先ほどまでの悪意に満ちた空間からその匂いの元が消え去ってしまった。
不気味だと思われた倉庫はたった二人だけしかいないため、怖さよりもどこか寂しさが滲んでいた。
緊張感が消えたのか虚華は恋菜を抱えながら地面にへたり込んでしまった。だがそのまま沈んでいるわけにはいかない。
「恋菜…すぐに直す…」
左腕で支えていた相手にそう声をかけると、右手に握るメスをそっと体に添える。すると相手の体が淡く光ると体がみるみる再生して五体満足の健康体に戻ったのだ。
「…っ…うぅっ……」
恋菜の少し乱れていた息が正常な状態に戻ったのを確認して、これまで抑え込んでいた不安が一気に溢れてしまったのだ。
「んんっ……」
涙をぼろぼろと流して大泣きするわけでは無かったが、ただ花瓶にひびが入って僅かに漏れたかのようにただむせび泣いていた。
するとそこで足止め食らっていたASTの人間たちが彼女のところまでやってきたのだ。
「すぐさま被害状況の確認を!」
隊長である神無月はすぐさまそう言って指示を出す。
既に建物は戦闘の跡地になっており、明らかに精霊が暴れたであろうことが分かった。
そして一人の女の子を抱きしめているその光景は、ASTの魔術師からすればまるで人質を取っているようにしか見えない事だろう。なによりもその少女こそがASTの資料にも載っていた御守恋菜だったのだ。
すぐさま現場の状況を見て鳴村凛院は精霊が人質を取って立てこもっていると判断した。
「あなた!その子から離れ……」
離れなさいという言葉を最後まで口にすることが出来なかった。
目の前の精霊は涙を流しながらも恋菜を抱きしめていた、それも命がある事に喜びを感じ、そしてかけがえのない存在を慈しむ様に。
その光景を見てこの場にいたASTの構成員は思ってしまったのだ。精霊が巻き込んだというのも、精霊が破壊衝動のみしか持たない怪物であるというのも全てがDEMの吹き込んだ嘘でしかないのだと。
それは一般的な常識からは少しずれた表現なのかもしれない、だが今の彼女は間違いなく愛情に類似する感情を見せていた。
そしてそれを見た隊員たちは目の前にいる精霊は人間と同じように人を慈しんで、一緒に笑って共に歩んでいけるものを持っているのだと思ってしまった。
普通に考えればそんなはずは無いと思ってしまうのだが、誰かに言われた知識よりも今自分たちが目にした事が全てだった。
「…………」
虚華は気絶をしている恋菜をお姫様抱っこすると、遠まわしからこちらを眺めているASTの人間をじっと見たのち空いた天井の穴から飛び立っていく。
止めさせる事や何か声をかける事は彼女たちは可能だったのだが、危害を加えないであろうことは心で分かっていたためその場から動けなかった。
◎
恋菜を連れて彼女の家へと連れて来た虚華は、相手の体をベットに寝かせる。その安らかな寝顔を見てホッとする。
『クソがっ…テメエ…この右腕の借りは…キッチリ利子付きで返すからな…』
しかしふと思い出されるのは去り際に吐いたブレンダーの捨て台詞。
「…これから先もきっとこのようなことになる…なら…私に出来る事は…」
ある一つの選択肢が取れないのは天使の性能の情報が脳内に流れた時に気が付いた。ならもう一つのやり方しか彼女には残されていなかった。
再びメスを取り出すと、恋菜の頭にそっと刃を添える。すると恋菜の体が淡く光り輝くと、その光が少しずつ体から剥離していき元通りになる。
一見すれば何も変わっていないように見えるがある致命的な変化が起きている。
(これでいいんだ…)
彼女にはこれしか出来ない。精霊というこの世の生物の中でもトップクラスの力を有していながらも、彼女は無力感に苛まれていた。
「…そう言えば…確か恋菜の秘密の本に書いてあったな…好きな相手にこうするのが愛情表現なのだと…」
恋菜の顔に向かって自分の体ををぐっ引き寄せると、相手の唇に自分のそれをそっと重ねた。
そして唇を離すと一言だけ告げた。
「ありがとう」
◎
