「琴里!」
「士道落ち着きなさい、興奮した猿じゃないんだからすぐさま人間に進化しなおしなさい。出ないとお仕置きよ」
フラクシナスのテレポート機能によって拾われた士道は興奮気味にブリッジに飛び込んだ。だがその所作にエレガントさなど無いので、琴里にすぐさま咎められてしまう。
だがそこで四つん這いになる男性が一人。
「うっきーっ!司令!よろしくお願いします!!」
「気持ちわるっ」
尻を掲げて求愛のポーズ…もとい折檻を求める神無月がいた。
いつもの光景と言えばそうだがいまだに慣れる事は無さそうなそのやり取りに冷や汗を流しながらも、士道は落ち着いて会話を繋ごうとする。
「えっと…それで精霊は…?」
「ええ、もちろん捕捉しているわ。メインモニターに映してちょうだい」
そんな会話の背後では神無月が何やら悶えていたが誰もが見なかったことにしていた。
司令官のその一言で夜空を映していたブリッジから空間震の発生地点に視点が切り替わる。
そこにはそれまで人が積み重ねてきた歴史が跡形もなく消し飛ばされており、その地点の真ん中には一人の少女が呆然と立ち尽くしていた。
勿論生存者や一般人ではない、避難せずに空間震のど真ん中に居座る人間など限られている。
そもそもモニターに映る相手の装いは対精霊用のスーツでもない。ラタトクスが何度も見て来た精霊を守護するための絶対の要塞である霊装と呼ばれるものだった。
目の前に映る相手は金緑色の髪に、光に反射して鮮やかな玉虫色のワンピースに、上から羽織るように薄っすらと輝く白衣をまとっていた。
「彼女が……」
「ええそうよ。今回彼女が士道がデレさせる相手ね」
「デレさせる…ね…」
好感度を上げてキスをするというのは理解こそ出来ているのだが、いまだに口にするとなると少しどもってしまうのはチェリーだからだろうか?
「まだ照れているのかしら?慣れなさいよ、チェリーからプレイボーイに進化しなさいよいい加減」
「うっ、慣れないもんは慣れないんだ」
「マイリトルシドーシリーズ続編を作らなければいけないようね……」
「だから嫌なんだっ!……?」
寒気を超えて絶対零度な提案を受けて反射的に叫んでしまう士道。
だがそこでふと視界に入ったのは、先ほどまでお尻叩きを望んでいた神無月が四つん這いを止めてモニターを食い入るように見ていた事だ。
正直な話、彼がデートや女性心理において役に立つことは無いため、部屋の隅っこで何をしてようが知った事かといった感じなのだ。
そもそも神無月は精霊に関しては救いたいとそこまで思い入れがあるわけでは無い。
彼の所属は今でこそ精霊保護組織だが、前の所属はASTという精霊殲滅組織に身を置いてたくらいだからだ。
士道が知る限りここまで精霊に食いついたのは初めてだった。
その横顔に見えるのは緊張以外にも怒り、悲しみ、悔恨と複雑な何か。
士道に限らずフラクシナスのクルー全員が今までになかった反応にどうリアクションをしたらいいのか分からなくなってしまう。
「神無月?どうしたのかしら?」
今までにない行動パターンを見て琴里もさすがに無視できないようで心配そうに声をかける。
だが声をかけられた相手はいつものテンションに戻って返事をする。
「え?お仕置きですか?」
「言ってないわよ!?その耳は飾りかっ」
「ぎゃわんっ!」
琴里の怒りをにじませたローキックが相手の脛に直撃する。だけどそれを食らった相手はうずくまりながらもどこか嬉しそうで…
「彼女は『ドクター』だね」
「令音さんは彼女の事を知ってるんですか?」
変態のやり取りを無視して口を開いたのは村雨令音だった。
白衣に巨乳にいつも何度も手直ししたと思われるボロボロのクマの人形を携えた女性だ。いわゆる精霊の専門家と言える人物でこの組織の心臓を担っている。
そんな彼女はまるで悲しむ様な、憂うような、そして僅かながらの憐憫と同情が入った表情で今回のターゲットになる精霊について話し始める。
「ああ、もちろん知っている。彼女は人間に対して過激な行動を取る攻撃的な精霊なんだ」
「それって……」
