その女は銀髪で、巨乳で、美人だった。
有能な秘書艦であり、優秀なメイドだった。
そしていつも献身的に、俺を支えてくれていた。
だが一つだけ、その女には一つだけどうしても我慢ならない欠点があったのだ。
「どうしてベルファストは、あんなデカい乳を見せびらかすような服を着ているんだろう」
誰に聞かせるわけでもないその問いは、虚しく消えていった。
ベルファストは献身的なメイドである。文字通り朝から晩まで、常に俺の傍にいる。つまりあの蠱惑的な2つの膨らみも、常に視界の中で揺れ動き、俺の意識を誘っているのだ。
おかげで最近は何事にも集中できず、気が付けばあの肌色を目で追ってしまっていた。
正直に頼んでみようかと思った事があった。その乳を隠す服を着てほしいと。しかし、彼女はどんな反応をするだろうか。
「ご主人様は、たかが乳が見えたくらいの事で動揺しておられるのですか? この程度の露出は、ロイヤルの上流階級ではごく普通のファッションなのですが。そんな小心者が艦隊を率いるおつもりですか? 」
妄想の中のベルファストが蔑んだ眼で俺を見てくる。いや、流石に現実のベルファストはそんな事は言わないと信じたい。しかし万が一、その可能性を考えただけで、俺の勇気は萎んでいった。
実際、彼女の服はギリギリだが隠れる所は隠れているのだ。それに対して正面から指摘をしてしまえば、俺の方が部下を卑猥な目で見る助平男とのレッテルを貼られかねない。いっそもっと痴女らしい格好をしてくれていれば、心置きなく上司として改善命令を出せるものを。
しかし、このままでいても結果は同じ事だ。今はまだ目を逸らして耐えているものの、遠からず俺は、ベルファストをあの谷間でしか認識できないようになってしまうだろう。そのときが、俺の名誉が死ぬときだ。
何か手は無いか。夢の中にまで追いかけてきたあの幻影から逃れるように跳ね起き、眠れぬ夜を過ごし、ぼんやりと輝き始める東の空を眺めていたとき、ついにその天啓は訪れた。
謀略だ。ベルファストがまともな服を着ざるを得ないような、そんな理由をでっち上げるのだ。成功の暁には、あの魔性の肉塊は永遠に封じられるだろう。俺は安らかな日々を取り戻すことができる。
これは、男の尊厳を守るための戦いなのだ。
冬の日差しが差し込む朝。俺は寒々しい執務室の革張り椅子に身を預け、湯気の立つティーカップを口に運んでいた。
視線の先にはあの女、ベルファスト。俺がこれから陥れる予定の女だ。彼女は真意の読み取りづらい笑顔を浮かべながら、静かに佇んでいた。その顔に意識して視線を留めながら、俺は声をかけた。
「ベルファスト」
「はい、ご主人様。どのようなご用件でしょうか」
「いや、特に用があるわけじゃないんだが」
僅かに不思議そうな表情を見せつつも、ベルファストは元の姿勢に戻った。いつもどおりの、平然とした姿。だが、そうしている事こそが、今は異常だった。
現在の室温は僅か3度。この部屋の空調は全て停止している。俺は外套を着込んでなお忍び寄る寒さに震えながら、薄地のメイド服姿で優雅に微笑むベルファストの顔を、雪女に出会った犠牲者の気分で見つめていた。
シンプルにして完璧な策だと思っていたのだ。
だがこの女は眉一つ動かさず冷気の中に立っていた。驚異的な精神力である。いくらなんでも完璧すぎだろう。わざわざ朝早くに執務室入りし、空調の故障を偽装し、震えながら彼女を待っていた俺の苦労は何だったというのか。
そろそろ感覚の無くなりそうな手のひらを擦り合わせながら、俺は再び彼女に呼びかけた。
「ベルファスト」
「はい、ご主人様。どのようなご用件でしょうか」
