた。キーアイテムの喪失は分岐が消えたということなのだろう。
恵と創作して過ごすつもりだったが・・・こうなった以上は恵の短編に集中しようと思った。
※※※
「倫也くーん」
恵が階段の下から呼んでいる。倫也は立ち上がって階段の上から覗き込んで恵をみた。
「どうした?」
「でかけるよー」
「ほう・・・?」
「じゃあ、下で待っているから」
「どこいくの?」
「ん~図書館かな」
「ちょっと待ってて」
倫也は財布をズボンのポケットにいれて、小型のリュックをもって下へと降りていった。
※※※
倫也と恵が並んで電車に座っている。平日の昼なので電車はとても空いていた。
恵は嬉しそうにいつも以上にニコニコしながら、足をぶらぶらと振っている。手には四角い布の袋を大事そうに両手で抱えていた。
「それ・・・なに?」
「・・・秘密・・・だよっ」
最後にちょっと息を抜くような発音。耳が癒されるような透き通ったボイスだ。
電車が静かに揺れている。
恵は腕を倫也とぴったりとくっつけて寄りかかる。
キャミソールの胸の隙間から微かにブラの色が透けて見える。
「・・・もう。普通にしててくれないかな?」
「ごめん」
「そんなに気になる?」
「ごめん」
「別に謝らなくていいけど・・・」
恵は倫也の顔をじっと見つめる。倫也が顔を赤らめて目線をはずす。
「と・・・図書館デートとは、また古風だな」
「今も、昔も、王道だと思うし・・・それに受験生だからね?」
「・・・そうだな。ぜんぜん勉強してねぇや・・・」
「そんなんだから落ちるんだよ」
「確定しているんだよなぁ・・・」
「だって、わざわざ倫也くんが合格する分岐とか作らないでしょ」
「まぁなぁ・・・」
電車が駅に停まっても、乗客の乗り降りは少なかった。今日は暑さも一段落で暑そうに汗をかいている人はあまりみかけなかった。
※※※
駅を出てから、国道の横断歩道を渡る。
時刻は12時半になった。曇りなので日差しを気にする必要はなかった。
「雨・・・降るかな?」
「予報だと夕方から20%だから大丈夫じゃない?」
「そ・・・傘ないし。降らないといいね」
「そうだな」
2人の目の前に大きな池のある公園がみえる。
恵が池のふちの柵まで歩いていく。
「倫也くん・・・ここ・・・ボート乗れるみたい」
親子連れのスワンボートが一艘と、カップルの手漕ぎボートが一艘浮かんでいた。
もちろん、ここでボートを乗れることを恵は知っていた。この公園の横に図書館がある。
「図書館はあっちなんだけど」
「そうみたいだな」倫也はアプリで地図を確認している。
「・・・倫也くん?」
「どうした?」
「ここ。ボート乗れるみたいだよ?」
「だな」
「・・・」
「・・・乗る?」
「倫也くんは、どうしたい?」
「俺は・・・」
どっちでもいいなんて言えない。
恵はじっと倫也を見つめている。目で訴えている。もちろん恵からは誘わない。
せっかく獲得しためんどくさい属性も大事にしたい。
「乗るか」
「うん」
恵が静かにうなずいた。
「恵・・・わかっているよな?」
「何を?」
「ボートイベントするってことは・・・」
「ああ、比べられてしまうってこと・・・でしょ」
「だな・・・」
「そういうのはどうでもいいよ」
「ふむ。恵がそれでいいならいいけど・・・」
2人はボート乗り場へ向かう。他の人はいなかった。
自販機で手漕ぎボート1時間のチケットを買った。
1人だけいるスタッフのおじさんに倫也はチケットを渡す。
案内されたボートに倫也が先に乗った。それから、恵が抱えている手荷物を受け取ってからしゃがむ。恵がそっと右足をボートにおろし、差し出した倫也の手を握ってから乗り込んだ。