「…………」
恋菜の朝はそこまで早いというわけではない。学校から徒歩圏内に住んでいるし、朝食を抜けば寝起きから二十分もかからずに朝のホームルームに間に合うほどだった。
「頭痛い…」
寝起きのせいか、どこか調子が悪いような変な感じがしたのだがその違和感の元が何なのかは分からない。ただ熱が出ているわけでは無かったため、学校を休むのも憚られるためトーストを焼いて着替えて学校へ向かう事にする。
「えっ……」
マンションのエントランスにいたのはウェーブのかかったロングヘアー、そしてスーツ姿の女性だった。
恋菜の知る由もない事だが、鳴村凛院だ。
「すみません、少し話を聞きたいんですがお時間はいいですか?」
「え、えっと……」
「私はこの通り刑事でなのですが、あなたに聞きたいことがあります」
「その……」
身分証明の手帳を見せながらそう言った。実際の所は自衛隊関連の人間なのだが、許可を得て刑事のふりをしている。
いきなり警察がやってきたと聞いて何をどうしたらいいのか分からない恋菜だった。
なんせ彼女には何故自分が警察に目をつけられているのかまるで心当たりがないのだから。
「時間は取らせないので一つだけ質問をいいですか?」
「は、はい……」
事情聴取は任意なので拒否する事は可能なのだが、朝から特大のイレギュラーに遭遇したためかされるがままになってしまう。
「単刀直入に聞くわ。あなたのあの精霊との関係性を聞かせて欲しい」
聞きたかったのはそれだった。ただ側だけ調べても何もわかりなどしない、もし彼女が精霊にとって大切な人物であるのであればもしかしたら空間震やそれを取り巻く問題に一つの解決策を見出せるのではと思ったのだ。
そして困難であるかもしれないが、精霊との友誼を結ぶことも可能かもしれないと思ったのだ。
凛院自身は空間震被害さえ無くせれば方法は問わなかった。仮に精霊が意図して空間震を起こしているわけでは無いのならそれはそれでいいのだ。
とにかく知りたかったのだ、あの時見せた涙が何を意味していたのか。
だがその質問を受けた当の人物は相手は何を聞いているのだろうという困惑ときょとんとした感じの表情を滲ませた。誤魔化そうとしているのではなく、相手が本当に何を聞いているのか分からないといった感じだった。
(まさか……)
相手のそのリアクションを見て彼女は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
「あの……」
そして彼女の予想を裏付ける決定的な一言を口にしてしまう。
「精霊って…どういう意味ですか…?」
◎
「そうですか…あなたもですか……」
「すみません…でも…もう私は戦えないんです…」
神無月の心惜しそうな反応にも、凛院は既に何かが折れたような覇気のない表情でそう言った。だが声自体は弱々しさがありながらも、意志を曲げる気が無い事だけは伝わった。
彼女が上司の前に差し出したのは辞表だった。彼女は辞める気なのだ、精霊を討伐するという大義を背負っている集団であるASTをだ。
DEMが暴れまわったあの日から既に二週間が経っており、ブレンダーの暴挙や勝手に部下や顕現装置を密入した事を咎めようとしたのだが、上からの圧力によってそれ以上の追及をすることが出来なかったのだ。
「あなたを含めてもう七人目ですか…困りました…が仕方のないことかもしれません……」
「すみません…でも…あんな姿を見たらもう戦えません…」
「分かりました。あとで現場以外の別の役職に就けるように上と掛け合いましょう。顕現装置を扱えるあなたを無下にはしないはずです」
「ありがとうございます」
凛院は上司からの提案に頭を下げた後部屋から退出をした。
彼女は退室した後俯きながら歩いて行くと、無意識下で足が覚えていたのか整備室に到着していた。この場所でよく精霊にどうすれば立ち向かえるのかなどを同僚や整備員と夜な夜な話し合ったものだった。
だがそれらの努力ももうする必要性は無くなってしまうのだ。