そう言われて士道の脳裏に浮かぶのは狂三だったり、六喰のような人を殺める事に対して躊躇いすら持たない絶望的な存在だった。
もちろん彼女たちにも明確な目的やポリシーは持っていた。それでも自分の目的や理想の為であれば殺人や人権を踏みにじるハードルを越えてしまう覚悟を持っていた。
だが今映像に映っている相手はどうなのか分からない。狂三のように何かしらの大義を背負っているのかもしれないし、六喰のように天使の力が関係しているのかもしれない。
考え込んでいる士道を見て琴里は茶化し気味に声をかける。
「何?怖くなっちゃった?」
「まさか、取りあえず相手と話してみない事には何も始まらないよなって思っただけだ」
「それでこそ士道ね」
今から口説こうというのに、その相手が怖くて仕方ありませんでは話にならないだろう。
基本的に精霊が対峙する人間というのは恐怖かもしくは怒りを持っている。だからこそ士道はまずそれ以外の感情を持っている特殊な存在であると、相手には分かってもらわなくてはいけない。
「あー…気合を入れているところ済まない、言葉が足りなかった」
『?』
令音の申し訳なさそうな声。
それを聞いて皆が視線を向ける。
「過激で攻撃的と言ったが人を殺すまでは至らないんだ」
「えっ…そうなの…?」
琴里の驚いた声。周りも声は出さなかったが令音の雰囲気的につい危険すぎる精霊だと思ってしまっていたから拍子抜けといった感じだ。
「そうなんだ。世界各地に顕現し多くの負傷者こそ出すが、空間震被害を除けば死傷者までは出さないんだ。そして何よりも魔術師や顕現装置を重点的に狙って一般人相手には害さないんだ」
「なるほど……」
令音から与えられた情報をゆっくりと噛みしめる士道。
それが本当であるのなら、相手が理解の及ばない快楽殺人者でないのなら、話し合いが成立する余地は十二分にあった。
そんな事を考えている士道をフラクシナスのクルーたちは頼もしそうに見守っていた。
どんなに困難であっても諦めない彼の行動は結果として厳しい壁を突破し続けてきたのだ。
今度だってまた…と期待をしている。期待だけでなく奇跡を起こすために自分達もまた全てを掛けてサポートすると気合を入れている。
そんなテンションを上げていくブリッジ内の空気の中で、
「…………」
神無月だけは何かを考え込んでいた。
そんな空気の中で突如としてアラーム音が鳴り響いた。琴里は少しだけ頭を冷やして部下に指示を出す。
「何?現状報告!」
司令からの指示に反応したのは椎崎だった。
「ASTがコードネーム『ドクター』と接触しました!」
◎
遠くから震源地を顕現装置によって強化された視力によって観察しているASTの面々。精霊は廃墟となってしまった街中を歩いていた。そんな中隊員の一人から現状報告が入る。
「隊長あれはASTの資料にもあるドクターと一致しています」
「ドクター…ね……」
「どうかしましたか?」
隊員をまとめる隊長である日下部燎子は何かが引っかかっているようで煮え切らないといった様子だった。
「…私が…ASTに所属したばかりの頃にドクターはよく日本に出没していたのよ……」
「そうなんですか」
「当時は入ったばかりで後方支援だったり、演習や講習ばかりで直接対峙したわけじゃなかったんだけど…それで…まぁ…ね…」
『……?』
どうにもハッキリとしない態度に、現場でありながら精霊から目を離して隊員たちは不審げな視線を送る。
「何かがあるだろうから隠す事はしないけど……」
周りから注がれる視線に気が付いた彼女は不安を煽ると分かってはいたものの、黙っているのもまた部下たちの心の中に憂苦という毒が垂れてしまうと気が付いて話始める。
「当時ドクターと関わった先輩方の多くがある日を境にぱたりと辞職したり、転職したりしたのよ」
「え……?それって怪我や後遺症…ですか?」
部下の一人が一番あり得そうな予想を口にするが、その上司は首を横に振った。
「いいえ全員五体満足の健康体だったわ。それは私も気になって何でやめるのか聞いたんだけど先輩方は何も教えてくれなかったわ……それで…………」
