曇天が広がり、鈍色の雲が厚く空を覆い隠している秋の一日。その日の授業が終わり、放課になって間もない時間帯。
すみれから自身についてのことを聞かされ、彼女に『友達ではない』と告げられて一夜が経つが、そんな僅かな時間で全てを受け入れられる程の強さを音羽は到底持ち合わせてはいなかった。昨日の言葉を思い返す度に、胸に強い痛みが走る。あの時、屋上に来た恋に『自分は普通じゃないのか』と問い掛けた際に、恋は悲痛な表情で無言を貫いていた。『違う』とも、『その通り』とも言わずに只管に押し黙っていた。彼女のその反応を受け、沈黙は是と判断した彼は、すみれの言っていたことが本当なのだと悟らざるを得なかった。今まで自覚することができなかった、明確に理解しようとはしていなかった自身の力量を自分じゃない他人から教えられ、挙句その力量のせいで大切な友人を傷付けることに繋がってしまっていた。変えようの無いその事実が音羽の心を沈め続けており、彼の表情もまた空の色と同様に曇り続ける一方であった。
音羽が校門から出ようとしたところで、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。躊躇いがちに振り返ると、そこにはかのんと
「おとちゃん、今から可可ちゃんとクレープ屋さんに行くんだけど、おとちゃんも来ない? ちょうどみかんのクレープが新しく出たみたいだから、一緒に食べよう?」
「音羽がマエに『行きたい』とイッテタお店デスよ! 今日は練習もありマセンし、クク達と一緒に行きマショウ!」
可可もかのんと共に音羽を寄り道に誘う。日頃からサポートを懸命に行う音羽に、かのんは少しでも彼がリフレッシュできるように定期的に音羽を遊びに誘い、同じ時間を共に楽しんでいる。かのんが今日音羽を誘ったのもリフレッシュの一環であり、日々の生徒会の仕事やサポート活動の疲れを癒したいが為に、以前彼が『大好き』と言っていたみかんが使われたクレープを一緒に食べようと提案した次第である。音羽はいつもかのんの誘いに快く承諾の返事をするし、今日も『行く』という言葉が返されると予想していたかのんと可可だが、2人の想像とは相反する答えが音羽から返された。
「……ありがとう。誘ってくれて。でも、ごめん。今日は……いいかな」
「えっ?」
想定外の反応にかのんは思わず驚きの声を漏らす。普段通りの優しい口調で丁重に誘いを断り、彼はいつもとは違う所作で口角を上げると同時に目を細める。
「今日は、家に帰りたくて。また……今度ね。かのんちゃん、くぅちゃん」
「あっ……おとちゃんっ!」
『また今度』と口にし、2人に背を向けて歩き出した音羽を引き止めようとかのんは一瞬手を伸ばしかけるが、その腕がすぐに降ろされる。ただ誘いを断られただけなら、何の違和感も持たずにかのん達はそれを受け入れていただろう。だが、今自分達が目にした音羽の態度やその笑顔には普段とは違う気配を纏っていた。どこか取り繕っているような、何か大きなものを抱え込んでいるかのような。そういった漠然とした違和感をかのんは感じ取った。
「おとちゃん……」
「音羽……ナンだかイツモより元気がナイ気がしマス。どうしたんデショウ……?」
2人はいつもと様子が異なる音羽を見て、心配な面持ちで彼の後ろ姿を見つめる。笑った表情を見せてはいたものの、その笑みから漂う憂いをかのん達は見逃さなかった。故に彼を引き止めようとしたのだろうが、そうしてしまうのは野暮だというのも強く感じた。『今は放っておいてほしい』と、言っているかのように。それ以上のことを彼の笑顔は、後ろ姿は、かのん達2人に教えてはくれなかった。
翌日。かのん、
「恋ちゃん、来てたんだ」
「ええ。皆さん、お疲れ様です」
「恋ちゃんもおつかれさま! ……今日も、おとくんは来てない感じ?」
「はい。授業は受けているのですが……私が目を離した時には既に帰っていたようで……」
