エンリ・エモットは村娘だ。薬師の友人と家族、そしてカルネ村のそれ以外の人間しか知り合いはいない。知識は村の範囲を大きく逸脱する事はなく、そしてエンリの人生は今までの十六年間大きく変わらないでいた。
だからこそ、エンリはこれから死ぬまでその人生は変わる事はないと考えている。
きっと、それは事実なのだろう。明日、エンリは死ぬのだから。今この時点でそう考えているのであれば、死ぬまでそのままでしかない。
だが、しかし──そんなエンリの人生で一度もなかったような事が起きた。
それは井戸へ水を汲みに行った時だ。水の入ったかめを持ち上げた時、視界に何か映ったような気がして、そしてそれは正解だった。
それの名前をエンリは知らない。もしかしたら友人は知っているかも知れないが、彼は町に住んでいる。
次に来たら聞いてみよう、とぼんやり考えながら、エンリは宙に浮かんだそれを眺めた。あれはどうやって飛んでいるのだろう。エンリは詳しくないが、もしかしたら魔法かも知れない。
そして次にエンリはこの光景が見間違いである可能性に気がついた。急いで目を擦ってみる。再び見ると、確かに空中に浮かんだ建造物は消えていた。
疲れていたのだろうか。確かに昨日はネムにせがまれて夜遅くまで童話を読んであげたけど。もしかしたら目の近くにちょっと大きな虫でも居たのかもしれない。
ちょっと嫌な想像をして身の周りを手で払う。取り落としてしまったかめを取って家に戻った。
それで終わりだった。
***
「ふぅ、誰かに見られてたかもしれないな」
操舵輪──ギルド武器
今がどういった状況かはまだ分からないが、人工物が見える以上他者の視線からは隠れるべきだろう。
それに、この時点で偲は一つこの状況を予想していた。──この世界はゲームの中ではないと。
顔の表情はゲームのアップデートという事でまだなんとかなるような気がするが……
「あん?」
……顔を向けると、
とは言っても、そこまで怖くはない。というのも、ワールドサーチャーズは世界を探検するギルドだが、その分ギルド強化にはそこまで力を費やさなかった為に、強いNPCは数える程しか配置されておらないのだ。そして目の前にいるウルのレベルは五十程度でしか無い。まあ、ゲームでもない世界でレベルや戦闘の事を考えるのも馬鹿らしい話だが。
そう思い、少し先程までの好奇心に冷水をかけられた心地がしながらウルを見返す。
NPCが会話をしてくる。こんな事はユグドラシルでは有り得ない。あのギルドのギルド長である偲がそう考えるのだからそれが覆される可能性は低いし、そしてそういったアクションを設定する事が可能だとしても、またはアップデートで可能になったとしても、設定した覚えなどなかった。
それに、現在のウルの行動はNPCとして込められた設定と一致している。曰く、ウルはギルドメンバーにタメ口で、友人として接する、と。
「……なる」
余り確証がある訳ではないが、偲はおそらくそうだと頷ける答えを見つけた。
──仮想現実が現実になった、という理不尽で意味のわからない答えを。
もちろん、船の外がユグドラシルでは見ない光景な以上は、それだけではないようだが、この船、いやもしくは偲とウルのいるこの船室は偲の見覚えのある物なのは間違いない。とすると、先程のレベルや戦闘力についての考えも……的外れではない?
「は?」
先程の呟きに反応するウルを、偲はもう一度眺める。
戦闘力など関係なく、ウルの翡翠色の眼光には震えてしまいそうだ。なんせこのウル、余りにも目つきが悪い。いや、身体全体から暴力的な空気が滲み出しているとでも言おうか。長く伸ばした赤髪は艷やかに輝き、細いながらも毒々しい藍色に染まった首輪は明確に己を主張していたが、それらは同時に相手を不安にさせる類の美しさだ。棘のある薔薇どころか炎のような美しさと言えば分かりやすいか。
むしろ、それに動じない偲の胆力が優れているという物だ。いや、本当にそうなのだろうか。
これは脳をコンピューターに接続するという形式のゲームで起きた異常だ、何らかの精神的異常が起きていても不思議ではない。
実際、今の自分の冷静さは異常であるかのように思えた。
「おい、結局有り得ないってのはなんだってんだよ」
ウルの小突くのに、偲は窓を指差してやる。なぜかこちらが答えを全然返してない割には親しげな表情をしているが、偲としては初対面──いや、船を動かす時に何度も見た顔ではあるが──初めて話す人なのだが。
そして、ウルは目つきのせいで分かりづらいが、驚いた顔をしたようだ。
「あ? 見た事ねえ、こんな所……。それにさっきまでヘルヘイムに居たはず……転移したのか?」
「いや……少なくとも僕からはやってないですね」
初めて話す人だ、仕事の癖で敬語になってしまう。
それと分かった事が一つある。ウルだけかもしれないが、NPCは動き出す前……ユグドラシルの中での記憶を保持しているらしいという事だ。
という事は……
「なあ、ヒ──」
「ちょっと待て──待って下さい。僕の事は偲って呼んで頂けませんか。ウルが知ってる名前では呼ばないで」
「ええ?」
「お願いします。……ホント、マジで」
ユグドラシルでのHNはギルドメンバーからよくからかわれた物だった。気にしていない風を装って、サービス終了の今まで変えないでいたが、今だって根に持っている。
「ええっと……偲? ていうか、これは他のヤツにも言っておいた方が良いのか?」
「それは誰を想像して言ってるんでしょう」
「え? そりゃあ、ティアマトとか、ベルザンディとか?」
「うん……まあ、そうしてください」
他のNPCも居るらしい。
そうなってくると──
ことここに至って、偲は自分の考察が限界を向かえている事を知った。だから。
「ウル。船長として、副長ティアマトを呼んでもらえませんか?」
調べよう。魔法、