コツコツと、控えめなノックの音が室内に響く。
夢の世界をゆらゆら漂っていた意識が、ゆっくりと覚醒していく。昼下がりの穏やかな日差しに誘われて、すっかりうたた寝してしまっていたらしい。
何度か頭を揺すり、冷めたティーカップの中身を飲み干して眠気を振り払う。そして、ようやく思い出した。
今日は、新しいメイドとの顔合わせがあるのだった。
いつも甲斐甲斐しく注意してくれていたメイド長は、あいにく外出中だ。どうにかキリッとした表情を取り繕い、扉の向こうに声をかけた。
「どうぞ、入ってくれ」
ドアノブが回り、執務室の重厚な扉が静かに開いて行く。その影から姿を現したのは、雪のような空気を身にまとう、白髪で巨乳の少女だった。
「本日付けでこの母港に配属される事となりました、シリアスと申します。ロイヤルメイド隊の一員として全力でご奉仕させて頂きます。誇らしきご主人様」
生真面目、というのが彼女の第一印象だった。キビキビとした動作。定規でも入っているかのように伸びた背筋。体幹を全く揺らさない歩き方。俺が見慣れているメイドの所作とは、似ているようで決定的に違う、無骨な動き。
昨晩知った彼女の前歴、そこに記されていた一つの単語が記憶から浮かび上がってきた。可憐な顔写真からは想像ができなくて、驚いたものだ。
そうか、これが元騎士の立ち居振る舞いか。
いつの間にか観察に夢中になっていた自分に気づき、慌てて目を伏せて咳払いをした。この母港を率いる者として、きちんとした対応をせねば。
「君をこの母港に迎えるにあたって、最初に一つ、どうしても訊かねばならない事がある」
シリアスの纏う空気が、固くなった。彼女もきっと、訊かれる事は予想していたのだろう。焦点の曖昧な瞳が、不安に揺れている。
あまり勿体を付けても仕方がない。単刀直入に切り出した。
「なんだその服は」
シリアスの姿は、栄えあるロイヤルメイド隊の証たるメイド服ではなかった。
青みがかった暗い鼠色を基調とする、エキゾチックなドレス。東煌の伝統衣装を思わせる染色と文様が、ロイヤルでは見慣れぬ独特の雰囲気を放っている。
しかし、東煌で見たそれと比べると、目の前の衣装は異常に布地が小さかった。そしてあろうことか、胸の前に頼りなく垂らされた二枚の布の先は、全く固定がされていないかのように揺れていたのだった。
「申し訳ございません誇らしきご主人様。実はメイド服を用意できず、やむを得ず私服姿で参りました。この不出来なメイドをお叱りくださいませ」
「いや、別にメイド服でないのは構わないが。しかし」
問題はそこじゃない、その言葉が喉につっかえる。
至って真面目な口調でピントのズレた謝罪をしてくる彼女の姿は恐怖でしかなかった。
「シリアス、この母港の服装規定を昨日まで把握しておりませんでした。研修の際に支給されていたメイド服も、他の私服も規定にそぐわないものでしたので、急遽この服を……」
服装規定。少し前に色々あって制定される事となった「胸の上部を露出してはいけない」という規則。通称、北半球禁止法。
確かに今シリアスの北半球は隠れている。隠れているが、いや本当に隠れているのだろうか。本当に、これ以外無かったのか。
異界常識を目の当たりにした衝撃で、思考がおぼつかない。何をどうすればこれがどうにかなるのか分からない。結局、口から零れるのは諦めの言葉だった。
「わかった。今はそれでいい」
それが、新たな面倒の始まりであった。
シリアスは真面目で良い子だった。熱心で献身的だった。ただちょっとだけ、不器用で思考回路がおかしかった。
仕方ない。騎士からメイドへと転職したばかりで、経験不足なのだから。優秀な先輩メイド達に教育してもらえば、いずれ立派なメイドに成長するだろう。そんな風に考えていた。
とはいえ、成長を待つ間には、無視できない犠牲もある。
目の前で熱々の紅茶を御馳走されている絨毯の事ではない。割れて散らばるティーカップの事でもない。シリアスの姿を見るたびに悲鳴を上げている、俺の理性の事だ。
床に転がったシリアスから慌てて顔を背ける。
あの服の異次元の上部構造が転倒時にどうなるか。考えるまでもない事だった。
そうして待っていると、やがて彼女は起き上がり、一心不乱に謝り始める。流石に目を逸らすわけにもいかず、シリアスに向き直るしかなくなる。
震えながら謝罪の言葉を述べるシリアス。震える布。震える乳。煩悩の化身が踊っている。彼女を宥めている間ずっと、それは視界の端で存在感を放っていた。
やはり、なんとかしなくては。
シリアスの新しいまともなメイド服は注文済みだ。だが、それが届くより前に、俺の紳士たる精神が屈してしまいそうである。