恋は目線を落としながら、一昨日と同様に部室を不在としている音羽について話す。それを聞いたかのんは念の為スマホのメッセージアプリを確認すると、スクールアイドル部6人のグループチャットに音羽から『気分が優れないから練習お休みするね。ごめん』とメッセージが届いていた。一昨日の時と同じで、今日も事前に休むと皆に連絡を入れているのが彼の真面目な一面が垣間見えるのだが、部活動が無い日を挟んだとはいえ2度も練習を休むということは、一同は音羽に『何かあったのではないか』と思考せざるを得ない。
「生徒会のおシゴトはどうなってるデスか?」
「それが……私が生徒会室に行った頃には、今日済ませておく分の仕事が全て終わらせてあって。恐らく、朝とお昼休みの時間を利用しているのかと」
「おお……やることは全部やってから帰るとこ、おとくんらしいけど……そんな短時間で仕事を終わらせられるなら、体調不良ではないよね……」
スクールアイドル部と生徒会の両立の為、普段は音羽と恋の2人で計画的に仕事を進めており、仕事で長く時間を使うことはあまり無いにせよ、1日に最低でも1時間……長くて2時間程の間、2人は生徒会室に居て作業をすることが多い。だが最近は恋が生徒会室を訪れる頃にはやるべき事は全て終わらせられていて、念の為穴が無いか確認をしてみても、情報の不足や計算間違い等は見受けられなかった。恋が普通科のかのん達よりも先に部室へ来ていたのはその為だ。
2人がかりで作業して最短で1時間を要する仕事量を音羽1人で、且つ放課後の時点で恋が手を加える必要の無い、何の抜けも無い状態で終わらせてあるということはつまり、音羽の体調は万全かそれ以上であった可能性が高い。そこまで徹底して仕事を事前に済ませた上で部室へ寄らずに帰宅するというのは、スクールアイドル部へ足を運びたくない意志の表れとも解釈が出来る。こんな事象は、以前の音羽では絶対に有り得なかったが故に、かのんはより一層音羽の身を案じる気持ちが強まる。
「すみれちゃんも、最近来てないよね」
「そうですね……連絡も無いので、少し心配です……」
すみれも音羽と同じく部室を不在としており、センターを降りることを皆に伝えて以降、部に姿を見せることは無かった。かのんや千砂都は彼女に話し掛けようとしているが、無反応かもしくは睨まれるだけの状態であった。今のすみれは、かのんが初めて彼女と言葉を交わした時のような、近寄り難い空気を纏っていた。音羽とすみれが部室に来なくなったのは同時期の出来事で、今日もこの2人が来ていないとなると、一同は彼等が練習を休む事に何らかの関係があるのではないかという考えに至った。
「やっぱり……おとちゃんもすみれちゃんも、何かあったんだよ。恋ちゃん、おとちゃんから何か聞いたりしてない?」
かのんが音羽と最も近い距離に居る恋に彼について聞いてみる。すると、恋は一瞬辛そうに表情を歪め、膝に置かれている両手を強く握る。
「……先日、音羽くんに聞かれたのです。自分は
「えっ? おとちゃんが……? ど、どうしてっ!?」
「私が屋上でそう聞かれる前に、そこにすみれさんが居ました。私が屋上に来た時には……音羽くんとすみれさんしかその場に居ませんでした。……きっと、すみれさんが音羽くんに話したんだと思います。彼の、特殊技能のことを」
「そんな……すみれちゃんが、何で……?」
かのんが『にわかに信じられない』といった様子でそう呟き、可可と千砂都も予想外の出来事に驚愕を露わにしていた。音羽を『普通ではない』と分からせて傷付けない為に、皆で彼の持つ特殊な才覚のことを内密にしておくと誓った筈なのに。それを破ったのが、普段は音羽に対し少々きつい言葉を言ったり、時折叱ったりもするが、人一倍他者を慮れる人物である筈のすみれだという事実が皆の驚きを加速させる要因であった。
「理由は分かりませんが……音羽くんが自身のことをすみれさんから聞かされたのは事実です。自分が、他者と違う才があるのを知ったのです……」
「ヒミツにスルと決めていたノニ……アノ人は……ッ!」
「落ち着いて可可ちゃん! すみれちゃんが、何の理由もなくおとくんを傷付けるようなこと……言うと思う?」
「ソレは……」