そんな事を考えて感傷に浸っていると、背後から声がかけられる。
「鳴村先輩!!」
「…どうしたの」
「噂で聞きました!先輩もASTを辞めるって!いったい何があったんですか!?」
声をかけてきたのは日下部だった。
ここ最近部隊員たちが次々と辞職していく状況に不安を感じており、ついに凛院までもがいなくなるのを聞いて問いかけずにはいられなかったのだ。
「…別に…ただ自分がここにいても邪魔にしかならないと思っただけ…」
「ドクターが…一般人を意図的に巻き込んだ一件に行った人たちが次々と辞めていくんです…いったい何があったんですか……?」
凛院を含めた辞める七人の隊員の共通点はあの日、悲しみに暮れる虚華のあの姿を見てしまったという一点だった。
だがそれを口にするのは憚られた。
そもそも虚華が人類全員と仲良くしたいという確証はなくただの憶測でしかないし、精霊が人間に対して敵対的であるという前提があるからこそ人の姿をした存在に対して躊躇なく武器を振るえるのだ。
その一点に翳りを生んでしまえば自分と同じように刃をその手と心に持てなくなる、彼女のように。
だからこそ凛院は一つだけ口にする事が出来るアドバイスを伝える。
「これから先、ここに残って精霊と戦うなら心を殺せ、相手は人によく似ただけの害獣だと思いなさい」
「いったい何が…」
それを言われて何を返したらいいのか、はいわかりましたなのか、その言葉の意図をもっと深掘るために質問を重ねるのか。
日下部はここで何をしたらいいのか分からずにただただ混乱してしまう。
一方でこれ以上は突っ込まれたくないのか凛院は少し悲しそうな表情をしたのちその場から逃げるように去って行った。
数日後、鳴村凛院はASTの最前線から抜けて後方支援の仕事に就いたとだけ伝えられた。
抜けた表向きの理由は家族である妹との時間を大切にしたいとされた。
◎
つい先日おかしな質問を刑事にされたが、それを除けばごく普通の日常を過ごしていた。
御守恋菜はいつも通り購買でパンを買って食べた後、図書室へと向かっていた。
するとそこには図書室の主である自分よりも先にこの場所を訪れて静かに本を読んでいる女子学生がいた。つい先日もいたのだがどうにも勇気が出ずにそそくさとその場から離れたものだった。
(あの本…?)
相手が手に取っているそれは恋菜自身かつて読んだことのある一冊だった。
だがそれを確認しようと遠目からでも分かるほどに前のめりになったせいなのか、読んでいる本人がその視線に気が付いたのだ。
「……?」
「あっ…」
何か?といった感じのその視線を受けてつい怯んでしまった恋菜は、素早く視線を外してポケットに入れていたスマホを弄り始めて少し気まずくなった空間を誤魔化そうとする。
(私なんかが話しかけても迷惑なだけだよね…)
別段スマホに用があったというわけでは無いため、適当に弄り回しているとふと写真フォルダを開いてしまう。
「え…?」
そこには自分と金緑色の少しくすんだ髪をした少女とのツーショット写真があったのだ。それはどこか写真慣れしていなかったり、不意を突かれたのかちょっとだけ間抜けな表情をしていた。
だが同時に何の気負いのない自然体な二人が写っていたのだ。
「この写真…いったいどこで……」
だが身に覚えのないそれは恐怖でしかない、そのはずなのだが。
(楽しそう……)
彼女はそう思ってしまったのだ。
この写真の二人は義務とか責任などは一切なく、ごく自然体でいられる気負いのない二人に見えたのだ。
『私なんかなんてつまらない事を言うな』
ふと思い出されるのは自分にとって身に覚えなどあるはずのない一言。
だがその言葉が脳裏をよぎった瞬間に恋菜はスマホをしまって、本を読んでいる相手に向かって歩いていた。
そしてその相手の傍に立って言った。
「あの…その本って面白いよね」
◎
「…そう…だったのか……」
士道は目の前の彼女が語ったかつての親友との短く儚く、そしてかけがえのない思い出を噛みしめた。