「ちょっと空調を動かしてみないか。今なら動いてくれそうな気がするんだ」
こうして俺の第一手は徒労に終わったのだった。
一つの策が失敗に終わった。だがそれは敗北ではない。次なる計略は既に用意してあった。
この時のために用意しておいた冊子を手に取り、標的に向けて何食わぬ顔で話しかける。
「ベルファスト、少し意見を聞きたいんだが」
「はい、ご主人様」
前回の仕掛けで警戒されていないか少し不安だった。一見、彼女はいつもの様子で微笑んでいる。しかし安心はできない。この女の、笑顔以外の表情など見たことは無いのだ。
「この母港に制服を定めようかと思っているんだ」
「制服ですか? 今もメイド隊や騎士隊にはそれぞれの制服がございますが」
そんなドスケベな制服があってたまるか、という言葉を飲み込むのには多大な苦労を要した。各個人の改造が激しいとはいえ、本当にあれがメイド隊の制服として通っているからタチが悪いのである。そもそも、ほぼオーダーメイドみたいになっているあれらの服を制服と呼んで良いのだろうか。
「そう、この母港には2種類の制服に加えて私服の者が入り混じっている。今は人数が少ないのもあり、特に問題は起きていない。だが、これから人は増えていく。その時、制服の違いが派閥化や軋轢の元にならないかと不安でな」
「そこで、統一した制服を作るという事ですか」
「そういう事だ。実はもう業者を探していて、いくつかデザイン案を出してもらった。最終的には母港全員にアンケートを行って採用デザインを決めるつもりだ」
そう言って、机越しに冊子を手渡す。それこそが、あの厄災の果実を封印する希望の鍵であった。
業者に言い含め、あの冊子の中身は全て胸元を確実にガードするデザインとなっている。あの中のどれが選ばれたとしても、それをベルファストは着る事になるのだ。
ベルファスト個人に服を変えろと強制するのは難しい。ならば対象を母港全体に広げることで、こちらの真の意図をカモフラージュする。木を隠すには森の中。森がなければ作れば良い。新たな制服規定ができてしまえば、あの女に逃げ場は無い。悲願は目の前、そのはずだった。
「ご主人様、このデザインはどれもダメです」
だがベルファストの言葉は、そんな儚い希望をあっさりと粉砕した。
そしてこちらが衝撃から立ち直るより早く、彼女は追撃してくる。
「この業者、おそらく
「欠陥、とは?」
「胸の部分です。
思いがけず、彼女らの制服事情のトリビアを知れてしまった。
つまりなんだ。乳がデカすぎるからこんな服着れないと。物理的に。あまりにもあまりな見落としに、一瞬意識が遠のく。
言われてみれば、用意されたデザインは全て前をぴっちり閉じたものだ。後から調整するのは難しいだろう。
「で、では、オーダーメイドで」
「それも難しいでしょう。どのデザインも、なぜか胸元の装飾が非常に多く、凝ったものですから。細かくサイズを変えればバランスが崩れてしまいます。コンセプトの段階から、デザインを再考された方がよろしいのではないでしょうか?」
猛獣を封じ込めるための檻を用意したつもりだった。しかし閉じ込めたいという気持ちが強すぎたのだろう。その檻はあまりにも小さく、そもそも猛獣を収める事はできなかったのだ。
敗北感に包まれながら、俺は投了の宣言をした。
「すまない、その冊子、処分しておいてくれ」
焦っていた。これで二度目の失敗だ。まだ策はある。制服作戦も、完全に潰えたわけではない。
しかし、それらを実行に移すには、下準備が必要だ。果たしてそれだけの時間が、俺に残されているのだろうか?
