夏休みの話
夏が舞台の小説を読むたびに思うのは、昭和までに作り上げられてきた日本の夏は、ここ数年でことごとく死に絶えたという悲しい現実だ。
扇風機だけで過ごせる8月。風鈴の音やうちわで誤魔化せる夏の暑さ。冷房をつけるのは暑くなってから。ある種の誰もが持つはずの日本の夏というやつは死んだ。
今や冷房は28度なんてまじめに守っているところはないし、律儀に7月に入るまで冷房を入れないところもない。熱中症の予防という概念がもちこまれて、水を飲むなという謎の圧力は淘汰されたし、帽子を被らない人間はいなくなった。今や喉が乾く前に飲めと言われるようになり、授業中に水分をとるよういわれる。注意されるのはテストのときくらいだろうか。
暑すぎてプールができない、なんてニュースもあたりまえになってしまった今、35度を超えてもそんなに驚かなくなってきた。さすがに去年の連日の40度越えは驚いたけど、冷房がガンガンにきいた部屋で閉じこもることに慣れて仕舞えばそれまでだった。
そんな環境で在りし日の夏を小説として読むにあたり、いつも僕は没入感を大切にしている。五感を遮断して、現実に引き戻すような全てから目を逸らし、目で追う。そのためにはどうしても電子書籍ではなく紙の本が必要だった。電子書籍の読み上げ機能は便利だが、ページをめぐる行為がすきな僕にはこちらに軍配があがるのだ。
もう少しで物語は佳境を迎える。本を置いた僕は魔法瓶の水筒を探した。確かまだ残っていたはずだ。ここでしばし僕の中で本の世界は在りし日の日本の夏にまで遠ざかってしまう。この一瞬の冷え込みがほんとに嫌いなんだが熱中症になるわけにはいかない。頭が沸騰したら二度と脳の皺は戻らない。
すっかりぬるくなってしまった麦茶を飲み干す。そういえばまだ残ってたな、日本の夏。絶滅危惧種の夏。空っぽになってしまった魔法瓶をしまい、僕は前を見た。
夏期講習の先生がやってきたのだ。藁半紙が前から後ろに配られていく。指定された時間までひたすら解いて、あとからまる付けついでに先生の解説が挟まるようだ。実力テストの前にテストの傾向と対策をするのはダメな気がするが、一応建前は発展と基礎コースに分け、受験生の苦手なところを重点的に学ぶわけだからセーフなのかもしれない。
パブロフの犬のように学年とクラスと名前を書き、僕はしばしテストに没入した。これだけは絶対に絶滅危惧種にはならないだろうという予感がある。
2020年まではセンター試験だったが僕らの年から複数のテストを受けてその成績でいい者を選ぶとかいう新しい運営に変わってしまったから、先生たちも手探り状態なんだろうと伺える。今年は半日の夏期講習がお盆を除いた全ての平日に行われていたからだ。
「はい、そこまで。今から解説するぞー」
先生が黒板に正解を書いていく。僕はひたすら解説を藁半紙にメモする機械と化す。そうすればあっというまだ。昼休みのチャイムがなる頃には、先生から課題が配られていた。夏休みの宿題に加えて課題がどんどん追加されていくのは正直きついがこれが受験生というやつなのかもしれない。あとはこれを2回繰り返せば16時には帰ることができるはずだ。
お茶、なくなったんだった。仕方ない、売店横の自販機にいこう。僕は席を立つ。
こういうときに限ってお茶と水が売り切れているのはどうにかならないんだろうか。渋々僕は消去法でリンゴジュースを選んだ。がさごそ紙パックがおちた場所を探っていると、後ろから声をかけられた。同じクラスの敦田だ。
「今きたのか、敦田」
「ああ、妹が今日検査日で付き添いしてたんだ」
「そうか、今日だっけ。敦田妹はどうするんだ、16時まで」
「あ、私、図書室で時間潰してるから......」
