かのんが
かのんから受け取ったクリアファイルとCD。借り物として返そうとしたが可可から『差し上げマス!』と言われそのまま貰い受けたサニーパッションのCDやそれに関する雑誌。すみれから『持っておきなさい』と預けられた神社の御守り。千砂都から『お近付きの印』にと貰ったたこ焼き店の割引券。それらが音羽の手元にあるのは他でもない、彼女達と関わりを持ったからである。
あれだけ他人と関わるのを避けてきたのに。音羽は今こうして4人もの女子生徒と交流している。あの雨の日から『どうせ裏切られるくらいなら友達なんて必要ない』と思っていた筈なのに。あの日の自分の体の冷たさ、雨の匂い、強く握りしめた濡れた楽譜の感触。忘れたいのに、その全てを今でも鮮明に思い出せる。人生で最大の苦痛を感じ、交友関係を持たないと心に強く誓ったのに。何故自分はまた。音羽の脳内が目まぐるしく回る。
かのんから言われた言葉を思い出しながらクリアファイルの中から紙を取り出すと、1番後ろには練習メニューとは違う紙がそこにあった。音羽が彼女らと関わるきっかけになったスクールアイドル勧誘のチラシ。それも一緒に中に入っていた。懐かしさにも似た感情で改めて音羽はそれに目を通す。ファンシーな絵柄と文字で彩られたそのチラシ。それを拾った時にもし自分がチラシを廃棄していたら、こんなことにならなかったのだろうか。などと無意味な考えが脳裏を過ぎるが、それ以上に『このチラシを持っていなかったら、かのん達と出会うことはなかった』という感情の方が大きかった。
お世辞にも望んだ出会いではなかったというのに、その出会いが今、音羽の感情を大きく揺さぶっている。今まで知り得なかった感覚が立て続けにやってきている。それらは間違いなく、彼女達と出会わなければ起こり得ない事柄であった。
そもそもそんな事になった要因の1つとして、『結ヶ丘に入学したから』というのもあった。音羽の家の近郊には他にもいくつか高校がある。特定の高校に行きたいという気持ちは無かったのだが、それでも新設校……それも1期生として自分を入学するように言った父の意図が未だ掴めずにいた。ここに来て思い立ち、音羽は自室から出て
ドアをノックし、音羽は湊人の仕事場でもあるその部屋に入った。中にはいくつもの本やCD、機材が並べられている。湊人が音楽家として歩んできた証拠達が一斉に集ったその部屋で、音羽は父の方へゆっくり近付いた。
「
「お父さん、今大丈夫?」
「ああ。終わらせるべき事はたった今終わらせた。大丈夫だぞ。にしても珍しいな、音羽が私の部屋に来るなんて」
「お父さんに聞きたいことがあるんだ」
真剣な目付きで音羽はそう湊人に告げる。それを聞いた湊人は特に驚く様子もなく、じっと顔の隠れた音羽の顔を見つめた。
「何で、僕に結ヶ丘に行くように言ったの?」
いざ部屋に入って聞くのが怖かったのか、数秒の間があった後にその問いが発せられた。
「音楽を辞めた僕に……何で……?」
「……音羽が自分らしくいられる学校が結ヶ丘だと思ったからだ。あの学校なら、音羽が変われるかもしれないと感じた。単純な理由だ」
自分らしく。その言葉に音羽は眉間に皺を寄せた。『自分らしさ』なんて音楽をやっていた時でも分からなかったのに、音楽を辞めた今の自分にそれを持ち合わせている訳がない。
「僕は音楽を辞めたんだよ。そんな僕に自分らしさなんてあるはずない。僕はこれ以上、お母さんとお父さんに迷惑かけたくなかった。音楽も辞めて、勧められた高校も断ったらって思うと……だから入学することにしたんだよ」
湊人は無言で音羽の言葉を聞いた。自分の父の考えがわからずに痺れを切らした音羽はヤケになったように立て続けに言葉を紡ぐ。
「音楽をやったのだって、自分の意志で決めた訳じゃない。お父さんに言われるがままだった。音楽が好きか嫌いかも分からないのにお父さんみたいな『すごい人』になりたいが為にやってた。でもなれなかった。僕が落ちぶれたら2人の価値を下げるから辞めた。何も残せなかった僕に、何で音楽に力を入れてる結ヶ丘に……」
色んな感情が込み上げてきて言葉が詰まる。今まで聞かされてなかった音羽の気持ちに湊人は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻し、口を開いた。
「すごい人……か。お前は、私をそう思っていたんだな」
「当たり前じゃん。あれだけの功績を残してる、音楽界を代表する人なんだから」
「私が、最初から音楽ができて……すぐに『すごい人』とやらになれたと思うか?」
「どういうこと?」
「今は音羽や皆が言う『すごい人』なのかもしれない。自覚はあまりないがな。だがここだけの話……私に『才能』なんてものは何1つ無かった」
「……え?」
音羽は唖然とした表情で聞き返した。『音楽界の巨匠』とあれ程持て囃されているのだから、才能に恵まれた人だったんだと音羽はずっと思い込んでいた。それが目の前の父の言葉で否定されることになった。
