出来上がったカレーを詩穂が盛り付け、それを
「んっ……辛いっ!」
「たしかに、けっこうビリッとくるわねぇ……」
口に運んですぐに感じたのは香辛料の刺激と香り、ビリビリと舌に伝わる辛さ。普段辛いものを食べない音羽にとって慣れていない類の味で、額から一気に汗が噴き出る。だが、咀嚼して飲み込んだ後に彼は目を輝かせる。
「でも……おいしい!」
たしかに辛いが、その中にしっかりとした旨味がある。マルガレーテにより手を加えられたそのカレーは、元々の詩穂の味を壊さない絶妙なバランスで辛さが調整されており、舌が痛む感覚も徐々にクセになってくる。音羽の中で完璧だと思っていた味に更なる一手が加えられたそれに、音羽も詩穂もスプーンを止めずに食べ進めていた。
「当たり前じゃない。私の好きな味に変えたんだから」
「たまには辛いカレーも良いわね! 主人が食べたらびっくりするかも?」
「お父さんって、辛いの大丈夫なのかな?」
「人並みくらいかしらね。好き好んでは食べないけど、このカレーなら……きっと美味しいって言ってくれるはず!」
「ふふっ。そうだと良いね!」
背筋を伸ばし、黙々とカレーを口に運ぶマルガレーテの所作。その美しさに音羽は暫し見とれてしまっており、彼の視線に気付いたマルガレーテはちらりと目線をやって眉間に皺を寄せる。
「……なに? 食べてるところあんまり見られたくないんだけど」
「あっ……ごめん……」
音羽はすぐに正面を向いてマルガレーテから目を逸らすと、隣からこれでもかというくらいに大きな溜息が耳に入る。
「まったく……マナーがなってないわね。
一通り喋り終えてから再度スプーンを口に含む彼女に、礼儀作法の習熟度の差を痛感させられる。自分達の母国である日本とオーストリア……それぞれに細かな差異はあれど、まだ中学生という身分でしっかりと食事時のマナーを身に付けているマルガレーテの勤勉さに舌を巻く。
「うぅっ、耳が痛い……その、綺麗だなって思って……食べ方も、振る舞いも」
「当然でしょ。この先恥をかきたくないんだったら、最低限のマナーは身に付けなさい。今のあなたとお店で同席したら、迷惑ったらありゃしないわ」
「だ、だよね……じゃあ、ちゃんとマナーが身に付いたら僕とご飯食べに行ってくれるってこと?」
「はぁ? 何言ってるの」
音羽の発言を受け、マルガレーテは真顔で言葉を返す。
「ごめんっ……やっぱ嫌だよね……」
「別に嫌とは言ってないけれど……というか、そうやってすぐ落ち込むのやめて! カレーが不味くなるでしょ!」
「ひぃっ! ごめんなさい!」
「あとすぐ謝らない! 謝罪を短いスパンで繰り返すと、その程度の人間だとみなされるわよ。もうっ、あなたと話すと調子が狂う……」
呆れたような声音でそう言ってから残り一口となったカレーを飲み込み、麦茶が入ったコップに口を付けるマルガレーテ。両者の会話を向かいの席で眺めていた詩穂は、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「やっぱり仲良しなのね、2人共」
「けほっ、んんっ……」
詩穂にそう言われて驚いたことで麦茶が気管に入り、咳き込むマルガレーテを見て音羽が慌てるも、彼女は自身の側に伸びていた音羽の手をバシッ、と強めに跳ね除け、両の拳をテーブルに打ち付ける。
「違います!! 誰がこんな……」
「て、テーブルを叩くのはあんまり良くないとおも……」
「わかってるわよあなたに言われなくても! 誰に向かって口聞いてるの!」
「ごめんなさいっ……そんなすぐ怒らないでよぉ……」
控えめな声で指摘してきた彼に怒声をぶつけ、即座に縮こまる音羽。2人の漫才のようなやり取りに詩穂は優しく笑む。言葉遣いやマナーは身に付いているものの、感情が昂るとそれがすぐ顔や声に表れるマルガレーテは、詩穂にとっては等身大の少女に思えてなんだか微笑ましい。音羽が今まで関わったことのないタイプの人物に思え、詩穂は今思ったことを口にする。
「うふふっ。音羽にとって、マルガレーテちゃんは良い刺激になるんじゃない?」
「しげき?」
「そう。このカレーみたいに、ビリッとした刺激が良い影響を与えることもあるの」
「たしかに……マルガレーテさんが居なかったら、この辛いカレーを食べることなかったと思うし」
「でしょ? 同じ人と関わって、同じ日常を過ごすのも良いけれど……人によっては、変わり映えしない生活は退屈なものよ? どんなに美味しい料理でも、毎日食べてればいつか飽きちゃうじゃない。それと一緒!」
いつもの平穏な日常、変わらない人間関係。それらはかけがえのない、大切で尊いものであるのは確かだが、逆に言えば変化のない生活、安定した暮らしや関係は人によっては停滞していると感じる者も中には居る。そういう価値観を持つ者にとっては、変化のない人生ほど退屈なものはないだろう。マルガレーテは詩穂の言葉を聞いて、深く頷いていた。
