雨の日だった。晴れ続きで熱を帯びたアスファルトを冷やし、幾つもの水溜りを生んでいたとある大雨の夜。インターホンが鳴り、
「あら、あなたは……?」
「夜分遅くにすみません。……はじめまして。
その派手な髪色からは想像出来ない程の落ち着いた声音、そして丁寧な敬語を彼女は詩穂に向かって発した。自分の息子と同じ部に所属している、且つ『すみれ』と名乗ったことで、音羽が時折話題に出すことのある人物、即ち音羽の友人なのだと理解するに至った。
「あぁ、音羽のお友達ね! いつも音羽がお世話になってます!」
「いいえ、こちらこそいつもお世話になっております。……それで、音羽君は今どちらに?」
「音羽、今ちょうどお風呂に入ってて……ごめんなさい、せっかく来てもらったのに……」
詩穂は申し訳なさそうに今音羽が入浴中だということを伝える。すると、すみれは納得した様子で頷き、左手の小袋を詩穂に差し出した。
「そうですか。であれば、これを音羽君に渡してもらえないでしょうか? 部室にペンケースを忘れて帰っていたので、届けに来たんです」
「えっ? もしかして、これを届けにお家まで来てくれたの?」
「はい。家の場所は以前音羽君からお聞きしていましたし、表札もあったのですぐに分かりました」
「たしか、すみれちゃんのお家は神社だって音羽から聞いてたけど……そこからけっこう距離あったでしょ?」
「大体、歩いて30分程で着きましたね」
詩穂の問いに淡々と言葉を返すすみれ。彼女の言葉に詩穂は内心驚かざるを得なかった。この大雨の中、夜の時間帯に女性が1人で、彼女の実家から距離があるこの東家宅に30分も掛けて足を運んで忘れ物を届けに来た。いくら友人とはいえ夜に、しかも悪天候な中で忘れ物を届けに外出するというのは日頃から優しい人物だとしても躊躇いが生じる事である筈なのに。女性であれば尚更、雨の日に1人で出歩く選択肢を取ることは憚られる。かくいう詩穂も、すみれとまったく同じ状況下なら熟考の末に忘れ物を届ける選択をするのだろうが、些か面倒な気持ちも表情に現れているだろう。けれどすみれはそんな気配は一切無く、あたかも『当然』といった表情をしていた。
「そうなの……わざわざありがとうねぇ。音羽、ちょっと抜けてるところがあるから……ごめんね?」
「い、いえっ! 謝る程のことではありません! これが無ければ、音羽君が困ることは目に見えていたので……失礼ながら家を訪ねさせてもらいました。突然来てしまい、すみませんでした」
そう言ってすみれは詩穂に頭を下げる。すみれは本来音羽の自宅を訪れた来客で、忘れ物を届けに来たという親切をしたというのに、詩穂に対して終始腰を低くした立ち居振る舞いであった。今は引退しているとはいえ、現役時代は『白い歌姫』の異名を持つ大人気歌手で、ステージ上で燦然と輝いていた姿をすみれは幼い頃に目にしたこともある。故にこそ失礼の無い振る舞いをしているのだろうが、今そういった態度を見せるのは、『音羽の母親だから』というのが最もな要因であろう。その礼儀正しさから、詩穂はすみれにすぐに好印象を抱いたのだが、何よりも息子である音羽を気遣ってくれたことに嬉しさを強く感じた。彼女は、正真正銘音羽の友人であると。信頼している仲間なのだと。
「すみれちゃんが謝ることじゃないわよ! 音羽を気遣ってくれて、本当にありがとう。ペンケース、渡しておくわね!」
「そうしていただけると助かります。では、私はこれで。お邪魔しました」
詩穂に会釈した後、すみれは玄関から出ようと後ろを向く。彼女の様子を見て、詩穂は頭の中で自身の思うことを言うべきか言わないべきかを考える。もしかしたら、悪い印象を抱かれるかもしれない。けれど、すみれが音羽の友人なら、自身が直接伝えるべきだと詩穂はそう判断した。
「……あ、あのっ!」
「はい? どうか、しましたか?」
後ろから呼び止められ、すみれは振り返って詩穂の顔を見つめた。
「すみれちゃんに……お願いしたいことがあるの。良いかしら?」