「勉強も運動もそれ程できる訳ではなかったし、これと言った特技も無い。コンプレックスの塊だったよ。けれど私は音楽が好きだった。好きだったから続けられた。まぁ、『好き』という感情だけではどうにもならないことを高校時代に知ったんだけどな」
湊人は懐かしむように、それでいて一種の笑い話のように自分のことを語った。その表情は音羽が今まで見たことがない程に、柔らかな表情だった。
「そこからはもう必死だった。必死に音楽の技術を身に付けた。失敗もたくさんしたし、挫折の数なんて数え切れない。私の人生は失敗の連続だ。叩けばいくらでも埃が出てくる。『形に残る何かを残したい』という気持ちを原動力にして只管に足掻いた。むしろ『すごい人』とは程遠い、『しがない音楽好き』という評価が性に合っている」
普段口数が少ない湊人がここまで自分のことを話す姿に音羽は開いた口が塞がらなかった。しかも聞かされたのは、父には音楽の才能が無く、努力だけでここまでのし上がったという事実。今までの父の功績は才能が導いたものだと勝手に思っていた。だがそうでないとなると、そこに行き着くまでに計り知れない努力があったのだと知り、音羽の肌が粟立った。
「さっきお前は言われるがまま、と言ったな。たしかに結ヶ丘を勧めたのは私だ。だが実際に入学するという決断をしたのは、紛れもない音羽自身の意志だ」
湊人は話題を音羽の問いに戻し、淡々と事実を告げる。湊人はあくまで進路の選択肢を提示しただけに過ぎない。それを選んだのは音羽自身。単純明快である。
「僕の……意志……?」
「音楽を始めたのだって、それはお前自身の意志だ。お前は自分の生き方をちゃんと自分で選んでいるんだ。何を悲嘆することがある。それに……私達は音羽を迷惑だなんて思ったことは1度だって無い。あるはずがないだろう?」
「そんな……だって僕は! 僕はっ……」
湊人の本音についに音羽の瞳が潤む。それでその先の言葉が出てこなかった。『何者にもなれなかった』と、言うつもりだったのに。
「お前は、
湊人も、
「先生から、音羽が私や母さんと引き合いに出されて比べられていたことも聞いていた。お前が音楽を辞めたのは私達の責任だ。気に病む必要などない」
湊人は立ち上がり、下を向いている音羽に近付く。そして、優しく音羽の頭に手を添え、そっと撫でた。
「すまなかった。ずっと辛かったろう、苦しかったろう。無力な父親で……本当にすまない」
「そんなことないっ……僕も、ごめん……お父さんとお母さんの……期待に応えられなくって……ごめんっ……」
ずっと堪えてきた涙が音羽の眼から溢れ出し、その顔を、マスクと眼鏡を濡らす。実の父親から言われた真っ直ぐな言葉。今まで知ることがなかった、両親の想い、葛藤。それらを知り、音羽は幼い子供のように嗚咽する。
「誰かの期待に応える義務なんてどこにもない。お前はお前だ。音羽が信じる道を進めば良い。どんな道でも、私はずっと応援する。……見つかったんだろう? 音羽を真に理解し、信じてくれる人が」
湊人はその人を知っている。先日手紙を送ってきた少女。音羽に会いたい、仲良くなりたい。それに加え音羽を『助けたい』と書いた、その少女を。
「うん……うんっ!」
「ならばその人を信じろ。お前を信じる人を信じろ。そうすればきっと、道は開かれる。音羽の人生だ。周りは関係ない。自分の人生を歩んでいってくれれば、私はそれで満足だ。母さん……詩穂も私と同じ気持ちだよ」
親が優秀であろうと、何か大きな功績を残そうと、それを自分の子供に押し付けることは断じて許されない。だからこそ湊人と詩穂は音羽を信じている。自分らしく、自分の人生を。そして自分を持ったまま、変わってほしいと。
「お父さん……ありがとう」
レンズが濡れた眼鏡を外し、涙を拭って音羽は真っ直ぐに湊人を見据えて礼を言った。その眼は、最近まで湊人が見ていたどこか憂いを帯びた、辛そうなものとは違う、決意に満ちた強い眼だった。
「……行かなきゃ」
一言そう呟き、音羽は急いで湊人の部屋を出て行った。それを見送った後、湊人は視線を自分のデスクに向ける。
「もう、大丈夫そうだな。まったく。面白いことをしてくれるね」
机上に置かれた1通の手紙を手に取り、その内容に改めて目を通した。
「
部屋で1人、湊人はそう呟いて目を閉じる。閉じた湊人の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「……で、私達はいつまで待てばいいのかしら?」
結ヶ丘の屋上で、すみれは退屈そうにかのんに言う。その声音からは些か不機嫌な感情が読み取れる。音羽に必要な物を預けた故に、かのんの言葉通り練習にならない事態に陥っていた。
「
「
「来るよ。音羽君」
「根拠を教えなさい」
「うーん……ない!」
「はぁ!? 何言ってんのよあんた! あいつが来ないと練習にならないのよ!?」
すみれが皆の気持ちを代弁するかのようにそう問う。かのんが音羽を助けたいという気持ちは知っていたし、皆同じ気持ちではあるが、かのんがここまでの事をするとは思っていなかったようだ。だがかのんは異様な落ち着きを見せながら、屋上の入り口を見つめている。
「来る。私が信じた、音羽君なら!」
夏空の下、優しい風が屋上に吹いた。