「ミラージュヘイズ」
それが私が魅せられたウマ娘の名前。
名は体を現すように彼女は蜃気楼のようにそこにいるはずなのにひどく遠くて朧げな存在だった。
序盤は足を溜めてゴール前で差し込む様、血管が見えるほど青白い顔をした彼女を人々は畏敬を込めて「幽鬼」と呼んだ。
およそ可憐なウマ娘に付ける名ではないが、異常なほどのストイックさと化物じみた気迫を持つ彼女を現すにはその名しかなかった。
私も幼いころは、何かから逃げるように必死に走る彼女の姿が痛々しくて、初めてみた彼女の走りは画面越しでも思わず目を背けてしまった。その時は父も母も彼女の走りを見て苦い表情を浮かべていたのを覚えている。
目を背けたい。けれど、目が離せないのだ。
目を背けたくなるような走りではあるが、命を削りながら走りだけれど、気づけば彼女はゴールを、視線を、熱狂をかっさらっていた。
目を離せばいつの間にかゴールをしている。気づけば誰もが彼女に釘付けになっていた。
かく言う私もあの蜃気楼に目が眩んだ一人だった。
ストイックな彼女はファンに対しても誰よりも非常に真摯に向き合っていたと思う。
請われればサインも握手も練習の間にだって分け隔てなく行い、記者の強引なインタビューにだってできる限り答えていた。
その様から彼女を王や皇帝などと一時期もてはやされた。
しかし、ある記者がうっかり彼女の前でその言葉を口にした際にひどく冷めた口調で「やめろ」とだけ彼女が短く告げてからはそんな風に言うものはいなくなった。
しかし、7度の重賞を制した彼女はまさに絶対王者であったことは間違いない。
誰もが彼女の実力を信じて疑わず、彼女の見果てぬ限界を知りたいと願った。
彼女は皆の期待に応えるように海外遠征を決定した。私はその時、ひどく浮かれたのを覚えている。
まるでわがことのように感じ、いてもたってもいられずに彼女の元まで直接押しかけたのだ。
とても短慮だったと今でも後悔している。しかし、彼女はそんな私をすんなりと受け入れてくれて、ありがとうとむしろ感謝されてしまった。
その時の彼女は嬉しそうなのにひどく泣きそうな顔で、息ができないほど胸が締め付けられると同時に私は彼女の涙に見惚れてしまっていた。
ついぞ、彼女は世界に行くことなく引退してしまった。世間ではひどく惜しまれる声が大きかったが、彼女に近い人物ほど、彼女の引退に安堵しているものが多かった。
トレセン学園に入学して間もなかった私は、自分の気持ちに身を任せてしまい、安堵していたものに詰め寄ってしまった。しかし、彼女の一日のスケジュールと食事、睡眠全てを聞いて得心が言った。
常に体を酷使するほどのハードなトレーニングを行っているくせに、ろくに食事も睡眠もとっていなかったのだ。いや、取ることが出来ていなかったのだ。
食事は喉を通らず、飲み込めてもすぐに吐き出してしまう。目を閉じても眠ることができないという。
およそ、ウマ娘が活動するうえで必要な要素が彼女には欠落していた。だからこその早熟な引退であり、彼女の関係者は安堵していた。
今思い出しても空恐ろしい。
彼女は欠落しているはずなのに勝ちをこぼすことはなかった。それは努力や才能とはかけ離れた執念の塊と言ってもいいだろう。私にはとうてい彼女ほどの執念を持ち合わせることは出来ないと思う。
そんな、鬼気迫る彼女もターフを去るととても穏やかなただのウマ娘でしかなかった。草花を愛で、日々の移り変わりを楽しむなど彼女はひどく安寧を享受していたのだ。
引退した彼女のもとに通うものは多く、彼女もそれを心待ちにしているようで知人や友人と語らうのが日々の楽しみだとよく語っていた。
私も足繁く通うものの1人であり、彼女にレースの結果を伝えては意見をもらうのがとても楽しみだった。
母のように暖かく、姉のように優しく、友のように親身に接してくれている彼女に会うたびに私は強く心を惹かれていた。
「これで5勝目ね、シンボリルドルフ。本当にあなたの走りは素晴らしいわ」
「ありがとう。でも、私はまだあなたが拓いた道を辿っているだけだ」
