夏休みが始まってしばらく経つある日。音羽は自室のベッドに寝そべりながら、先日すみれから渡された御守りを手に持ってゆらゆらと揺らしていた。
すみれに邪気払いという名の監禁を受けて以来、自分の意志で部室に来ている訳ではないことを改めて悟った音羽は、かのん達がいる部室に行くことが後ろめたくなり、一切足を運ばなくなってしまった。すみれの言う通り、自分の意志じゃないなら見学しても意味が無い。ならば行ったとしても自分の身になるものは何1つ存在しない。自分はスクールアイドルになるつもりも、また音楽を始める勇気も持ち合わせていないのだから。
自室で何もしない無意味な時間を過ごしていたその時、自宅の呼び鈴が鳴った。今家には音羽1人しかおらず、父と母は共に仕事で家を出ている。よって、自分が玄関に出るしかない。2回目のチャイムが鳴ったところで音羽はベッドから起き上がり、部屋を出た。友人がいない音羽にとって、家に来るとしたら郵便か配送業者かの2択である。音羽は直近で何かを購入したりした覚えは無い。よって両親のどちらかの荷物を届けに来たのだろうと思い、玄関のドアを開けた。すると、音羽がまったく想像していなかった人物がそこに立っていた。
「ええええっ!? なっ……何で君っ……」
「お、お久しぶり〜
音羽が普段あまり目にすることのない、私服姿のかのんが音羽の自宅に来ていた。あまりに予測不可能な来客に音羽の心臓がドクドクと速く脈打つ。
「あっ……!」
かのんの顔を見た数秒後に、ずっと家に居たが為にマスクと眼鏡を着けていないことに気付き、音羽は恥ずかしそうに顔を抑える。その仕草にかのんは思わず笑みを溢す。
「私には素顔見せてるんだし、恥ずかしがらなくて良くない!?」
「言われてみればそうだった……」
喫茶店に行ったあの時、音羽は自らかのんに素顔を晒け出している。それを思い出した音羽はゆっくり手を顔から離した。
「とりあえず、家に上がろうか」
「お、お邪魔しま〜す……」
不本意ながら音羽はかのんを自宅のリビングに通し、かのんはおそるおそる付いていく。彼女が中へ入ったのを確認した音羽はリビングのドアをパタンと閉め、今までかのんに見せた表情の中で1番の顰めっ面で彼女の方へ近付いていった。
「まさか……家に来るとは思ってなかったよ。というか、何で僕の家が分かったの?
「急に来ちゃって本当にごめんね。こんな方法は良くないって分かってたけど、音羽君に会うにはこの方法しかないって思ったから」
そう言ってかのんはリュックから封筒を取り出し、音羽に差し出した。封筒に書かれている名前、そして入っている手紙の内容に一通り目を通した音羽は、驚きを隠せない様子でかのんに視線を移す。
「君……これは……」
「一応聞くね。音羽君、音楽家の
手紙の内容もそうだが、家にまで来て聞かれた以上、今更嘘を吐く訳にはいかない。
「そうだよ。でもどうして分かったの?」
「確証がある訳じゃなかった。けどあの日音羽君が話してくれた内容と、音羽君の名字。それらを照らし合わせて考えたら、そうなのかなって。だから一か八か、東さんのファンレターの送り先に私の名前と住所、結ヶ丘に通ってることも書いてそこに送った」
その言葉を聞いて音羽は戦慄する。ファンレターを送る。その行動自体に何も問題は無い。だが、女性であるかのんが名前や住所、ましてや通っている高校等、自らの個人情報をその人に明かしたということだ。そんなもの、悪用されてかのんに何らかの被害が出てもおかしくない。それを全て承知の上でかのんは音羽の父親である湊人に手紙を送ったのだ。
「その手紙にね、『音羽君に会いたい』って書いたんだ。そしたらすぐに返事の手紙が送られてきて、封筒にはファンレター宛の住所とは違う住所が書かれてた。だからここが音羽君の家かもって思ったの」
改めて封筒を見直すと、そこに書かれている住所は間違いなく音羽の家の住所だった。湊人がファンレターの送り先に設定しているのは、自分が所属している事務所の所在地の住所だ。故に湊人はかのんの言葉を信じて自宅の住所から送った体でこの返信手紙を送った。そう捉えるのが自然だ。湊人本人が自筆した手紙には、『音羽と仲良くしてほしい』という旨の文章が綴られていた。
「お父さん……」
「音羽君が話してくれなかったら、ここまで辿り着けなかった。ありがとう。あの時私に話してくれて」
「だとしても、女の子が安易に個人情報を明け渡したりなんてしちゃダメだよ。もし違ったらどうするつもりだったの?」
音羽はかのんの無茶な行動に少し苦言を呈する。もし湊人とは違う別の人にかのんの個人情報が渡っていたら、犯罪に巻き込まれていたかもしれない。スクールアイドルであるなら尚更だ。そう思うと音羽はかのんに対して憤りが募る。もっと自分を大切にしてほしい、と。
「その時はその時だよ。仮に何か起きたとしても、音羽君の為にやったことだから……きっと後悔はしなかったよ」
「……して」
「えっ?」
「どうしてっ!?」
音羽はかのんに対し、声を荒げながら問い質す。何故、自分に対してそこまでするのかを。
「分からないよ。君がどうして僕にここまで……こんな僕の為に。……教えてよ。何でっ! 何で僕にそこまでこだわるのっ!?」
「そんなの決まってるよ」
感情を露わにして叫ぶ音羽に、かのんは優しく冷静に答える。
