第17話 一歩を踏み出す、その先に。
夏休みの終わりが近付いている平日の朝。
自室の机上に置かれているマスクが入っている箱と度の入っていない眼鏡。それらをまだ抜け切れていない癖で手を伸ばしかけるが、ハッと気付きすぐに手を下ろす。自分はあの日から決めたのだ。『もう自分を隠したりしない』と。自分のありのままを理解してくれる人達が居る。だからこれらは着けない。そう固く心に誓ったのだから。
家を出て音羽は結ヶ丘高校に向かう。以前のような猫背気味だった歩き方とは違い、その背筋は正され、足取りもこれまでと比較して幾分か軽い様子だった。
結ヶ丘に到着し、小走りで階段を登る。その先にあるドアの前に立ち、静かに開けた。ドアが僅かに軋む音に気が付き、2人の女子生徒が音羽に視線を向け、にこやかな笑顔を見せた。
「おはよう、
「あ、
「おはよう。
2人から挨拶され、音羽もそれに倣って笑顔で言葉を返す。彼が皆に本音を伝え、晴れてスクールアイドル同好会の見習いから部員になって以来、彼女達に素の性格、本来の喋り声で接することができるようになっていた。互いの呼び方もどこか他人行儀だったものから親しみを込めたあだ名と名前呼びに変わり、本当の意味で同好会に仲間入りを果たした。
『おとちゃん』という呼び名はかのんが考案したもので、元々かのんは名前呼びであったが、『君付けしなくて良い』と音羽に言われた為、皆と同じようにちゃん付けで呼ぶことに。千砂都もそれにインスピレーションを受け、かのんと同じくあだ名で呼ぶようになった。あれから数日経った今、音羽はそれらの呼ばれ方に段々と慣れてきた様子であった。
「おはようございマス! 皆サン!」
音羽が部室に入って数分もしないうちに可可とすみれも中に入ってきた。
「
「音羽! おはようございマス!」
「おはよう。何だか、音羽がここに居ることに違和感なくなってきたわね」
すみれはいつものハンドサインで音羽を指差す。可可達2人とも音羽は良好な関係を築けており、可可は彼を呼び捨てに変わり、すみれは音羽に対しての態度を以前より軟化させ、仲間として彼を受け入れたようだった。
「全員揃ったし、早速今日の練習始めよっか!」
「「「おーっ!」」」
千砂都の号令により今日の練習が開始され、音羽も彼女達と共に屋上に着いていく。音羽の同好会での役割はかのんから言われた通り、皆のサポートを中心に行うことである。今は主に千砂都が音羽に手伝ってほしい内容を教え、その通りに皆をサポートする形をとっている。皆の意見を聞きながら練習メニューを作ったり、ランニングの際のカウント、柔軟体操の補助、かのんの作詞作曲の手伝い等、その仕事は多岐に渡る。それらを音羽は同好会に入部して間もない中、持ち前の吸収力、記憶力で難なく覚え、前より皆の練習が確実にスムーズになっていった。
ダンスの練習が始まり、音羽は安座しながら皆の様子を見る。手元にあるノートを確認しつつ動きが合っているかをチェックし、その都度指摘をするようにかのん達から頼まれている。『どこかおかしかったら遠慮なく言うように』と伝えられてある為、気付いたことがあれば音羽はすぐに言うように心掛けている。ここで、音羽が音楽教室で培われた記憶力と洞察力が活きてくる。
「かのんちゃん、ちょっと遅れ気味だからもっと早くて良いかも!」
「わかった!」
「くぅちゃん、今のステップ左右逆だったよ!」
「は、はいデスぅ!」
「すみれちゃん、タイミングが早めだからもう少し動き合わせてみよう!」
「うそっ……了解、ありがと!」
千砂都はその様子を見ながら安心して自分のダンスを練習している。気付いたことを次々に指摘できる能力は千砂都にまったく引けをとらず、むしろ千砂都を上回っているレベルで人を見る目が頭1つ抜けている。かのんが見込んだ通り、音羽は自分では才能が無いと言いつつも、相応に実力や記憶能力が備わっていることがこの数日で明らかとなった。