策が必要だ。新たな魔物を封印するための。
まあ今回は、そう難しい事ではないはずだ。なにせシリアスは素直な子だ。多少変な頼み事をしても、特に気にしないだろう。回りくどい手段は使わず、正面から対処する事ができる。実に気楽な話だ。
そう、思っていた。
「つまり、裸エプロンをご所望なのですね。 誇らしきご主人様」
「違う。普通に着てくれ」
なんとなくこの反応は予想できていた。
それはさておき、今回のこれは策とも言えないシンプルな話だ。エプロンを着せてしまえば露出の大部分はカバーできる。見た目もメイドっぽくなって一石二鳥。これにて一件落着。
ほっと息をついて椅子に座り直し、ティーカップを求めて手を伸ばした。その時だった。
まるで、怪力自慢がエプロンを真っ二つに引き裂いたような音が室内に響いた。
顔を上げると、まさしくそんな光景が広がっていた。
「も、申し訳ございませんっ! 誇らしきご主人様に頂いた大切なエプロンが大変な事に……どうかこの不器用なメイドを折檻してください!」
どうやら一筋縄ではいかないようだ。
あの後も俺は、マント、ケープ、ストールなど、手当り次第に手近な衣類をシリアスに与えていった。だが、生き残った物は無かった。それが運命であるかのように。
あるいは、砲弾の直撃をも無傷で防ぐ
本当に運命の女神が、シリアスの乳を隠させまいとしているのだろうか。なんとも奇妙で間が悪い話だった。
シリアスの脅威は、もはや抑える事はできない。そう結論せざるを得なかった。だが、そこで諦める俺ではない。次なる策は既に始まっていた。
「誇らしきご主人様。そのお姿は一体……」
理解できない物を見る目で、シリアスが尋ねてくる。まあ、今の俺の姿を考えれば当然の反応か。安心させるよう、なるべくにこやかな声で返事をしてやった。
「ああ、これは重桜の伝説にある、天狗と呼ばれる超人を象った仮面なんだ」
生粋のロイヤル人にとって、天狗の造形は奇妙に映るのだろう。シリアスはますます困惑の表情を深めている。しかし今の俺は、そんな事が気にならないくらいに、歓喜に震えていた。
購買部の土産物コーナーで見つけたこの仮面。実のところモチーフなどは何でも良かった。重要なのは、この仮面の覗き穴が非常に小さいという事、それだけだった。
仮面越しに、シリアスの顔を真っ直ぐ見据える。絹糸のような髪、ハの字になった眉、揺れる瞳、ツンとした鼻、慎ましい唇、そして、細い首筋。それが見える全てだった。その下にあるはずの果実は、仮面に狭められた小さな視界には映らない。
つまりそういう事だ。封じられない乳が視界に入ってくるなら、視界の方を制限してしまえばいい。逆転の発想である。
初めてだった。何にも気を取られる事なく、真っ直ぐシリアスの顔を見たのは。
いつの間にか、その顔から困惑の色は消えていた。目には決意が宿り、頬は真っ赤に染まっている。ゆっくりと、唇が開いた。
「つまり、シリアスをご所望なのですね。誇らしきご主人様」
流石に理解ができなかった。
「仮面とは、高貴な方が己の素性を隠すための仮初めの顔。そして舞踏会で卑しい身分の少女と出会い、一夜の夢を過ごすのです。新しい同僚から借りた本にそう書いてありました。であるなら、誇らしきご主人様が仮初めのお顔を身に纏っておられる事。それはつまり、これからシリアスと男女の『まぐわい』をお望みであるという事なのでしょう」
恋に恋する乙女のロマンチックな妄想かと思ったら、最後だけ嫌に直接的だ。
だいたい、天狗鼻の貴人とのラブ・ロマンスなど存在するのだろうか。
「それに、その仮面の雄々しくそそり立つ鼻は、男性自身の隠喩であると耳にしたことがあります。今、誇らしきご主人様もきっとそのように猛々しく……」
知っていたのか、天狗。
放置していたら一晩中でもよく分からない事を言い続けていそうなシリアス。その様子に呆れながらも、俺の心には余裕があった。
仮面の力を借りた今なら、動じずに彼女を見ることができる。紳士的にそっと頭を撫でて、不適切な発言を優しく窘めてやろう。そんな理想的な光景を思い浮かべながら、無造作に足を踏み出した。
それが、良くなかった。
あまりにも狭い視界。完全な死角となった足元に転がる障害物。気付いた時には、どうしようもなく体勢は崩れていた。
しかし、転倒の衝撃が訪れる事は無かった。いつの間にかシリアスの顔がすぐそばにあった。あの一瞬で駆け寄った彼女が、俺を支えてくれたのだ。ようやく状況を理解する。
彼女の助けを借りて、なんとか身を起こす。だが、シリアスはまだ、俺の胴を掴む手を離してくれない。もう片方の手で、そっと仮面を外された。
