7月24日 土曜日。夏休み3日目。
晴れ。街道では蝉が鳴き始めている。
恵はいつもよりも少し大きなバックに、小分けしたコスメ用品、受験用の参考書、プリントアウトした従姉妹ヒロインルートのテキスト、それから紙袋に隠した替えの下着が万が一泊まりになった時のために入っている。
もちろん、恵は泊まる気なんてこれっぽっちも、まったく、ぜんぜんないというテイなわけだけど、帰るつもりはそれ以上になかった。
なにしろ、泊まらないといけない理由はいくらでも見つかる。ゲームが完成していないのだからしょうがない。一方で帰る理由は見つからない。
倫也の家の最寄り駅についてから、スーパーマーケットでタイムセールの卵を買う。あとなくなりかけていた牛乳。それと果物を買う。今日は桃を一つ。肉や野菜などはまだ買わない。
午後になる頃に倫也の家に着いた。呼び鈴を鳴らす。少し待って誰も出てこないのを確認してから、合鍵で家に入る。まずは靴の状況をみて、誰が来ているか把握する。両親はいないし、美智留も出海も来ていない。したがって、倫也はほぼ部屋でまだ寝ているということになる。
買ってきたものを冷蔵庫にしまう。ついでにいくつかの野菜を出す。それらを適当に刻み鍋に放り込んで水で煮る。コンソメの素をいれ弱火にかける。10分ほどタイマーをかけて置く。IHなので時間がきたらとまる。
階段をとんとんと駆け上がって、倫也の部屋のドアを開ける前に一呼吸。顔をフラットにして、ドアを開ける。部屋が暑い。エアコンがついていなかった。ベッドの上を見ても倫也がいない。
「・・・あれ?」
恵は首をかしげる。倫也がでかける予定はないはずだ。バイトはもういれていない。ケータイをチェックするが特に連絡は来ていない。ブレッシングソフトの予定もないし、美智留や出海やましてや伊織からも連絡はない。
恵は窓を開けて空気を入れ替え、倫也の掛布団をもちあげて、ベランダまでもっていって干した。部屋は綺麗に片付いている。
キッチンに戻ってスープの味を確認し、塩こしょうで整える。
お風呂場とトイレも調べるが倫也はいない。倫也の部屋に戻って、暑いけれど掃除機をかける。掃除機をかけ終わったら窓をしめて、エアコンをつける。それからまたキッチンへと降りていく。
買ってきた桃の皮をむき、4等分にカットしてお皿に盛り付けてラップをして冷蔵庫にいれる。玄関にいって靴を履き、家の周りを点検する。倫也はどこにもいない。まるで迷子になった子供のような気分になる。
倫也の部屋に戻って、テーブルの上にシナリオを広げる。赤ペンでチェックしてある箇所を読み直していく。これは倫也に対して質問するところや自分の意見をすり合わせるところ。恵はそれらを読みながらケータイをチェックする。倫也から連絡はない。
ホウレンソウが大事だと言ったが、何も24時間拘束するわけにはいかない。今日来るだろうことはわかっているだろうし、時間を待ち合わせたわけではない。倫也が長く家をあけるなら連絡ぐらいはいれるはずだ。したがって、ちょっとコンビニかどこかへ行っているのだろうと推測する。
恵はうわの空でテキストを読み進めながらも、耳は澄ましている。窓の外から少し甲高い女性の声が聴こえた。立ち上がって窓から覗くと、倫也と美智留が笑いながら歩いている。美智留が人影に気が付いて、手を振る。倫也も見上げる。恵はすぐにキッチンへと降りていき、さきほど作ったスープに水を足して、コンソメの素を1個放り込み再び弱火にかける。
玄関の方でがさごそと音がする。やがて美智留が入ってくる。
「こんちわー。加藤ちゃん」
と笑顔でいう。美智留はだいたい明るい。
「うん。こんにちは」
恵は落ち着いて静かに答える。
「暑いよ、加藤ちゃん!」
美智留はリビングのエアコンのスイッチを押す。
倫也が買い物袋をもって戻ってくる。恵と目があう。
(おかえり、ともやくん)
と、声に出さず口だけ言う。
(ただいま、めぐみ)
と、倫也も答える。
美智留がリビングの方から、横目でその様子をみていて、つっこむか放っておくか悩む。
リビングのイスに座る。なんだか新婚家庭に遊びにきたような気分になる。
「トモ。あんたら付き合ってないよねぇ?」
美智留が一応確認する。コンセプトがいまいちわからない。日常系ってなんだ。
「ああ、なんのことだ、美智留?」