恵が座ると、おじさんが「ゆっくりでいいですよ」と声をかけてから、持っていた長い棒でボートを押し出した。
お客がいないので厳密に時間を気にしなくてもいいという意味だ。
「倫也くん、ボート漕げる?」
「たぶん。あまりうまくないけど」
倫也が両手でボートを池の中央までゆっくりと漕いでいく。
真夏でボートを乗る時は日射病対策が大事だ。今日は曇っているが、油断していると本当に危ない。周りが水なのでコンクリートの地面を歩いている時ほど暑くはないが、影まったくない。
恵が麦わら帽子をかぶっているのもそういう理由だった。日傘にしようかと思ったが手にもたないといけないのでやめた。
木々の緑がとても濃い。夏の水辺にはたくさんの生き物が元気に活動している。倫也たちの周りにはすでに懐いている水鳥が集まってきていた。カルガモ、マガモ、アヒルなどがついてくる。
「餌が目当てかな?」
「だろうな。でも、あげたらダメなんだけどな」
「そうらしいね・・・」
「ほどほどにな」
ポテトチップスみたいなものは鳥の健康にはよくない。水質汚染にもつながる。また鳥の生きていく能力を奪い、長い目でみてもよろしくないようだ。
ボートに揺られながら、風に吹かれて恵は気持ちよさそうに目を閉じている。オールの軋む音や水の揺れる音が聴こえる。
カモの変な鳴き声や、蝉の声も聴こえた。
「上手だね」
「そんなに難しくはないんだよ。あとで恵も漕いでみたら?」
「うん」
恵は足をぴったりとそろえて斜めにしている。
手を伸ばしてボートの真ん中に置いた布の袋に手をかけた。
「それは?」
「なんでしょう」
「まぁ・・・お弁当だろうな」
「・・・うん」
恵が布から、おかずのはいった小さなランチボックスを1つと、おにぎりを取り出した。そんなにたいしたものは作っていない。
弁当箱を留めているゴムバンドを外して、蓋をあけた。
卵焼きとタコウインナーとプチトマトが綺麗に並んでいる。
「いいな、定番だよな」
「うん♪」
恵が弾むように答えた。
「食べる?」
「うん」
ボートは池の中央まで進んでいた。
そこで倫也と恵は池の上の波間で揺蕩う。
「ワンパターンだけど・・・」
恵はウェットティッシュで丁寧に手をふいた。
恵は左手に弁当箱を持ち、右手の割りばしでタコウインナーをつまんだ。
それを落とさないように、倫也の口元にもっていく。
「はい・・・あーんして・・・」
恵の手が震えている。心の底から感情が湧き上がってくる。見開いた瞳が涙で潤いこぼれそうになった。
「あーん」
倫也は気が付かないふりをして、まぬけな顔をして口を開けた。
ボートは揺れている。
ウインナーは倫也の口に入る前に、恵の割りばしから零れ落ちた。
「よっ・・・と。危なかった」
倫也が右手でウインナーをキャッチした。準備していた。
すぐに口に放り込む。
「あ・・・ありがとう・・・」
「もぐもぐ・・・。お礼をいうのは俺の方だろ?・・・そういえば、いただきますもいってなかったな」
「・・・そうだね」
「お互いに緊張しすぎたな」
「・・・うん」
恵がハンカチで顔をちょっと抑える。
「大丈夫か?」
「うん」
倫也は間抜けな顔をして口をまた大きくあけた。
「あーん」
「・・・もう。次、卵焼きね。あと、いただきますを言わないと」
「そうだな。・・・いただきます」
恵は手で卵焼きを直接つまんだ。
「手は嫌かな?」
「ぜんぜん」
「はい・・・どうぞ」
恵が体を乗り出して、倫也の口へ卵焼きをいれた。
「おいひぃ・・・」倫也が食べながら感想を言う。
それは、とても甘い卵焼きだった。
恵がにっこりと微笑む。
風が吹いたので慌てて右手で麦わら帽子をおさえた。
なんでもない時間が過ぎいく。
(了)