「それで…何があったんですか…?」
そこで再び言葉に詰まってしまう日下部。
「それで…言われたのよ…『これから先、ここに残って精霊と戦うなら心を殺せ、相手は人によく似ただけの害獣だと思いなさい』ってね……」
その言葉を聞いて皆は何を返せばいいのか分からなかった。
ただ漫然と感じたのは、先人の心をへし折ったであろう精霊の恐怖と、これから自分たちは向き合わなければいけないかもしれないという不安だった。
「まー不安ばかり募らせても仕方なし!取りあえず私達に出来るのはドクターをぱっぱと追っ払って報告書を書くことよ」
暗くなった空気を掃うように日下部は元気な声でそう言った。
顕現装置は脳内の想像を現実に再現する機械だ。マイナスなイメージを募らせればそれだけ作戦の成功率は下がってしまうし、死人が出てしまうかもしれない。死者ゼロ人で帰還する事こそ自分に与えられた使命なのだから。
隊長のその言葉によって部下たちも改めて気合を入れなおしていた。
◎
精霊は空間震によって廃墟となってしまった街中を俯きながら歩いていた。
どんなに大きな被害が出たとしても、失ったものが命ではない限りは復興用の顕現装置によって復活させることが出来る。
そんな事は分かっていても自分の存在によって、顔も知らない誰かの何か大切なものがたとえ一過性であったとしても失われてしまうという事実には変わりないのだ。それが彼女の心を蝕んでしまう。
「…………?」
彼女の耳に何かの飛行音が届いた。ふと顔をあげると周りを隙なく取り囲んでいる魔術師たちがいた。
「あー…お前達かー…どーせ敵わないのに無駄な努力ご苦労な事だな公務員」
呆れたような口調で話す。
その言葉は顕現装置によって強化された五感を持っているASTの隊員たちの一人は拾ってしまい激高してしまう。
「何だと!?精霊が分かったように語るなぁっ!!」
それは言われたくなかった事なのかもしれない。報告書の上では精霊を追い返したという事にはなっているのだが、その実内容は精霊の周りではしゃいでいるだけで、時間が経てば勝手に消えていなくなるだけなのだ。
結局のところ魔術師はいてもいなくてもさしたる変わりはない。なんなら顕現装置によって暴れた事によって被害を広げている可能性すらある。
そのたびに無力さは実感しているし、屈辱をばねにして訓練もタクティクス面を鍛えるために綿密な勉強会だって常日頃から行ってはいるのだ。
それでしてなお、精霊の首には届かない。
「まてやめろっ!」
怒りに我を忘れた隊員は上司から指示を無視して銃を発砲してしまう。
「へー凄いなー」
撃たれる直前にドクターの右手が光り輝き始める。それは天使を顕現させる兆候だった。
天使、それは精霊が持つ見えざる奇跡の力で戦闘能力の権化、人類が精霊に勝てない理由の大半はこの存在に尽きた。
放出された光がドクターの手に収束して徐々に型取られていく。それを見た他の隊員たちは困惑の声を漏らす。
「何だあれは…」
彼女の手に握られていたのは一本のメスだった。
これまでに出てきた天使は十香の大剣、四糸乃の冷気を発生し続ける巨大な人形、七罪の箒など意匠は兎も角としてそれなりのサイズの武器を顕現させていた。
だが目の前の精霊が生み出したのは確かに刃こそついているがその大きさは手のひらサイズなのだ。これまでのパターンから逸脱している存在だった。
銃から発せられた光弾が真っ直ぐに飛んで行くのだが、それにメスの刃を合わせる。
ドガアッ!と先ほど光弾を射出した銃が破壊された。
「うわあっ!」
『ッ!?』
破壊された銃の爆発に驚いた人とそれを見て驚愕の声を漏らす人たち。相手はその場から動かず、そして直接触れなかったのに武器を破壊して見せたのだ。
「この程度じゃ私は倒せないかな…この事実は本当に残念だけど…それじゃあまぁ……」
するといつの間にか彼女の両手の指と指の間である水かき八つに挟む形で八本のメスを握っていた。
「倒しちゃうけどいいよねー?」
一方的な蹂躙劇が始まった。