昼休み。
嘗て、結ヶ丘高校の前身……神宮音楽学校の生徒だった
恋は父親から海外で一緒に住むことを提案されていたのだが彼女はそれを断り、母親が遺した結ヶ丘をこの街で1番の学校にする為、音羽が離れて孤独の身となりながらも1人で学校を背負って行動していた。生徒数を増やさなければ、学校自体を存続させることが不可能。且つ元の神宮音楽学校の敷地を買い取った故に資金不足にも陥っており、何としても生徒数を確保する為に、学園祭を音楽科中心に行うという策を皆から反対意見が出るのを覚悟した上で押し通した。たとえ自分が生徒から反感を買われるとしても、『学校を存続させるにはこうするしかない』。恋はそう判断したのだろう。
音羽にとって初めて聞く事実ばかりだったあの日。恋が彼を見る表情は、まるで会える筈の無い、喪った恋人と思わぬ邂逅を果たしたかのように悲しげで、そしてどこか待ち望んでいたような、複雑な心境が垣間見える表情であった。
音羽が恋に素顔を見せたのが数年ぶりだったのもあり、尚且つ自らが嫌悪の対象としているスクールアイドルの少女達と幼馴染が一緒にいる姿を見て恋が困惑するのも決して無理は無い。対する音羽は恋への罪悪感と、『自分の行いの所為で恋を天涯孤独にしてしまう原因の一端を作り、学園祭を音楽科主導で進めるという無茶な計画を自分が身近に居なかったが故に止められず、まかり通させてしまった』ことへの後悔の念が痛みとなって彼の胸を刺す。自分が如何に愚かな選択と行動をとったのかを自覚し、様々なやるせない気持ちが音羽の心をがんじがらめに縛っていた。
「……はぁ」
「溜息ばっかりついてると幸せが逃げるわよ? さっきから、随分辛気臭い顔してるじゃない」
その様子をついに見兼ねたのか、美麗が音羽に声をかける。彼の声に気付いた音羽は驚いたように肩を震わせ、やっと美麗の方を向いて返答を始める。
「ご、ごめん……美麗さん」
「何かあったんでしょ」
「鋭いなぁ……」
「あれだけ隣で溜息ついてたら誰だって察するわよ」
「僕、そんなに溜息ついてた?」
「ええ。とっても」
「無意識だった……僕の悪い癖だぁ……」
美麗に指摘された音羽は申し訳なさそうに手で自身の口元を隠す。朝から音羽の様子が変だと美麗は最初から分かっており、昼休みになっても溜息が絶えなかった為、心配で声を掛けたのであった。
「何があったの? 音羽ちゃん、アタシに話してごらんなさいな」
「聞いてくれるの?」
「もちろんよ。何当たり前のこと言ってんの」
「じゃあ……あのね──」
美麗が相談に応じてくれると分かった音羽は、かのん達に今まで話したことのない、まだ中学生だったあの時の心境を彼に話し始めた。恋から伏せておくように言われた事柄を避けつつ、慎重に言葉を選びながら美麗に現状の自分や恋のことを伝えたのだった。
「……ナルホドねぇ。音羽ちゃんと葉月ちゃん、やっぱりお友達だったのね」
「えっ、気付いてたの?」
「体育の授業の時とか葉月ちゃん、ずっと音羽ちゃんのこと見てたわよ。むしろ音羽ちゃん、気付いてなかったの?」
「ぜ……全然気付かなかった……」
「フフッ。まだまだ修業が足らないんじゃない?」
一通りの出来事を美麗に話し終えると、彼は納得したように腕を組みながら頷いた。音羽と恋が知り合いなのではないかと、音羽と初めて長い時間言葉を交わしたあの体育の授業以来そう感じていたらしく、音羽の口から恋と幼馴染であったことを聞き、自分の予想が当たっていたのを口角を上げながら嬉しがった。
「それで……どうすれば良いか分からないんだ。僕はこれから、葉月さんに何て声を掛ければ……」
「いくら理由があったとはいえ、いきなり距離を置かれた張本人から話しかけられたらびっくりするんじゃない? 不審に思うかもしれないし」
「だよね……けど、僕は葉月さんの為にそうしたんだよ。まさかあんな事になってただなんて、思いもよらなかったんだよ」
「葉月ちゃんの為、ねぇ……」
美麗は神妙な表情でこめかみに人差し指を当てながら思考する。その中で、ある1つの答えが美麗の中で導き出すことができた。
「ソレ、本当は全然葉月ちゃんの為になってなかったんじゃない?」
「……そうかもしれない」
「かもしれないじゃなくって、実際そうなっちゃってるのよ。現に音羽ちゃんが距離を置いたから独りになって、だから葉月ちゃんがムチャを通したり。為になるどころか、事態は悪化してる一方よ。結果論でしか、ないけどね」
「僕のせいで……僕のせいで葉月さんを1人にした。そもそも、僕が葉月さんの隣に居れば……学園祭の計画を止めて、かのんちゃん達普通科の人達とも一緒に……」
音羽の罪悪感が急激に強まる。嘗ての自分の行動を省み、もしもこうだったら。こうしていれば。後悔の念がどんどん押し寄せるように音羽の心に入り込んでくる。
「僕が葉月さんと離れなければ……こんなことにはならなかったんだ。全部……全部僕がっ……!」