答えの出ない思考の堂々巡りを中断したのは、他ならぬベルファストの声だった。
「ご主人様、僭越ながら、ご提案があります」
「あ、ああ。なんだ?」
「この母港の近くに、メイド隊の制服を発注している店がございます。制服のデザインについてお考えでしたら、一度視察されてみてはいかがでしょうか?」
今も目の前で谷間を剥き出しにしている、この制服をデザインした店。どう考えても俺の望むようなデザインは出てこないだろう。断るための適当な理由をしばし考える。
だがその時、俺の脳内に電流が走った。この提案は、利用できる。
「そうだな。一度見てみるか。もちろんベルファストも一緒に来てくれるんだろう?」
「はい。ご同行させて頂きます」
あっさりとした了承。餌に食いついた魚を見るような気分だ。内心を隠すように、俺は大げさな笑顔を作った。
「そうだ、折角だからそのまま食事でもどうだ? ベルファストの作る料理には及ばないだろうが、雰囲気の良い店を知ってるんだ」
「ご主人様とご同席させて頂くなど、メイドとして――」
「そう言わないでくれ。有能な部下を慰労するのも指揮官としての仕事だ。俺の秘書艦として、誘われてくれないか?」
この論法はベルファストに対して効果覿面だった。しばし考えるような素振りをしてから、彼女は短くはい、と頷いたのだった。網の用意は整った。後は仕上げだけだ。
「そうそう、レストランでメイド服というのもなんだ。適当な私服に着替えてきてくれ」
素直に頷き着替えに向かうベルファストの背中を見送りながら、俺は達成感に満たされていた。
ベルファストがよそ行き用のまともな服を着て戻ってくる。俺はそれを褒め称え、もっとその格好が見たいとねだる。あの女も手放しで褒められ続ければ悪い気はしないだろう、その服を毎日着るようになる。俺に平穏が訪れる。全くもって完璧な論理だ。
(まさか、外出用の私服まであんなドスケベスタイルじゃないだろうしな)
ドスケベスタイルでした。
セーターとタイトスカート。長い足を包むタイツ。鮮烈な赤い帽子に、同じく赤いショール。ある一部分さえ見なければ、実に優雅な私服だった。しかしそのセーターはまるで上半分を切り取られたかのようになっており、彼女の肩から鎖骨、谷間までが惜しげもなく露出されていた。
今にして思えば、何故この結果を予測できていなかったのか。焦りで冷静さを失っていたとしか思えない。どうかしていた。
俺は、これからこの格好の女を連れて街を歩き、服屋を物色し、良い雰囲気のレストランで食事をしなければならないのだ。どう見ても好色な遊び人である。ホテルの鍵をプレゼントするようなやつだ。周囲からの視線を想像しただけで目眩がした。
そして、やはり俺は冷静ではなかった。いつの間にか忍び寄って来ていたその気配に、俺は全く気付けずにいたのだ。遠慮がちに肩に触れる手。そこで初めて状況を理解する。
ベルファストが、吐息のかかるほどの、すぐ傍に、いた。
笑みの消えた口元。何かを訴えかけるような瞳。普段とはまた違った威圧感に呑まれそうになりながら、俺は彼女が口を開くのを待っていた。
「ご主人様は、何か、深刻な悩みをお持ちですね?」
ああ、悩んでいる。
「その悩みは、私に関する事ですね?」
その通りだ。
「そしてそれは、私の容姿についてですね?」
大正解だ。
ベルファストは、全てお見通しだったのだろうか。俺の下手な策略も、その目的も。だとすれば、これから俺は度し難いムッツリスケベとして断罪されるのだろう。仕方のない事だ。そう思った。
しかし、彼女の台詞は想像とは違っていた。
「やはり私の姿は、醜悪なのですね」
なんだろう。変な勘違いが発生している。
「そんな事はない。君は美しい」
「では、どうしてご主人様はいつも、私に極力視線を向けないようにしていらっしゃるのですか? 私が醜くて、見るに堪えない姿だからではないのですか?」
「違う。理由があるんだ」
言い訳にもなっていない稚拙な否定。それで止まるベルファストではなかった。
「ご主人様にもっと見られたいなどというのは、メイドの分を超えた望みであると、もちろん理解しております。ですが、メイドではなく部下として、と言って頂けて、私はつい舞い上がってしまったのです。このように、慣れない着飾り方などもしてみました。でもやはり、ご主人様はすぐ目を逸らしてしまわれました。きっと、私の振る舞いは滑稽に映っていたのでしょうね」