「私はただ追われるように走っていただけ。あなたのような優雅さなんて持ち合わせていなかった」
彼女を捉えようとするとのらりくらりと遠くに行ってしまう。
「その鬼気迫る表情に私は見惚れていた。あなたはいつだって私の憧れだ」
私の言葉を彼女はよく無視をする。耳に届いているのか、そうではないのか判断に困るが、偽りない気持ちを私は伝えるしかない。どんな手を使っても彼女はすり抜けてしまうから。
「あれはなにかしら」
彼女が指さす方をみる。ひどく小さな影だが、私にはとても見覚えのある姿だった。
「トウカイテイオー、こんなところまで来ていたのか」
私を慕う幼いウマ娘。けれど、今の時点でも感じられる才気あふれるその姿は新しい時代の開拓者だという確信があった。
「あなたに似ているわ。とっても」
「そうだろうか」
「真っ直ぐに焦がれる背を追う様はあのときのあなたそのもの」
「それは私にとっては少しばかり面映ゆい記憶だが、言われてみれば確かにそうだ」
本当に恥ずかしい記憶ではあるが、とても穏やかに笑う彼女とまっすぐに私を追うテイオーを見ればそれも悪くないと思ってしまった。
「走る才能もあなたを感じる」
瞬く間にテイオーの輪郭がはっきりとわかるほど、彼女は距離を詰めていた。
「あぁ、素晴らしいウマ娘になるのは間違いない」
私もテイオーのように彼女の背を追っていたのだろう。
テイオーが走っているのを眺めていると、突然彼女が立ち上がり駆け出したのだ。
突然のことに戸惑いを隠せなかったが、背筋に吹き出すほどの冷たい汗が流れた。
何もわからない。けれど、ここで何もしなければ彼女を掴み損ねてしまうという確信だけはあった。
背を追うように私も駆け出した。
「止まりなさい!」
その言葉と近くのブレーキの音で全てを理解した。
そして、全身から力が抜けるのを感じる。
彼女は、テイオーを突き飛ばし道の真ん中に立ち止まったまま、笑っていた。
「止まるなああああ!!」
あらん限りの力を込めて私は叫んでいた。彼女を掴んだ後、跳ねるように転がった。
全身に痛みが走るが、脚は動く、彼女を掴む腕はまだ残っていた。
「やっと掴まえた」
どんな方法でもすり抜けられた彼女を初めて私は捉えることができた。
それは何よりも耐えがたい喜びで、幼児のように泣いて詫びるテイオーの姿に気づくのが少しだけ遅れてしまった。
「ごめんなさい。ボク……ボクぅ……」
「いいんだよ、テイオー。しかし、今度からはもっと周りを見るといい。そうするれば失うものは少なくなると思うから」
泣きじゃくるテイオーの頭を撫でて彼女が落ち着くまで慰めていた。
すると、手元からもすすり泣くような声が聞こえた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。また私はあなたの人生を台無しに……」
引退した彼女からは窺えないほどの憔悴しきった表情。
彼女の言葉の意味はよく理解できない。
けれど、私は私の気持ちを伝えなければいけないのだろう。
「あなたの言葉の真意は測りかねるが、私は台無しなどは思ってはいないよ。あなたが生きていてくれた。それだけで、どれほどの喜びにも勝るのだから」
仰々しい言い方になってしまったかと私が反省していると彼女は泣き出してしまった。
赤子のように泣く2人を私は落ち着くまで撫でることしかできなかった。
幸い私のケガはレースに支障はなく、2人も問題はなかった。
実によくあるなんでもないある日の出来事でしかなかったのだ。
「おめでとう、これで7勝目ね」
「やっと、あなたに並び立つことができた」
「いえ、私なんて霞むほどあなたの走りは全員を見せることができていたわ」
顔を背けながらそう語る彼女に私は我慢が出来なかった。
「私はあなたの背を追っていたんだ。あなたに焦がれていたんだ。どうか、あなたがあなた自身を否定しないで欲しい。それは私だってひどく胸が締め付けられてしまうんだ」
彼女の手を取り、じっと見つめると、彼女はひどく赤くなっていた。
なんとなく理解した。
彼女がいつも背けていた理由を。赤面する彼女の姿はひどく愛らしく感じてしまった。