「はいストップ。そこまでよ。今更たらればの話したってしょうがないでしょ? アタシは音羽ちゃんがした事、悪いだなんて一言も言ってないわよ」
「美麗さん……」
音羽が自責の念で髪を掻き毟るのを美麗が止め、彼の行動を咎める気がないことを伝える。音羽が潤んだ瞳で美麗を見ると、普段の飄々とした態度は鳴りを潜めており、真剣な眼差しを彼に対して向けていた。
「その時の選択が正しいとか正しくないとか論じるつもりは無いわ。もっと別のやり方があったのは確かにそうだけれど。でも、2年前の音羽ちゃんはそれが最善だと思ったんでしょ? 葉月ちゃんを想っての事だったのよね?」
「そうだよ。ただ、葉月さんのこれからの未来を守りたくて……」
「じゃあその時の正しい選択をしてたってコト。逆効果になったりとか、為にならなかったりとか、言っちゃえばそんなの後の祭りよ。悔やんだってどうにもならないし、過去が変えられる訳でもないんだから。そうでしょ?」
「そう、だね」
美麗は冷静に音羽の行動に言及し、否定する訳でも、責める訳でもなく。肯定の意を示していた。
「でも、これは覚えておいた方が良いわ。たとえ自分が善意で、誰かの為を思ってやった事だとしても……本人からしたら全然そんなことはなかったり、下手したら悪意に変わることだってあるの。悲しいけど、ザラにあるのよね……こういうこと」
美麗は若干俯きがちにそう言い、音羽はその言葉が真っ直ぐ刺さってくるのを感じ取る。恋のことを考え、胸が痛むのを自分の身体を以て理解した。
「例えばだけど、アタシは見た目とか喋り方で周りから浮いてた。中にはバカにする人だって居た。それを『そんなこと言っちゃダメ。言ったら可哀想でしょ』って止めてくれる子も何人か居たの」
美麗は小学生だった頃に自分が言われた言葉を思い返しながら、音羽に分かりやすく例として自分をモデルに説明を始めた。それに音羽はしっかり耳を傾ける。
「けどそれって実際は、『人と違うこと』を浮き彫りにして、知らず知らずのうちにアタシの肩身を狭くしてるだけだった。純粋な善意や正義感で言ってたその人達が、無意識にアタシを生き辛くしていて……すごく悲しくなったのを覚えてるわ」
「善意が……悪意に……」
音羽は自らが行った事をそれと照らし合わせて思考を巡らせ、恋にした事が結果的に彼女を傷付け、辛い思いをさせていたのかもしれないと気付いた。それに気付いた途端、パンと空の紙パックが持たれている両手が引っ切り無しに震え出す。
「じゃあ……僕がした事も葉月さんを……」
「……傷付けてない、とは言い切れないわね。本人のことは本人にしか分からないから、聞いてみる他ないかも」
美麗が事実を述べると、音羽は俯きながら紙パックをぐしゃりと握りしめる。罪悪感が彼の胸も、心も。ひどく縛り付けていた。その様子を見た美麗は音羽の背中を軽く叩いた。
「ホラ、しっかりしなさいよ。過ぎた事を悔やむんじゃなくて、今をどうするかが1番大事なんだから。話せばきっと、葉月ちゃんと分かり合えるわよ」
「そう……かな」
「見たところ葉月ちゃん、音羽ちゃんのこと嫌ってる訳じゃなさそうだしね。あのコも心の底では話したいって思ってるハズよ?」
「……だと良いなぁ」
「もう! 弱気な音羽ちゃんじゃなくて、いつもみたいな明るい音羽ちゃんでいてよ! ウジウジしてたら、せっかくの可愛いお顔が台無しじゃない!」
美麗はいたずらっ子のような笑顔で音羽を茶化す。その笑顔にあてられたのか、音羽も思わずクスッと笑みを溢した。
「ありがと、美麗さん。元気出た」
「それなら何より。早くパン食べちゃいなさい?」
「あっ……忘れてた! 急がなくちゃ!」
持っているパンが一口も食べ進められていなかったのを思い出し、音羽は急いでパンに齧り付いたのだった。
放課後。音羽は音楽科の生徒から学園祭の準備を手伝うよう何度も声を掛けられるが、いつも通り同好会を理由に断り、小走りで同好会の部室に向かい、着いたところでドアを開けた。
「やっほー。遅れちゃってごめ……」
部室に入って挨拶をするや否や、音羽の目の前にはすみれが立っており、不機嫌そうな顔で音羽に詰め寄る。
「よく来たわねェ音羽。……覚悟はできてるかしら? できてるったら、できてるわよね?」
すみれは持っているガムテープを勢いよく引き伸ばし、脅すように音羽に問いかける。他の3人もすみれの圧に気負されて席から立ち上がらずに小刻みに体を震わせている。
すみれの明らかに怒りを露わにした様子、3人の顔を見た瞬間に音羽は納得した。恐らく『あの事』だろうと。その時は皆、恋の言葉への驚きが勝って言及していなかったが、今となってこのような状況になっているということは即ち、自分に何か言いたいことがあるのだろうと。
音羽がかのん達に『自分が恋と幼馴染であり、親友だった』事実を伝えていなかったのを思い出すのも束の間、すみれに『来なさい』と腕を引っ張られ、音羽はこれから自分が何をされるのかを瞬時に理解したのであった。