外から優しい光が差し、ベランダから小鳥の囀りが聞こえてくる朝。朝食を食べ終えた音羽は学校指定の赤いネクタイを締め、白いブレザーを羽織る。そして、自分自身を隠す為の物である眼鏡とマスクを着用した。
「ねえ
コーヒーが入ったマグカップを両手で持ち、せっせと身支度を済ませる音羽にそう問うたのは、明るめの茶髪を肩まで伸ばし、実年齢と容姿が噛み合わない程の美貌をした女性。彼女の名は
「このままで良い。あんまり目立ちたくないから」
「もう、そんなんじゃ女の子どころか、男の子のお友達もできないわよ?」
「別に……友達が欲しい訳じゃないし」
『できてもどうせ離れていく』。そう言おうとしたが、音羽はすんでのところでその言葉を飲み込んだ。自分にとっての嫌な記憶を思い出しそうになり、同時に母親を不快にさせてしまうと思い、口を動かすのを止めた。詩穂は『友人が欲しくない』と言う音羽を心配そうに見つめるが、それ以上何も口にすることはなかった。
「じゃあ僕、学校行ってくるから」
数秒の沈黙の後、ソファに置いてあるリュックを背負い、足早に家を出ようとする音羽に、詩穂の隣の席に座して新聞を読んでいる父親が、『
硬い動きで音羽は父親の方を向く。ワックスで整えられた茶髪、まるで謹厳実直を絵に描いたような風貌をした男性。名を
「……なに? お父さん」
「……気を付けてな」
湊人は音羽の目を見据えながら一言、そう告げた。元々湊人は口数が少なく、音羽がする事に基本的に口出しはしない。その音羽に対する態度が余計に音羽が両親に対して負い目を感じる要因となっており、無意識のうちに音羽は家族と接することを避けている。自分の子供がそういった態度をとる為、詩穂も湊人も音羽に対する接し方が分からなくなりつつある。
無論、2人は音羽の性格を熟知している。無邪気で優しく、自分らが何も言わなくともしっかり努力を積み重ねていた、
「うん。ありがとう、行ってきます」
自分を気遣ってくれた父に謝意を述べ、音羽は小走りで家を出ていった。玄関から物音が聞こえなくなったのを確認した後、詩穂は小さく溜息をついた。
「音羽、このままで大丈夫かしら……?」
「さあな。私達が心配しても何もならないだろう」
「あなたは音羽のこと、心配じゃないの?」
湊人のドライな物言いに詩穂は口を尖らせる。事実とはいえ、息子に対して余りにも無関心な態度のように感じ、詩穂は強く拳を握った。
「『心配じゃない』と言えば嘘になる。だが……私は音羽を信じるしかない。信じて待つしか、私にはできない」
「あなた……」
読んでいた新聞を閉じ、湊人は淡々と持論を述べた。期待も希望も、今の音羽にはただの重荷でしかない。湊人が最も恐れている事。それは親である自分自身が息子の枷になることであった。
「……無力だな。今まで培ってきた技術、知識。それが何の役にも立たない」
「そうね……私だって本当は何とかしたいわよ。でも音羽はきっと、私達の力を借りたいとは思ってなさそうだし……親で在ることって、こんなに難しいことだったかしらね?」
「ままならぬものだな。……本当に。音羽には先ず、『理解者』が必要なんだ。私達ではなく、同じ目線に立って音羽を理解してくれる……そんな人が、結ヶ丘に居ることを祈ろう」
物憂げな表情でそう言った湊人に、詩穂は静かに頷く。親として、子供に出来ることはただ1つ。『信じ切る』こと。どんなに優れた技術を持っていたとしても、親の立場で出来ることは、ただそれだけであった。
放課後。教室の窓から差したオレンジ色の光で音羽の意識は覚醒した。机上には帰りのHRの前に返却された音楽の小テストがあり、握ったような皺がついていた。
学校が終わっても音羽はすぐに家に帰る気にはならず、なんとなく自分の席から空を眺めたり、他の教室から漏れる部活動の音を聞いたりして時間を潰していた。そうしているうちに睡魔に襲われ、うたた寝してしまっていたようだ。
「……帰ろう」
軽く伸びをした後、机上の小テストの答案を乱暴にリュックに突っ込み、学校を後にした。
結ヶ丘に入学してからも一向に音羽の心は晴れない。毎回の授業中に自分がここに居ていいのかを自問自答する。ただ学校に行き、授業を受ける。そんな当たり前の事に何故こんなに後ろめたい気持ちを味わう必要があるのか。そのむしゃくしゃした感情が、満点である答案用紙を強く握り潰すまでに膨れ上がっていた。
「僕は……」
歩きながら呻くようにそう呟く。分からない。自分はこれから先何をすれば良いのか。何を信じて、何を頑張れば良いのか。不安ばかりが音羽の脳内に募る。情けなくて、惨めで、且つ自分は何もなし得なかった。その事実が更に音羽の心を蝕んでいく。底無し沼のように、音羽の気持ちはどんどん落ちていく。まるで出口の無いトンネルにいるかのような、先がまったく見えない恐怖にも襲われる。
あまりの悔しさ、不甲斐なさに涙が零れ落ちそうになり、俯いた姿勢を正して顔を上げたその瞬間、風にあおられて飛んできた紙が音羽の顔面に張り付いた。思わぬアクシデントに音羽は言葉では形容し難い悲鳴を短く上げた後、すぐにその紙を顔から剥がした。
「なにこれ……『Let's スクールアイドル』、『一緒に始めてみませんか』。……広告?」
チラシに書かれている文字を朗読し、それが『スクールアイドル』の勧誘広告だと音羽は理解した。ちらりと目の前に視線を移すと、地面の至る所に紙が散らばっていた。
「何枚も落ちてる……」
放置しておく訳にもいかず、しゃがみ込んで落ちているチラシを一通り拾い集め、それらを束にして纏めた。スクールアイドルという単語は、名前だけなら音羽でも知っている。文字通り学校内でアイドル活動をする者達の総称。チラシが落ちていた道的に、結ヶ丘高校近辺で誰かが捨てた、もしくは落とした可能性が高い。だが音羽は結ヶ丘でスクールアイドルが発足していると聞いた覚えは無く、神妙な顔で首を傾げる。
この紙束をどうしようかと、音羽は立ち止まって考える。捨ててしまうか、それとも持ち主を探してその人に届けるか。幸い、雨は降っていなかった為チラシは全て無事にその形を保っている。広告を拾ったとて、音羽はスクールアイドルを始める気は毛頭無い。自分はもう、音楽を辞めたのだから。
けれど、音羽は広告に描かれている妙にファンシーな絵柄を見て、このチラシは女性が作った物ではないかという考えに至った。どんな人がこれを作ったのか、音羽には知る由もないが、本気でスクールアイドルに勧誘したいという想いは、絵柄の出来で見て取れた。
「一応、持っておこう」
こんなに良い出来の広告、『不必要』だと廃棄してしまうのはあまりに勿体ない。そう思った音羽は、このチラシを捨てることができなかった。音羽は再度しゃがんでリュックのジッパーを開け、中から無地のクリアファイルを取り出した。そして右手に持っているスクールアイドル募集のチラシを丁寧に収納し、リュックの中にそっと仕舞い込んだ。