「いや、違うならいいんだけど・・・」
倫也が買ってきたものをテーブルの上に並べる。弁当だった。恵はそれをみて味噌汁をつくった方がよかったかなと思った。だいたいいつも寝起きは食が細い。パンをかじるぐらいしか倫也は食べない。
「ねぇ倫也くん。そこは即答して否定すると、メインヒロインの女の子は機嫌が悪くなるんじゃないかな?」
恵がフラットに言う。グラスに氷をいれて麦茶をそそぐ。
「えっと・・・、肯定すればいいのかな?」
「付き合ってないのに?」
恵がグラスをカウンターに並べ、美智留がそれを受け取ってテーブルに置く。
「えっ、じゃあ、俺どうすればいいの?」
「知―らない」
恵が抑揚もつけずに言う。カップにスープを入れる。やはりカウンターに並べ、美智留がそれを受け取ってテーブルに置く。
「うーん。それは確かに加藤ちゃんの気持ちもわからんでもないなー。はっきりした否定って傷つくよね」
「傷はつかないけど・・・ちょっと怒れてきちゃうかな」
「えっと・・・」
倫也が困る。
「あっ、加藤ちゃん、お弁当どれにする?鮭弁当とから揚げ弁当とヘルシー弁当」
「ヘルシー?」
恵が内容をみる。女性向けの野菜を中心にした和食の弁当だ。というか、これが自分のだろうと思う。
「それでお願い」
恵が座っているところに、美智留がヘルシー弁当を置く。
倫也は美智留の隣に座っている。恵が斜め前だ。
「いただきます」と3人がいって、食事を始める。
「あたしもやってもらおー」美智留がひらめいた。「ねぇ加藤ちゃん、ちょっとあたしも否定されてみたいから、お願いできる?」
「うん?」
美智留が倫也の弁当から卵焼きを素早く奪って、自分の口にいれた。
「美智留!?それ数少ないおかずだよ?」
「恋人ならいいでしょーよ」
「恋人っていうか、暴君だよね!?」
「トモは細かいなー、そんなんだからもてないんだよ」
「えっと、2人はつきあっているのかな?」
恵が見事な棒読みで美智留の期待に応える。
「絶対そんな風に見えてないよねぇ!?」
倫也が全力で否定する。
「それが、そうでもないんだなぁ・・・」
恵がつぶやく。ちょっと寂しそうな目をする。ラブコメヒロインだが、今やラブコメアレルギーである。ここでは『転』のない物語を希望している。
「加藤ちゃん、大丈夫。あたしとトモはなんでもないからね?」
ここは美智留みずからも否定する。自分は大丈夫だと思ったが・・・美智留までもこの空間から追放するんだろうか?
「うん。お構いなく」
目からハイライトの消えた恵が答える。感情が消えている時の声。
「恵、それはともかく、卵焼きもらっていいか?」
倫也が話題を変える。恵は小さくうなずく。それはぜんぜん構わない。
恵が割りばしで卵焼きをつまむ。弁当にはいっているあの甘ったるくて固い卵焼きだ。これを倫也の口にいれれば、とりあえずOKだ。マンネリでもいい。面白くなくても飽きられてもいい。変な音楽が鳴らず、目の前で倫也くんが死ななければいい。
でも、今は美智留がいる。美智留の前でこんな行動は加藤恵らしくない。
恵は卵を箸で持ったまま固まる。目には涙を浮かべる。
「こりゃあ・・・トモ。重症だ・・・」
「そう・・・みたいだな」
「どうするの?」
「どうするもこうするもない」
「なに?」
「美智留。お前は・・・帰ってくれ」
倫也が悲痛な声でいう。
「それはいいけれど・・・合宿イベントは・・・」
「どうせ、恵はいけない」
「『転』が回避できない?」
「そうだな・・・」
美智留は弁当の残りを口にいれる。そして立ちあがった。
「じゃあ、トモ。上手くやりなよ」
「悪いな」
「別にー」
美智留は肩をすくめる。そして部屋からでて帰っていった。
倫也は固まった恵を見つめる。今日はポニーテールにしている。リボンは少し大きめだけど黒色であまり目立たない。夏らしい淡い黄色のシャツを着ていた。
倫也は恵の箸から卵焼きを口にいれた。もぐもぐと食べて飲み込む。
「また、ずいぶんと脱線したもんだな」
「ごめんね。倫也くん」
「時間がかかる。それでいい。でも恵。これは負け犬とは違う作品なんだ。もうあんなことにはならない。ここで静かに時間を過ごす」
「うん」
「合宿イベントは回避したよ」
「うん。だって、わたしは風邪をひくんでしょ?」
