自室に戻った
外に出た瞬間、真夏の日光が音羽を襲う。一気に体が熱くなるのを感じるが、構わずに走り出す。目的はただ1つ。自分の意志で、かのんから預けられた物達を届ける。もう、止まれない。迷ってはいられない。
「はっ……はっ……」
ただ、走る。彼女の想いに応える為に。気持ちを無下にしない為に。ただ、走る。走り続ける。自分を信じると言ってくれた、
息が苦しい。体が燃えるように熱い。汗が滴り落ちる。あの場所に向かうのに……いや、これからの自分に。もうこれは必要ない。走る中で呼吸を阻害していた口元のソレを剥がし、乱暴にズボンのポケットに突っ込んだ。久方ぶりにマスクに邪魔されずまっすぐ入ってくる街の空気に清々しさを感じ、音羽は走る速度を早めた。必死に走っているうちに、今までの出来事が走馬灯のように音羽の脳内に流れてくる。
『こんなに声が綺麗な男の子、今まで会ったことないよ!』
音羽とかのんの関係の始まり。その言葉を音羽は走りながら思い出す。最初からかのんはそうだった。音羽の声を真っ先に称賛していた。
『私は……音楽で傷付く人を見たくないんだよ……』
自分の過去を話した際に言われた言葉。大粒の涙を流しながらかのんはそう言っていた。彼女は優しい。出会って間もない赤の他人の為に涙を流せるのだから。
『音羽君の中の何かが、変わるかもしれないから!』
スクールアイドル同好会の部室に連れて来られた時。この時から行動が無茶なきらいがあった。いきなり手を引いて部室に案内したのだから。かのんの言葉達がどんどん蘇ってくる。
『君の力になりたい!』
初めて人から言われた、こんなにも真っ直ぐなその言葉。わざわざ家に来てまで言い放った、まるで太陽を想起させるような暖かな言葉。想いも覚悟も、その時に受け取った。
『何者でもないからこそ、これから何にだってなれるんだよ!』
『音羽君と同じ覚悟で向き合うって……決めたの』
『私を信じてほしい。私も全力で、君を信じるから』
心に響く言葉の数々。嘘偽りの無い、直球の想い。それらは間違いなく、音羽の心を軽くしていった。
『これで私達、友達だね!』
あの時見せた屈託の無い笑顔。自分と彼女は、友達であると。『友達』という単語はあまり良いものじゃないと思っていた筈なのに。かのんの言葉にその価値観が変えられることとなった。
『友達だから』
音羽の脳内に響く、その言葉。
『友達だから』
『友達だから』
何度も何度も、その脳内に。その心に。うるさいくらいに響いてくる。
『友達だから』
『友達だから』
遠くにいても近くに感じる。それ程までに強い気持ち。それが凝縮された、たった一言。それが音羽の心を加速させる。
『友達だから』
「……僕はっ!!」
心臓の鼓動が早まる。全速力で走っている為、息は変わらず苦しい。だがその胸の痛みは何故だか、一時の喜びよりも心地が良かった。不意に音羽の背中に風が吹き、目的地へ向かう彼を後押しした。あと少し、もう少し。もうすぐ、彼女達に渡せる。自分を信じて預けてくれた、このクリアファイルを。
結ヶ丘の敷地に入り、通い慣れた道筋を辿る。音羽が向かった場所は、皆がいつも練習しているあの屋上。階段を登ると屋上の戸が開いており、目を凝らすと人影が見えた。グッと左手を握りしめ、物を持つ右手に一層力が入る。辿り着いたその場所で、音羽は声を上げる。
「皆! 遅れ……っ!?」
屋上に入った瞬間に、音羽が僅かな段差に躓き、物凄い勢いで転倒した。地面と体が擦れる痛々しく鈍い音と共に音羽は地に伏した。
「ギャラクシー!?」
あまりに一瞬の出来事に、かのん達は音羽が来て早々目を丸くした。すみれは驚いた時によく口にする単語を大きな声で発し、かのん達と共に急いで音羽に駆け寄った。
「痛っ……」
「お、音羽君!? 大丈夫!? 音羽君!」
「うわぁ……随分派手にいったわね……」