虚華が人間に慣れている理由も、人間社会に違和感なく溶け込める理由も、そして彼女が死ぬことを望んでいるその理由もおおよそが分かってしまった。
彼女はそこで天使を一振り作る。
「追加で説明をするとこのメス、正式名称改造施術は刃が触れた対象の根源や構造を私の希望する通りに改編する力を持ってる。私が瀕死に陥ると自動的にメスが起動して私の体を元通りにするんだよ。だから私は自分の意思で死ぬことは出来ない」
それはあまりにも彼女にとって残酷な宣言なのか、そして同時に心に残っている思いを映す鏡なのか。
それはきっと彼女の心の中にある弱さであり、また強さでもあるのだろう。
「虚華は……」
「ああ…私にとっては恋菜が全てだった…恋菜がいたからどんな残酷な世界も仕打ちも耐えられた…今はもう世界の色もその全てが灰色に見えるよ…」
相手のその説明と雰囲気だけで何を聞きたいのか理解した彼女は、端的に今抱える気持ちを語った。
その言葉は彼女の抱える思いのほんの一端にしか過ぎなかった。見せない心の深奥には溢れんばかりの愛と悲観が詰まっているに違いなかった。
『少しいいかしら?』
そこでスピーカーなのか琴里の声がその場に響いた。恐らくだがフラクシナスの顕現装置を応用したものだと思われる。
「何かな、士道の妹さん?」
『その恋菜って子は死んでないのよね?』
「会っていないから確認はしていないが、記憶を失って他人になった相手はもう人質としての効果は無いんじゃないのかな…仮にしようとしてもさせないけど」
『ならその人はこれから私達ラタトクス機関が責任を持って保護するわ。だから現在進行形で行っている恋菜って人の記憶の処理を中断して頂戴』
琴里は話を聞いた中で一つの提案をする。それは虚華にとって不利になる提案では無い、むしろメリットしかないはずだった。
「そうだね、それは願ってもない提案だ…」
『なら…』
「でもラタトクスは封印した精霊達の安全を保障できていないんだろう…?…私と再会してまた危険な目にあわせるわけにはいかない…そうでなければあの日…身を引き裂きそうになるほどの覚悟は何だったんだろう…?」
『それは……』
士道がかつて嘘偽りなく答えた質問に対するの一つが、精霊の力を封印されたとしてもDEMに命を狙われると言うものだが、ここに来てあの時の誠実さが仇になってしまった。
彼女の希望である恋菜との再会を叶えるのは困難だった。ラタトクスは封印された精霊を保有する機関であり、それを狙うDEMには目を付けられておりいつ雌雄を決する時が来てもおかしくないのだ。
そんな組織に大切なものを預けろと言っても無理だろう。そこまで考えた士道はそこで閉ざし続けてきた口を開いた。
「…勝負をしないか……」
「……勝負?」
突然提案されたその単語に虚華は驚いた声を出して振り向く。勝負と言われても何を競うのか分からなかったのだ。
「俺が…俺達が虚華の生きる希望を持たせる……」
「……それって別に勝負ってわけじゃないと思うけど…別に私はあなたに勝ちたいと思ってないし…そもそも争う間柄じゃない……」
「うぅ……」
勝負内容らしい事を口にするのだが、相手のごく冷静な反論に士道は気弱に唸る事しか出来なくなる。
そもそも虚華の願いは精霊の力を封印によって捨てる事なのだが、士道やラタトスクサイドはそれをさせる気がない時点で勝負になっていない。
「まぁ…いいよ…その勝負ってのに乗ろう」
虚華は簡潔にそう言った。余りにもあやふやで何が起きるのかもわかっていないその提案に乗ったのだ。
「い、いいのか?」
「それに乗らないと封印ってのをしてくれないんでしょ?なら私にある選択肢は一つだと思うけど」
(!…まさか…)
虚華の表情を見て士道は気がついた。
数多のギャルゲーをやらされてきた彼だからこそ気がついた。分かったのだ、目の前にいる女の子のキャラというやつが。
そして彼の心に灯が付いた。相手への希望は決してゼロでは無いのだから。