「友達だから」
彼女は一言、堂々と音羽にそう告げた。あまりにも直球なかのんの言葉に、音羽は思わずかのんから目を逸らす。
「友達だから……音羽君と仲良くなりたいし、助けたいとも思う。今日は音羽君に伝えたいことがあって、ここに来たんだよ」
「何……かな?」
音羽は先程よりも声を和らげ、いつもの優しげな口調でかのんにそう聞いた。すると、1つの答えが返ってきた。
「……君の力になりたい!」
「っ!」
声、表情。その全てが音羽の感情を大いに揺らす。かのんの真っ直ぐな言葉に、音羽は再度目を見開いた。
「勇気がないなら私があげる! 音羽君の力に、私はなりたい。だから音羽君にも、私達の力になってほしい!」
「僕が……?」
「音羽君、音楽やってたでしょ? その力を私達に貸してほしいの。君だからこそお願いできるんだよ!」
「……無理だよ。言ったでしょ。音楽を辞めたって。また始めたとしても……」
「音羽君、前に言ってたよね? 『何者にもなれなかった』って」
かのんは音羽が言っていた言葉を思い出しながらそう言った。その言葉を発した際の音羽の悲し気な声音。『何者にもなれなかった』という言葉をあの日以来、かのんなりに考えていた。そうするうちに出せた結論はたった1つ。1つだが、それはとても重要なことであった。
「
「
「だからこれを、音羽君に」
かのんはリュックの中からクリアファイルとCDを出して音羽に渡した。クリアファイルの中には練習メニューと練習日程が書かれた紙が入っている。
「音羽君がその気になったら、これを部室に返しに来て。私、待ってるから」
「これ、練習に必要なものなんじゃ……」
「そうだね。そのCDは今作ってる曲の音源が入ってる。練習メニューもクリアファイルの中。それナシじゃ、もしかしたら練習にならないかも」
「じゃあ僕が受け取る訳にはいかないよっ! これは君が……」
「ダメっ!」
急いでそれらを返そうとする音羽だが、かのんが大きな声で拒絶した。是が非でもここでは受け取らない。かのんの音羽を見るその瞳がそれを物語っていた。
「私は大丈夫だから。皆に怒られるかもしれないけど、なんとかするから。それは音羽君自身の意志で返しに来てほしいの」
「……もし僕が来なかったらどうするの?」
「来なかった時のことは考えない。私は、音羽君を信じてるから!」
かのんの言葉1つ1つが音羽の心にスッと入り込んでくる。『信じてる』。なんて安直で、ありきたりな言葉だ。けれどかのんの言うこの言葉には、万感の想いが込められていた。
「仮に来なかったとしても、音羽君を恨んだりしないよ。絶対に。そうなった時に責任をとる覚悟もできてる」
かのんは優しい表情で音羽の眼を見る。彼女には音羽の存在、素の性格。その全てを受け入れる覚悟、音羽と向き合う覚悟。どちらもできていた。その状態で今かのんは音羽と接しているのだった。
「目の前で苦しんでる音羽君を……友達を助けられないくらいなら、私は歌も……スクールアイドルも辞める」
「え……?」
あまりに突飛なその言動に音羽はさすがに嘘偽りを述べたものだと思ったが、かのんの真剣なその表情から、どうやらそれが本気であることが伺えた。
「ちょっと待って! おかしいよ! 君がそこまでする必要なんてない! 僕の為にそんなこと……」
「おかしくないよ。音羽君がやったことと一緒。音羽君だって、他人の為に自分がやってたものを辞めた。だったら私も、音羽君と同じ覚悟で向き合うって……決めたの」
それが、かのんの答えだった。如何にして音羽と対話を試みようか考え抜いた結果、自らも音羽と同じ思い、覚悟で関わることを決めた。かのんの言葉に嘘偽りは一切存在しない。全ては音羽の為に。結ヶ丘で出会えた同じ痛みを知る者同士、分かり合う為にかのんは真正面から音羽に気持ちを伝えた。
「だから音羽君。私を信じてほしい。私も全力で、君を信じるから」
「信……じる?」
「うん。信じてる。私は絶対、音羽君を裏切ったりなんてしない。あんな辛い思い、もう二度とさせない。約束するよ」
辛い思い。それはあの雨の日。音羽が信じてた筈の人から裏切られたあの日。自分を取り巻く全てに絶望した呪いの日。その過去から脱却する為には、新しい繋がりが必要だとかのん達は考えた。可可も、すみれも、千砂都も。音羽を変えたい、仲良くしたいという気持ちは一緒である。皆がいる前で言葉や態度には出さないが、特にすみれが音羽の身を案じていることにかのんは気が付いた。すみれも音羽の辛そうな顔を見たくないという気持ちはかのんと同様であった。その3人の想いもかのんは全て背負い、音羽に何度も伝える。『信じている』と。
かのんの想いを聞いた音羽はそれ以上何も言葉を発することはなく、無言で手に持っているクリアファイルとCDを見つめる一方だった。その様子を見てかのんは一筋の希望を見出し、リュックを持った。
「……待ってるからね、音羽君。お邪魔しましたっ!」
軽快な足音と共に自宅を出るかのんを、音羽はただじっと見送る。かのんの覚悟を受け取り、自分を信じると初めて面と向かって言われた今日この日。己も他者を、かのんを信じるべきなのか。その答えを、音羽は今日中に出せそうにはなかった。だが音羽は、確実に自分の心が軽くなっていったのを身に沁みて感じ取っていた。