「
「は、はいデス!」
「……待ってっ!」
千砂都の指示で屋上から出ようとする可可を、音羽は皆が今まで聞いたことのない声量で止めた。
「音羽サン……?」
「聞いてほしいんだ。皆に」
その声は普段の小さな声ではなく、音羽本来の喋り声だった。あれだけ派手に転んだ為痛みも相当なものの筈だが、音羽の右手にはスクールアイドル同好会のクリアファイルとCDがまるで吸い付いているかのようにしっかりと持たれていた。音羽は転んでも決してそれを離そうとしなかった。それでも痛みで小刻みに震えている右手を見て、かのんの目に涙が溜まる。
「僕は……今まで自分の意志で物事を決めたことがなかった。言われたことをやって、そこに僕の意志なんてなくて……」
正直に今までの自分のことを話し始める。顔を屋上の地面に埋めたまま、音羽は精一杯声を出す。
「ずっと、嫌だった。こんな自分が。こんな気持ちのまま生きるのが。他人ばかり気にして、音楽はおろか……親に対しても、近くに居る人にさえも目を背けようとしてた。……でももう、逃げたくない」
普段身に付けていた眼鏡やマスクは、他人の目ばかり気にしていた証であった。親のことを言われるのが嫌で、目立ちたくなくて己を隠した。何事にも向き合う勇気も覚悟も持ち合わせていなかった。そんな自分が酷く惨めに思えていた。だが、彼は勇気を受け取った。変わる為の一歩を、歩き始める為の一歩を踏み出す勇気を。
「信じたい」
一点の曇りも無い、自身の正直な気持ちを言葉にした。そして顔を上げ、目の前に居るかのん達を見上げる。
「こんな僕を信じてくれる君達の……力になりたいよっ! 誰に言われた訳でもない! これは……僕自身の意志だ!」
転んだ際に付いた額や頬の傷もお構いなしに、音羽は初めて皆に素顔を晒け出して叫んだ。彼の生き方、道はもう自身で決めた。自分を信じてくれる人を信じる。両親の背中を追いかけ、『すごい人』を目指すのではなく、自分になる為に生きると。音羽は初めて誰かに言われたものではなく、はっきり自分の意志で物事を決める事ができたのだ。
「僕は……君を信じる! 皆を信じる! 僕に、信じさせてほしい!」
かのんだけでなく可可やすみれ、千砂都に視線を向けながら口にした。『信じる』と。音羽の言葉に、かのんの瞳が輝いた。
「だから……だっ……」
かのん達に続きを言おうとしたが、段々と酷くなっていく転んだ際の痛みで言葉が途絶え、顔を歪ませる。その様子を見たかのんはしゃがんで、未だ地面に体を密着させている音羽に手を差し伸べた。
「もう、充分伝わった。音羽君の気持ち。ずっと、君を待ってたよ」
そう言ってかのんは優しく微笑む。他の3人も、嬉しさと若干の呆れが混ざったような笑みを溢す。
「まったく。その結論に至るまでが遅いのよ。遅すぎるったら遅すぎるわ」
「音羽サン、やっとお顔を見せてくれマシタね!」
「
可可と千砂都は心底嬉しそうに素顔の音羽を見る。すみれは音羽から目を離し、後ろを向いて目元を腕で何度も擦った。
「音羽君、あの時の答え……ちゃんと聞かせて?」
「それって……」
「私と……いや、
あの時。かのんから一方的に言われ、お茶を濁すような反応を返した、喫茶店の帰り際。『そうかもしれない』と曖昧な答え方しかできていなかったあの日。その時とは別の答えが、音羽の中で導き出せていた。
「うん。僕と君達は……」
擦り傷だらけの顔を綻ばせながら、音羽は力強くかのんの左手を握った。
「友達だよ!」
彼女達と今まで関わってきた上で出した音羽自身の『答え』を、自信を持ってそう伝えた。優しい風が吹き始めた青空の下、『何者にもなれなかった』少年は、『皆の友達』の東音羽として。彼女達と共にそっと笑った。僅かな笑みではあったが、かのん達にとってはとても眩しいもののように映ったのだった。