「仮面を付けたまま動かれては危険でございます。どうか、このようなものを付けるのはお止めください。誇らしきご主人様」
仮面の魔法が解かれる。視界が開放される。それなのに、見えるのはシリアスの顔だけだ。
その顔は、何か言いたいようだった。
長いまつげの一本一本が判別できる。仄かな花の香りが漂ってくる。気まずさに、目が逃げそうになる。それを制するかのように、シリアスは口を開いた。
「誇らしきご主人様は、シリアスの事がお嫌いですか? 失敗してばかりの、卑しいメイドはお嫌いですか?」
嫌いなものか。嫌っているなら、まともな服が出来るまで自宅待機にするなり、無人の倉庫整理に放り込むなり、縛り上げて放置するなりしている。
だが、彼女にそう感じさせてしまったのは、俺の責任だろう。部下から目を逸らし続けている俺が『誇らしきご主人様』とは、実に不釣り合いな呼び名だった。
「シリアスを嫌いに思ったことなんてない」
「でしたら、どうかシリアスをご所望ください。メイドは夜伽に呼ばれるものだと、それも古株より新人の方がクセがついてなくて良いと、シリアス勉強しました」
相変わらずの異次元論理。だけど今は理解できた。きっとシリアスは、役に立てたと思えるなら何でも良いのだろう。だからといって、そんな弱みに付け込んで、彼女に手を出すわけにもいかなかった。
彼女をきちんと見てやれる方法。彼女に役立っているという実感を与える方法。その両方を満たす方法が、確かにある。しかしそれは苦い犠牲を伴う手段だった。
後は、決断するだけだ。
一時間後、俺は二組の視線に晒されていた。
片方はシリアスからの熱い視線。もう片方は、映えあるロイヤルメイド隊のメイド長にして俺の第一秘書艦、ベルファストの視線だった。そして、その視線を敢えて形容するなら、それは台所に沸いた害虫に向ける視線だった。
「この状況について、ご説明頂けますか? ご主人様」
ベルファストが口火を切る。長期間の委託任務から帰ってきたばかりのはずだが、その声は少しの疲労も感じさせなかった。
「シリアスが望んだんだ。夜伽がしたいって」
「メイドに手をお付けになるのでしたら、普通に寝室へ連れて行かれればよろしいのではないでしょうか? どうしてこのような事に?」
やっぱりこの女のメイド観もおかしい気がする。指摘する勇気は無いが。俺が今から言う事も相当頭がおかしいのだし。
「ベルファスト。実は俺は、緊縛プレイが大好きなんだ。縛り上げた女を放置して眺めるのが性癖なんだ」
「は?」
「だからなベルファスト。俺は縛られた女を眺めているのが、一番興奮するんだ」
シリアスが動けば胸が揺れる。何かで覆おうとしてもすぐに破いてしまう。なら、身動きを取れないようにしてしまえばいい。
しかし、それだけでは駄目なのだ。このメイドとエロが頭の中で同じ引き出しに入っているシリアスに、自分が仕事をしているという実感を与えなければならない。
つまり緊縛放置プレイである。毎晩この性癖を熱く語っていた軍学校時代の同輩に、今だけ感謝の気持ちを捧げたい。
シリアスは後ろ手に縛られた状態で、部屋の隅に鎮座している。
もしかしたら縄や手錠も壊されるかと不安だったが、幸いその心配は無さそうだった。流石に彼女にも不可能なのか、それとも緊縛プレイという題目を守っているだけだろうか。
上気した頬や荒い吐息、時々体を蠢かせる様子などは実に蠱惑的だったが、まだなんとか耐えられる。そのレベルに収まってくれていた。
でもやっぱり目に毒だから、明日までに覆い布を用意しておこう。
ベルファストもどうやら俺の真意を悟ったらしい。こっそりため息をついてから、乱雑に放置されていたティーセットに興味を移している。
その様子に満足して、俺は宣言した。
「では、シリアスの新しいメイド服が届くまで、これがシリアスの勤務内容ということで」
朝日が輝いている。窓から差し込む日差しが部屋の全てを輝かせている。世界は輝いていた。
今日ついに、シリアスの新しい服が到着した。再び俺は魔の誘惑に打ち勝ったのだった。
来客のたびに隣部屋に痴態を転がしていく苦労も、毎日昼食をあーんしてあげる気恥ずかしさも、今となっては微笑ましい記憶の1ページである。
なお、本日付けで母港内での乳暖簾は禁止される事となった。まあ念の為というやつだ。まさかあんな格好をするような奴、流石のロイヤルにも二人と居ないだろう。
しかし、ふと考える。果たしてこれが最後の乳だろうか。奴らは俺の想像も付かない手で、いつの日か、再び俺の目の前に現れるのではないだろうか。その時に備え、俺も自分の精神力と知恵を磨かねばならない。
さしあたっては、目の前でまた転んで、そのまま自分で体を縛り始めたシリアスを上手く対処しなくては。