「同感です。喩えもすんなり腑に落ちました。日頃の教育の賜物ですね」
「あらマルガレーテちゃん、嬉しいこと言ってくれるじゃない! あ、お皿がもう空ね。カレーおかわりする?」
「ええ。いただきます」
「おぉっ! すごいね……」
空になっていたマルガレーテのカレー皿を手に取り、キッチンへ向かう詩穂を目で追いつつ、横で感心したような声を出した音羽に返答する。
「なんの感動? よく食べて、よく動く。歌う為の身体作りの基本よ。あなたは随分細身のようだけど、ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ……? マルガレーテさんみたいに鍛えたりはしてないけど……」
「甘いわね。作曲も相当にエネルギーを使うんだから、体力はあって然るべしよ。って、何でこんな基礎中の基礎を私が説明しなきゃならないのよ……」
怪訝そうに頬杖をつきながら目を閉じたマルガレーテだったが、はっと何かに気が付いて音羽の身体にまじまじと目をやる。
良くも悪くも無駄な肉が一切ない細い身体。筋肉が付いているとはとても思えない風体だが、逆にそれがマルガレーテにとって違和感を生む。作詞や作曲はかなりの体力を消費し、疲労も大きい作業故に母国では音楽をやりつつ身体を鍛えている者は数多い。しかし、音羽は何もトレーニングをせずともあれ程のクオリティーの曲を生み出している。
貧相に見えて意外と体力はあるのか、それとも絶対音感と共感覚の2つ持ち……母国のオーストリアで研究が進められた上で名付けられた『絶対』を超越した比類なき才能、『超越音感』がそれを可能にしているのか。どちらかと言えば後者が起因しているのではないかとマルガレーテは見ているが、どちらにせよ彼が持つその圧倒的な技術は、彼女の興味を強く惹くものだった。
「マルガレーテさん……?」
「……面白いじゃない。東音羽」
「ど、どうしたの?」
じっと見つめられた上に、急に「面白い」と言われた音羽は何がなんだか分からず首を傾げる。
「あなたの作曲技術は認めてあげる。あなた程の実力者は、きっと世界で数えるほどしか居ない」
自分が、特定個人に対してこのような称賛をしたことがあっただろうか。そのくらい、この東家の一人息子の持つ技術をマルガレーテは高く評価している。それ故に、ねじ伏せてみたい。完膚なきまでに叩き潰してやりたい。恐らく現代において最高峰の音楽の才を持つ彼を、自らの歌で。
「だから、私が全ての存在を賭けて思い知らせてあげるわ。私の歌こそが、正しいってことをね」
マルガレーテがどのような思いでそう言ったのか、音羽は彼女の声に内包された『色』で理解する。これは、宣戦布告だ。一切の情けも容赦も妥協も捨て去り、『Liella!』に勝利してみせる。そんな熱が籠った言葉だった。それを音羽は静かに呑み込んで、頷く。
「そっか。音楽に正しいとか、正しくないとかがあるのか……今の僕にはまだわからない」
音楽に勝ち負けがあることを、音羽は『ラブライブ!』に出場して学んだ。痛いくらいに、その要素が身に、心に刺さっている。けれど音楽に『正しい』や『間違っている』というものが存在するのか、正直分からない。一概にそれらの要素で音楽を表して良いものなのか。疑問は尽きない。今の自分では分からないし推し量れもしない。
分からないからこそ、音羽は自分の中で1つ、決断を下す。
「だから僕は、君と向き合う。その上で、音楽はどういうものなのかって答えを出したい。僕は僕として……『Liella!』として、君と戦う」
彼の瞳に、揺らぎは一切なかった。彼女と向き合い、そうして答えを出す。言葉では伝え切れなくても、分かり合えなくても、同じ音楽でなら対等に向き合うことができると考えた音羽の精一杯の返答であった。
「向き合う、ね……そんな甘ちゃんな考えでいられるのは、いつまでかしらね」
「たしかに甘いかもしれないね。でも、僕は僕のまま……頑張り続けるって決めてるから」
音羽は微笑を浮かべて、マルガレーテの皮肉に応じる。先程は怒声に怯えて萎縮していた人物と同じとは思えない程の強かな言葉。柔和な笑みと共に宿した強い意志。この男は、つくづく彼女の興を削がない。
「……ふっ。しばらくは、退屈しないで済みそうね」
東邸に来て以降ずっと顰めっ面が絶えなかったマルガレーテが初めて、音羽の前で笑った。
「カレー、ご馳走様でした。お礼は近いうちに必ず」
3人共カレーを食べ終え、食休みも済んだマルガレーテは帰宅する為に玄関で靴を履き、それに続いて音羽もスリッパから外靴に履き替える。
「いいのよお礼なんて。私が好きでそうしてるだけだから。今日みたいに、また遊びにいらっしゃい? いつでも歓迎するわ!」
「は、はい……お邪魔しました」