追い詰められていた。きちんと理由を説明しない限り、彼女は納得しないだろう。しかし真実を言ってしまえば、つまり、あなたの乳が気になって気になって仕方ないから目を逸らしていたんですなどと告白してしまえば、それはそれで終わりな気がする。
覚悟を決める時が来たのだろうか。最終手段を使う、その覚悟を。
迷いを振り払うように立ち上がる。ベルファストの潤んだ瞳にしっかりと視線を合わせ、手を差し出す。
「聞いてくれベルファスト。言い訳に聞こえてしまうかもしれない。だが俺は本当に君の事を美しいと思っている。容姿だけじゃない。その献身的な姿。完璧であり続けようとする心。そして」
その時、不意にバランスが崩れる。足から力が全て抜けてしまったかのように、体が傾いてゆく。
「ご主人様!?」
慌てて支えるベルファストの体にしがみつき、なんとか倒れる事は避けられた。密着した体から伝わる体温に少し顔が熱くなる。短く謝りつつ体を起こし、椅子に座り直した。
その時には、既に目的は達成されていた。
「ベルファスト。少し、服が乱れている」
「えっ」
彼女の胸の先をギリギリで隠していたセーターは、今やずり下がり、その中に隠されていた全てを露わにしていた。先ほどの接触が原因だった。
いや、正確には俺がこっそり手を引っ掛けたのだ。
これこそが、俺の最後の策だった。
慌てて服を直すベルファストから紳士的に視線を逸らしながら、俺は実に白々しく押し付けがましい台詞を並べ始めた。
「すまない。俺を助け起こそうとしたばっかりに、君に恥をかかせてしまった。本当に申し訳ない。しかしだねベルファスト、君の服装は少しこういうアクシデントに弱いと思わないかい? 外出中や来客中にこんな事が起きたら大変だろう。普段からもっと露出を控えた服を着た方が良いんじゃないかな? そうそう、実は前から何度も少しずり下がりそうになっててね、それで俺は目を逸らして――」
聡明な彼女は今や全てを察しただろう。俺の悩みの正体、いつも目を逸らしていた理由。俺の今日一日の行動の真意、その全てを。しかしそれはもはや問題ではない。それを指摘する機会を与えることはもう無いのだから。
そして確かなのは、俺が彼女に真っ当な服を着させるための大義名分を手にしたという事。それだけだった。
人の服を脱がせた挙げ句に説教をしながら飲む紅茶はとても美味しかった。
翌朝、朝日の差し込む窓の外を眺めながら、俺は実に清々しい気分でいた。
あの後しばらく台所の生ゴミを見るような視線を向けてきていたベルファストだったが、結局ちゃんとした服に着替えてきて外出することとなった。
もはや制服を発注する必要もなくなったが服屋を見て回り、何着か彼女にプレゼントもした。贖罪の意味も込めて。
奮発したレストランで料理が運ばれてきた頃には彼女の様子もすっかり元に戻り、いつもの微笑で雑談に付き合ってくれるようになっていた。
そして今日、ベルファストは胸の隠れたメイド服で出勤してきた。
俺はついにあの怨敵の誘惑に打ち勝ったのだ。
上機嫌でティーカップを傾ける俺に、ベルファストが近づいてくる。こころなしか、いつも以上に輝いている笑顔を浮かべながら。
何故か急に寒気がした。
「ご主人様、本日付けで発行する通達文のご確認をお願いしたいのですが」
差し出された紙にはこう書かれていた。「本日付けで、母港内において乳房の上部を露出した服装を禁ず。これは目の前でうっかり転んだ男性の手が引っ掛かり、破廉恥な格好になってしまう危険を防止するためである。秘書艦 ベルファスト」
「待て、なんだこの規則は。聞いていないぞ」
「申し訳ありませんご主人様。秘書艦としての権限で進めていたのですが、うっかりご主人様にお知らせするのを忘れておりました。実はもうこの紙も母港内の各所に掲示されております」
顔から血の気が引いていくのが、はっきりと感じ取れた。
この文面。そして突然服装を変えたベルファスト。母港の誰もが、何が起きたかを察してしまうに違いない。直接言いふらさずこんな手段に出るとは。なんと陰湿でタチが悪いのだろうか。
女の怒りを甘く見ていた。気付けばベルファストの後ろには羅刹のような幻覚が見えている。俺はもはや怯える事しかできず、いつものように微笑む彼女を見つめていた。
「よかったですねご主人様。これでもう乳に惑わされる事はありませんよ」