「そう。楽しみにしていたイベントには参加できない。それが『転』」
「うん」
恵は納得している。『転』を回避するなら大きなイベントは起きない。
「ただなー」
倫也が明るいテンションで頭を抱える。
「うん」
恵はうなずく。恵はその後のイベントを知っている。倫也も合宿に参加せずに恵のお見舞いにくる。
「お見舞いイベントが起こらないんだよ」
倫也ががっかりした様子で言う。
「それはさ。とりあえず御飯を食べてから考えよう」
恵が御飯を食べる。
倫也も「そうだな」と言って弁当の残りを食べる。
2人は黙々と食べる。ときどき目が合う。顔が赤くなる。恵は意図的に顔をフラットに保った。
※※※
食事を終えた倫也が片付けものをする。恵はその間に干していた布団を回収してベッドメイキングをした。部屋のエアコンは弱めにつけてある。
2人は部屋に入って、並んで棒立ちしたまま同じことを考えている。
「する?」
「する?」
どちらともなく、うなずく。
「しょうがないなぁ・・・シナリオのためだよね?」
「シナリオのためだな」
恵がベッドに座る。それから足をまっすぐ延ばしてブランケットをかける。
「こほん。こほん」
恵が咳をしたフリをする。
「だいじょぶかー めぐみー」
倫也が棒読みする
「ともやくーん。なんか風邪ひいたかもー」
いたって元気な恵が棒読みで答える。
「なら、体温はからないとなー」
倫也が恵に近寄る。
2人の目が合う。顔がもう二人とも赤い。そして耳はそれ以上に赤い。
倫也がそっと恵のおでこに手を置く。
「手じゃ、わからないらしいよ?」
恵がいつもの調子で言った。
「そうなの?」
倫也が答える。恵は倫也の方を見つめている。瞳が潤んで輝いている。それからそっと目を閉じた。
『熱を測る時、おでことおでこを重ねる』
このイベントを2人はやりたい。そのために大仰な合宿イベント計画と参加できないエピソードがあった。転があるから、話は盛り上がる。
「いくぞ」
「うん」
倫也が緊張する。目を閉じても恵の目元は優しい。まつげが長い。唇はリップクリームが薄く塗られているせいか、少し濡れているように見える。クラクラするような香りが恵からする。
倫也は恵のおでこをじっと見つめる。恵が片目をあけて確認すると、倫也が恵のおでこにそっとキスをした。
「・・・」
「・・・」
「ねぇ・・・倫也くん」
「何、恵」
「これは・・・事件だよ」
「そうだな・・・これは事件だな」
恵が目を開けて倫也の方をみる。倫也が動揺している。顔は真っ赤だ。
「あのね、倫也くん。いくら2周目だからって、この時期のわたし達は付き合っていないし、メインヒロインルートにもはいってないし、指だって絡めてないんだからね?」
「・・・そう・・・だな」
「それをさ、いきなり『おでこにキス』なんてしたらさ・・・」
「・・・ごめん」
「・・・もう・・・いいよ」
恵が横を向いてため息をつく。もう、にやにやが止まらない。自分でほっぺたを軽く叩くが止められない。
「もう・・・!倫也くん!?」
「はい!?」
「もう一回・・・しよ?」
「いいの?」
「いいの。最初から」
倫也が離れる。
恵がブランケットの皺を伸ばす。耳が赤い。
それから「こほん。こほん」とあざとい咳のマネをした。
「だいじょぶかー めぐみー」
倫也が棒読みする
「と・・ともやくん。なんか風邪ひいたかも・・・」
恵が元気なさそうに、しおらしく言った。
「な・・・なら、体温を計らないと・・・」
倫也が恵に近寄る。
2人の目が合う。顔がもう二人とも赤い。そして耳はそれ以上に赤い。
恵はそっと目を閉じる。鼓動が相手に聴こえてしまうか心配になるぐらい高鳴る。倫也も焦る。近くで恵を見下ろすように見ていると、胸のふくらみがはっきりとわかる。
倫也の右手が誘惑に負けて、恵の胸を触ろうとするのを左手で抑える。
今、大事なのはイベントを成功させることだ。
そして、倫也は恵のほのかに火照っている頬に、そっとキスをした。
「・・・あの・・・倫也くん?」
「ああ・・・あの・・・俺・・・間違えた・・・」
「そう・・・だね」
「もう1回していい・・・?」
「3回もするの?」
「あ、そうだよな。だめだよなっ」
「ううん。いいよ・・・しよっ、もう一回して・・・みよ?」
恵があざとい咳をする。
夜は長い。好きなだけヤッてくれ。
(了)