またいつでも遊びに来るよう言われたマルガレーテは社交辞令として当たり障りのない言葉を選び、ぺこりと頭を下げた。
「ふふっ。ありがと! それじゃ音羽、マルガレーテちゃんをしっかり送ってあげてね!」
「うん! じゃあ、行ってきます!」
「それでは、失礼いたします」
元気に手を振る詩穂に音羽は手を振り返し、マルガレーテは軽く会釈をして家を出る。
夜になってすっかり暗くなった道を2人が並んで歩く。周囲に人が居らず、夜で音の少ない住宅街で歩を進める彼等の間に気まずい空気が流れる。しばらく歩いてから、音羽が恐る恐る口を開いた。
「あの……色々ごめんね、マルガレーテさん」
「まったくよ。お陰で今日やるつもりだったトレーニングが丸潰れだわ」
「ご、ごめんなさい……」
家から出て早々に苦言を呈され、半ば強引に引き留める形になってしまったことを謝る。また嫌味や皮肉が飛んでくるかと思い身構えると、マルガレーテはふん、と鼻を鳴らして言葉を紡ぐ。
「良いわよ、別に。明日の分と合わせてトレーニングすれば問題ないし、今すぐ帰る選択をしなかったのは私の落ち度。あなた達のせいじゃない。まぁ、少し強引だったのは否定しないけれど。……でも」
音羽を追い越すように歩くスピードを速め、彼と少し距離をとったところでマルガレーテが足を止めて彼の方へ振り向く。
「夕飯をご馳走してもらったことは、素直に感謝するわ」
「マルガレーテさん……」
強引ではあったが、自分を家に招き入れて夕飯までご馳走になり、且つ味を自分好みに変えるのを受け入れてくれたことに関しての謝意を述べた。
経緯はどうあれ施しを受けたのは確かだし、何より元『白い歌姫』で、今は東家の人間である詩穂とコンタクトをとれたのは大きい。マルガレーテにとって悪いことばかりではなかったし、音楽界の名家である東家とのパイプができたのは身内に胸を張って報告できるだろう。スケジュールが崩れはしたが、自身の思惑や打算、それらが少し動き出したと考えることで手打ちとした。その上で、マルガレーテは音羽に向けて言葉を続ける。
「勘違いしないで。さっきも言ったけど、私はあなたと馴れ合うつもりはない。受けた施しはいずれ返すつもり。でもそれはあなたにじゃなくて、あくまで
「う、うん……わかったよ。あ、マルガレーテさん!」
「なに? まだ何かあるの?」
音羽が頷いてすぐにその場を去ろうとしたが、急に改まったように名前を呼ばれて彼女は顔を顰めながら足を止めた。
「えっと、スクールアイドルフェスでのライブ……本当にすごかった! 見たことない色が見えてきて、しばらくその場から動けなくて……」
「そう。それで?」
「なんていうか……とにかくすごいと思ったんだ、マルガレーテさんの歌! 才能もあるだろうけど……それだけじゃ絶対に成り立たないライブだって、そう思った。だから……」
いまいち抽象的で要領を得ない発言だったが、自分の歌を凄いと言いたいのだけは伝わる内容だった。幾許かの逡巡の後に、音羽はその続きを声に出す。
「僕は僕のやり方で、『ラブライブ!』優勝を目指すよ。それが僕の夢。その夢を追いかけた先で……マルガレーテさんを本当の意味で理解したい。綺麗事かもしれないけど……それだけは、伝えておきたくて」
別に理解されたいだなんて思っていないのに、彼と無闇に関わりたくなんてないのに。音羽の真っ直ぐな瞳から目を離せない。
他を寄せ付けない才能を持っているくせに、驕るどころかすぐに萎縮して謝ったり、ナイーブな考えと青臭い理想ばかり語る。けれどその瞳はどこまでも真っ直ぐで、澄んでいて。こんな人間に、今まで出会ったことがない。思わず、マルガレーテの口から笑みが漏れる。
「やっぱり面白いわね、あなた。それだけ大見得切った上で、私を退屈させたりなんてしたら……許さないから。あなたの全力を見せなさい。東音羽」
「うん。僕は全力で、君と向き合うから」
「ふっ……やってみなさい。やれるものならね」
そう言ってマルガレーテは不敵な笑みを浮かべ、薄紫色の長髪を揺らして歩き去っていった。彼女の姿が見えなくなり、音羽はふぅ、と肩の力を抜く。思えばマルガレーテが自宅に来てからずっと気を張り巡らせていたからか、どっと疲れが出てきて少し目が眩む。
暖かな夜風が微かに吹いて、上を向くと夕方まで雲に覆われていた三日月がはっきりと姿を見せていた。音羽の唇が、今見えている月のように弧を描く。
きっと彼女とはまだ友達にはなれない。ライバルと言うのも些か烏滸がましい気がするし、かと言って『敵』でありたくもない。お世辞にも彼女について詳しく分かった訳ではない。
けれど、初めは怖かった彼女がもうあまり怖くない。相手への恐れは、相手を知らないから抱くものだ。その恐れを、音羽は今日なくすことができた。
マルガレーテが音楽に対してとても真摯で、火傷しそうな程の熱い想いを抱いていることを知れたのだから。