両親が飲んでいるコーヒーの香りが漂う朝。
「そろそろ行くよ」
「
「うん。あれは着けない。自分を隠さないって、決めたからね」
いつもの如く穏やかな口調ではあるが、その瞳には強い決意と意志が見え隠れしている。夏休みの一件から、それらは1度たりとも着けられていなかった。あれだけ自分を隠したがっていた彼がマスクと眼鏡なしで他者と接するようになれたことは、詩穂にも湊人にとっても喜ばしい成長であった。
「……そっか! やっぱり素顔が1番よ! スマイルスマイル! 頑張ってね、音羽!」
詩穂は嬉しそうに音羽を励まし、新聞を読んでいる
「ありがとう! 行ってきます!」
音羽は久方ぶりに2人に笑いかけ、軽快に家を出た。詩穂はそれを見送り、喜びが隠し切れていない笑顔で湊人の前に座った。
「音羽、変われたのね。あの子のあんな笑顔見れたの、いつぶりかしら」
「あいつには信じられる友ができたんだ。同好会も、楽しめているようで何よりだな」
「今度、かのんちゃん達にお礼言わなくちゃね。でもまさか、高校での初めてのお友達が女の子だとは思わなかったけど」
クスクスと笑いながら詩穂は思ったことを口にした。彼女は音羽からスクールアイドル同好会の話は聞かされており、4人の女子生徒と友達になり、仲良くできていると聞かされた時は嬉しさよりも驚愕の感情が強かった。まさか自分の息子にそんなにたくさんの友人が一挙に出来るとは思いもよらないし且つ女性であるならその驚きも倍増すると言えよう。
「そういう学校生活も、悪くないんじゃないか?」
「あぁ、あなたも初めてのお友達が女の子だったらしいから親近感湧いてるの? やっぱり血は争えないのかしらねぇ?」
「……その言葉は私に効くな」
「冗談冗談! ホラ、今は音羽の成長を喜びましょうよ! ねっ?」
「やれやれ……君のそういうところは似なくて良かったと心底思うよ」
「ちょっとぉ! それどういう意味!?」
学生時代の事を詩穂に擦られて拗ねたのか、少々皮肉を交えた言葉を言って彼女を揶揄った。夫婦が息子のことで楽しい話題を話すのもしばらくぶりであり、雀の鳴き声と共に2人の楽しそうな声がしばらく家の中に響いたのだった。
学校に着き、音羽は音楽科の教室に入る。すると、数名の生徒がぎょっとしたような視線を音羽に向け、おそるおそる近付いてきた。
「お、おはよう?」
「その声……もしかして
「イメチェンというより……普通に戻ったといいますか……」
「ビックリした。マスクと眼鏡外したらそんなんなんだ……別人かと思ったよ」
女子生徒のグループが囲うように音羽の周りに立ち、彼の素顔をまじまじと見る。その視線に音羽は顔を赤くしながら頬に手を当てた。以前すみれが音羽の容姿を褒めていたように、男子生徒の中だと彼は一際顔が良い部類に入る。ぱっちりとした瞳に瑞々しい唇。素顔になった音羽にはまさに『眉目秀麗』という言葉が最も相応しい。マスクで隠れていた口元が露わになり、彼の表情が視認できるようになったことで以前のような近寄り難い印象がまったく無くなり、今は端的に表すと『親しみやすそう』という印象に変化しつつあった。
「やっぱり、変なのかなぁ……?」
「いやいやいや! そんなことないよ!? むしろ良すぎというかなんというか……」
音羽に話しかけた女子生徒は手で顔を覆う彼を見てしどろもどろの態度で接する。容姿があまりにもイメージと違ったのか、周りの生徒達が小声で音羽の話をし始める。それを見て余計に頬が熱を帯びるのを感じながら、音羽は静かに椅子に座った。
「一瞬新しく来る生徒だと思ったけど、まさか東君だったとはねぇ……」
「新しく来る……? 転校生?」
もう1人の女子生徒が独り言のようにそう呟き、それを聞いた音羽は彼女に言葉を返す。
「元々入学手続きは終わってたらしいんだけど、留学してる関係で皆より遅れて授業受けることになった人が今日から来るんだって。どんな人なのかは、私もよく知らないんだけどね」
「そうなんだ……だからこの時期なんだね」
納得したように音羽は頷く。夏休み明けの中途半端な時期から来るということに不思議だとは思いつつも、そういうこともあるんだと彼はあっさり飲み込み、朝のHRが始まるのを待った。
しばらくすると担任が教室に入り、2学期最初のSHRが始まった。初めに連絡事項として、結ヶ丘の生徒会が発足することと、音楽科所属であったはずの千砂都が普通科に転科したことが担任の口から告げられた。
HRの時間まで待っても千砂都が来なかったことに音羽は少し心配になっていたが、その真相がすぐに分かって彼は安堵すると同時に、千砂都の意志の強さを改めて感じ取った。何故普通科に転科する決断をしたのか千砂都から聞いた訳ではないのだが、今までの彼女の姿を見ている故に、音羽は何となくだが理由を察することができた。きっと、かのん達の近くで力になる為なのだと。おそらく彼女ならそうするだろうと、音羽の中で不思議と腑に落ちた。
「それとあと1点。今日からこの音楽科で勉強することになった仲間を紹介します。西園寺君、入ってきて大丈夫ですよ」
「はァい」
担任の先生が教室の入り口の方を向いて手招きすると、1人の生徒が間の抜ける返事と共に入ってきた。後ろで結んだベージュ色の長髪と長いまつ毛。一見すると女性のように見えるが、その身長と体格、身に着けている制服の形から、実際の性別は違うものだというのは誰の目から見ても明らかだった。
「どぉ〜もぉ〜! 皆サンごきげんよう! アタシ、
皆に軽く自己紹介した後に、美麗と名乗った生徒はウィンクを見せた。教室内では拍手が飛び交い、新しく来た美麗を歓迎する。間延びした喋り方と女性的な優しい口調をしているが、その声色はまごうことなき男性のモノで、音羽はその生徒を1つの単語を用いて認識した。おそらく彼は、俗に言う『おネエ』であると。
「それじゃ席は……東君の隣がちょうど空いていますね。隣、良いですか? 東君」
「は、はい! どうぞ!」
いきなり名を呼ばれて思わず上ずった声で返事をして、美麗が隣に座すことを許可する。美麗は嬉しそうに笑い、音羽の隣の席へ真っ直ぐに向かった。
「ヨロシクね。東音羽ちゃん?」
「えっ、何で僕の名前を……?」
彼の近くに来るなり美麗は小声で音羽に話しかける。今まで会ったことがない筈の彼に名を呼ばれ、且つ初対面でちゃん付けされて音羽は不思議そうに美麗に問う。
「そりゃあ知ってるわよ。会えて嬉しいわ」
「え、えっと……」
小声でやりとりしている中、一瞬ではあるが美麗は音羽の耳元に顔を近付けて声を発した。
「
「……へ?」
そう言って美麗はすとんと席に着き、担任の話に耳を傾ける。その一方で、美麗から出されたその名を聞いて音羽は目を見開きながら隣に居る彼を凝視する。『ウタ先生』。その名をわざわざ自分に対して言ったということは、彼は間違いなく音羽や彼以外の東家の人間を知っている。もし音羽の推測が正しければ、思い当たるのは唯1人。名を