数時間経った後、音羽は皆にスポーツドリンクが入ったボトルを配り、休憩を促した。
「はい、かのんちゃん」
「ありがとう。やっぱり凄いね、おとちゃん」
「ん、何が?」
「振り付けをこの短期間で完璧に頭に入れて、気付いたこともちゃんと言えて。ここまで出来るなんて私、思わなかった」
かのんは素直に音羽を褒める。いくら以前音楽をやっていたとはいえ、音羽がこれ程までに優れていたのは想定外の事柄であった。
「音羽のアドバイスはいつも的確で、ククいつも助けられてマス! やはりククの目に狂いはありまセンでシタ……!」
「悔しいけど、認めるしかないわね。あんた、ほんとに凄いわよ。それで何で自分に自信が持てなかったのか疑問だわ」
「あはは……自分でもこんなに早く覚えられるとは思ってなくて……皆の為ならもっともっと、頑張れるよ」
「馴染むのも異常に早かったわよね。憑き物が落ちたみたいに別人になっちゃって」
「うっ……ダメ、かな?」
音羽は不安そうにすみれの顔を見ると、彼女は目線を逸らしながら口を動かす。
「べっ、別にダメとは言ってないでしょ……」
「そんなこと言って、おとちゃんが入部するってなって1番嬉しそうにしてたのすみれちゃんじゃん!」
「なっ!? かのんあんた何言って……」
「ホントに素直じゃありまセンね〜このグソクムシは」
「グソクムシ言うなっ!!」
すみれは頬を赤くしながら反論し、可可ともいつものように言い合いが始まった。実際、音羽が加入することに目に見えて喜びの感情を出していたのはすみれである。かのんが音羽の仲間入りを嬉しく思うのは勿論だが、皆より人一倍優しさが強いすみれは1番に音羽を気に掛けていた。目の前で彼の大きな変化を見届けられた彼女が嬉しく思うのも当然の帰結である。
「これならおとくんにもっと色んなことやってもらえるかも。安心して任せられるよ」
「まだ全部の事が分かる訳じゃないから、しばらく千砂都ちゃんに教えてもらわなくちゃいけないかも。お願いできるかな?」
「もちろん! 私が叩き込んであげるよ!」
「音羽が居るコトで、クク達のスクールアイドル活動がもっともっと良くなっていきマス! 百人力デス!」
「まぁそれは良いことなんだけれど、まずはこの活動を正式に認められなきゃいけないでしょ?」
「そうデシタ……」
すみれの現実的な物言いに可可はしゅんと肩を落とす。まだ正式に部として認められていない以上、活動にも未だ制約がかかっている状況を改めて皆意識することになった。
「2学期が始まったら、葉月さんにもう1度掛け合ってみるよ!」
「……かのんちゃん、スクールアイドルの活動に1番反対してるのは葉月さんなの?」
音羽は念の為、以前ちらっと聞いていたことを再度かのんに問う。
「そうだね。屋上の鍵を渡してくれた時も、理事長から言われて仕方なくって感じに見えたし」
「そう、なんだ……」
音羽は嘗ての幼馴染の顔を思い浮かべながら逡巡を巡らす。自分を出す、向き合うべきものから逃げないと誓った以上、いつかは『恋の為に』と身を引いた現状の関係性と向き合う必要が出てくる。その上で、スクールアイドルという存在を毛嫌いしている恋が、自分がその活動をサポートする役回りになったと伝えたら一体彼女は自分に対してどんな感情を抱くのだろうか。悲しみ、若しくは厭悪。おそらくそのような感情を向けられるのは容易に想像がつく。だからこそ音羽は恋と向き合うことに躊躇いが生じている状態であった。
「……おとちゃん?」
「えっ? な、何? かのんちゃん」
「ボーっとしてたから。何か、あった?」
「い、いや! なんでもないよ!」
「そっか。それなら良かった!」
かのんはそう言いながら音羽に笑いかける。彼女の笑顔に音羽は胸を撫で下ろしながら、これから始まる2学期の学校生活に期待と不安を感じながら、白い雲が広がっている青空を眺めた。