ぺこりとお辞儀をしてくる妹に僕は返した。
「なら、急ごう。今のうちにノート写すだろ、課題もでてるし」
「いつも悪い」
「いいって、それくらい。友達だろ?」
敦田は笑ってうなずいた。
「お昼は?」
「食べてきた」
「病院のレストランで食べてきました」
「そっか、僕はまだだからノート写しててくれ」
僕がリンゴジュースを見せると珍しいチョイスだなと笑われた。
「仕方ないだろ、売り切れてたんだよ」
「なら、これ」
さしだされたのはお茶だった。
「ノート代、これでいいか?」
「さすがは敦田。米にリンゴジュースは合わないから助かった。ありがとう」
僕は敦田妹と別れて、敦田と夏期講習の教室に入ったのだった。
「あ、いたいた!」
僕が教室に入ると基礎コースにいるはずの太宰が僕の席の近くにいた。近くの椅子を引っ張ってきているあたり、一緒に食べる気らしい。それはいいんだけど広げてるノートがミミズがのたうちまわったような惨状なのはどういうわけだ。
「お、敦田も一緒か、ちーっす」
「また寝てたな、太宰」
「う、うるせえなー、仕方ないだろ!数学は聴いてるだけで眠くなんだから!」
「で、なんでそれを僕の机に広げてるんだ、太宰」
「いつものことだけど、全然覚えてないから課題わかんねーんだ。教えてくれ、ふたりとも!このとーり!」
「基礎コースなんだから、あっちのやつらに聞けよ」
「そういわずにさー!な、な、頼むよ!」
「敦田、ノート渡しとく。次までに返してくれ」
「わかった、ありがとう」
「とかいって僕に書かせる気満々じゃないか?僕らは受験生なんだぞ、太宰。大丈夫なのか?少しは自分で考える癖つけろよ」
「わかってる、わかってるって!でもどこがわかんねーんだか、それすらわかんないんだから仕方ないだろ!!」
「逆ギレするなよ」
「頼むってー!」
「ああもう、耳元で騒ぐなうるさいな。わかったから口を閉じろ」
「サンキュー、ありがとう!さすがは優等生!持つべきものは友達だな!!」
僕はため息をついた。いつもこの調子なのだこいつは。席に着いた僕はお昼を食べながら太宰の課題を手伝ってやることにしたのだった。残りの2限分もよろしくと去り際に言われてしばきたくなったが太宰には逃げられてしまった。
「ノート返すよ、ありがとう」
敦田が笑いながらノートを返してくれた。聞いたら全部写し終えたらしい、さすがは敦田だ、太宰とは頭の出来がちがう。
「午後の講習の課題、今度は僕も手伝うよ」
「そこは僕が変わるよじゃないのか、敦田」
「僕はきみほど根気強く教えてやれないからね。どうせ閉館時間まで図書館にいるんだろ?なら同じじゃないか、妹もつれてくよ」
「同じじゃない、全然同じじゃない。また本読む時間が削られるじゃないか......」
「それは太宰が見捨てられないきみが悪い」
「よくいうよ」
ためいきをついた僕に、隣の席の磯野上が笑った。
「ほんとに仲良いよね、きみたち」
「まあ、友達だしな」
「青春の一ページって感じだね、いいことだと思うよ。平穏な日常って感じでさ」
「守りたい日常的な」
「そう、それ」
「前から思ってたけど、磯野上と敦田ってあれか?付き合ってるとか?」
「は?」
「え?」
「まてまてまて、なんでそうなるんだよ!」
「なんでそうなるの!?ちがうよ!」
「だって、なんかこう、変なところで意思疎通ができてるよな、お前ら」
磯野上と敦田は一瞬押し黙り、顔を合わせた。
「断じて違うからな、そこだけは否定しとく」
「そうだよ、違うからね!?」
「じゃあなんで一瞬黙った、お前ら」
きみのそういう鋭いところ、ずってまえからひやひやしてたんだよ、と磯野上からいわれるのは5ヶ月後の話である。