すみれに対して強い怒りを向けそうになった可可を千砂都が宥める。全てではないにしろ、皆はすみれの人間性をある程度は理解している自覚はある。皆が知っているすみれは、どんな理由であれ直接的に相手を傷付けるような言動はしない。時に厳しく思えるような発言も、彼女なりに冷静に分析した上での言葉なので相応に筋が通っており、決して間違ったことは言っていない場合が多い。そんな彼女が、音羽を傷付ける可能性のある選択肢を取るかと問われれば皆首を横に振るのだろうが、そうなると恋が言っていたすみれの行動は、彼女の人間性と照らし合わせると些か不自然だとも言える。
「おとちゃん……大丈夫かな……」
「たとえ音羽くんが『普通』ではないのだとしても、私は側に居続けます。『ずっと一緒』だと、約束しましたから」
「私達は、おとくんを受け入れなくちゃ。おとくんもすみれちゃんも心配だけど……練習始めよう? 地区予選も近くなってきたし」
皆音羽とすみれを心配しているが、このまま何もしない訳にはいかない。幸いにも地区予選の為の曲は完成している為、音羽が不在でまったく練習にならないという事態には陥らなかったのが救いである。
「ソウデスね。クク達だけでも練習を……あっ」
可可が窓に何かが当たる音に気付き、ふと窓の方に視線を向けると、その音が連続して響き、徐々にその勢いが強くなっていく。まさかと思い、一同は急いで屋上に向かってドアを開けると、まるで今から練習を始める自分達を狙いすましたかのように、大粒の雨が降り始めていた。可可がスマホを取り出して天気のアプリを開くと、朝に見た時には終日曇りの予報であった筈が、今は夕方から夜にかけての天候が全て雨の予報に変わっていた。急な雨により、屋上で練習することが不可能となってしまった。
「なんか、不吉だね……」
「急に降ってくるなんて……」
雨水が容赦無く屋上の地面を叩いている様子を目にしながら、千砂都とかのんがそう口にする。練習が出来なくなった為、今日はラブライブ地区予選に向けてのミーティングに活動内容を変更することにした。屋上のドアを閉じても微かに響く雨音を聞きながら、かのんは様々な葛藤が入り混じった混沌とした感情を抱きつつ、強く唇を噛むのだった。
同日の夕方。東家宅にて。仕事が休みであった今日、詩穂は台所でいつもよりも早く夕飯の支度に勤しんでいた。一定のペースを保って野菜を切っており、まな板と包丁が接触する音の他にも外から響く音に耳を傾けつつ詩穂は作業を続けていた。
一通り野菜を切り終わり、台所から見えるリビングの窓に視線を移す。土砂降りと形容して良いくらいの大雨が降っており、窓から伝う雨水を見ながら、詩穂は1つ溜息を溢した。
「それにしても、嫌な雨ねぇ……」
詩穂にとって、雨の日は不吉な事を象徴する天気であった。実家から独りで上京した時も、当時住んでいた家の鍵を失くした時も、歌手のオーディションに落ちた時も。良くない事が起こった日には毎度雨が降っていた。結婚して子供が産まれた後も、それは変わらなかった。とある日、夜遅くに音羽がずぶ濡れで帰ってきた時も、今日のような酷い雨だった。
けれど、最近になって雨の日でも良い事はあった。今日から1ヶ月と少し前、音羽の友人である金色の長髪をした少女が大雨の中、音羽の忘れ物を届けに来てくれたのだ。夜の時間帯であるのに、彼女はそれが無ければ音羽が困ることを知っていたが故に態々家まで忘れ物を届けに来た。自分の子供に、そんなにも心優しい友人が出来たことを詩穂は心の底から嬉しく思った。彼女と音羽は変わらず、仲良くしているのだろう。そう思った詩穂は上機嫌で鼻歌を奏でながら夕飯の支度に戻ろうとした矢先に、玄関から物音が聞こえた。数秒の後にリビングのドアが開き、帰ってきたであろう息子に明るく声を掛けた。
「あっ。音羽! おかえりー! って、音羽……?」
帰ってきたのは詩穂の予想に違わず、音羽本人だった。だが、詩穂の目から見ても明らかに様子がおかしかった。結ヶ丘の制服を雨水で濡らし、髪からはとめどなく雫が伝っている。詩穂に声を掛けられた音羽はゆっくりと彼女の方へ首を動かす。
彼の目は、中学生の頃にずぶ濡れで帰ってきた時と、『何もかもどうでもいい』と口にしたあの日と……まったく同じ目をしていた。