「……? なんでしょう?」
すみれに内容を問われ、詩穂は一瞬口を噤むが、音羽の母親として、勇気を出してすみれにとある1つの頼み事を伝えようと口を動かす。
「……音羽を、嫌わないであげてほしいの」
「えっ……?」
詩穂の言葉にすみれは思わず疑問の声を漏らす。驚かれるのも無理は無い。予想通りの反応だ。それでも、詩穂は音羽の為に家まで足を運んできてくれたすみれに伝える決意を固める。
「あの子、前まで仲良いお友達が居なくて。居るとしたら、恋ちゃんくらいかしら。最初は仲が良くても、時間が経つといつのまにか離れていっちゃう。……きっと、『
自分達が持つ、『東』という姓。メディアに取り上げられる事もある、あまりにも大きなその名。世間でのイメージや自分達の功績が相まって、否が応にも息子である音羽にも東家の名が纏わりつく。故に周囲から反感を買うことも珍しい話ではなく、音羽と関わった人達も初めは普通に接するものの、時間が経てば何も言わずに離れていく者が大半であった。音羽と物心つく前から交流のあった幼馴染の恋を除けば、友人と呼べる存在は極めて少なく、音羽が仲が良いと思い込んでいた人物も、蓋を開けば彼のことを友人と思っていない等といったこともあった。
だが、今は違う。音羽には、親友の恋も含めて5人の大切な友人ができた。音羽から毎日楽しそうに彼女達の話を聞かされ、詩穂や湊人は嬉しく思っている反面、その大切な繋がりが消えてしまう事を恐れていた。大切だと思えば思う程、繋がりが失われた際の痛みは大きくなる。詩穂と湊人は嘗て音楽教室の担任から、音羽が音楽を辞める事に起因した出来事だと思われる話を聞いている。『根も葉も無い噂を流され、陰で音羽に酷いことを言っていた生徒が複数名居た』、と。過去にあった出来事と同じ事が現状起きたとしたら。もし、最も大切にしている友人達から嫌われるような事があるとしたら。間違いなく音羽の心は決壊してしまう。親だからこそ、子供を想うからこそ危惧するのだ。またあの時と同じ痛みを、息子に味わってほしくないのだから。
「色々、すみれちゃんや他の子達にも迷惑掛けちゃうと思うけど……お願い。あの子を……嫌いにならないでほしいっ……」
そう言って詩穂はすみれに深々と頭を下げた。余計なお節介かもしれない。厚かましいかもしれない。けれど、どうしても言わざるを得なかった。自分はすみれからどう思われても構わない。嫌われようと、迷惑だと思われようと。音羽が大切な友人と一緒に平穏で居られるのなら。そんな思いで、詩穂はすみれに自身の心を打ち明けた。詩穂の言いたいことを理解したすみれは、そっと彼女に話しかけた。
「顔を上げてください。お母様」
「すみれちゃん……」
「私は、音羽君……いえ、
詩穂がゆっくりと顔を上げた後に見たすみれの表情には、一点の曇りも存在していなかった。
「音羽は、私の大切な友達です。嫌うだなんて、あり得ません。スクールアイドル部の皆にとっても、音羽は大切な仲間なんです。心配なさらないでください。私含め、皆音羽を大事に思っていますから」
よそ行きの呼び名ではなく、普段から呼んでいる名で音羽のことを詩穂に話す。すみれの言葉は、本当に彼を信頼していなければ出てこないものだった。彼女の声音と表情から、本心からの言葉なのだと詩穂はそう感じた。
「ごめんね。私ったら、つい……」
「大丈夫です。……ですが、もし仮にお母様の言うように、音羽を嫌いになることがあるのだとしたら……」
すみれにとっては現状在りもしない幻想、有り得ない妄想だ。詩穂の言葉通りに音羽を嫌いになるという事は、まず起こり得ない。彼はとても嫌えるような人間性などしていない。彼の性格や素の性格を知っていてまで嫌おうと思えるような人が、すみれは居る筈が無いと思っている。故にもしも、自分が彼を嫌うようになったのだとしたら、どんな感情を抱くかは目に見えて理解が出来た。
「その時はきっと、自分自身も嫌いになります。そんな感情を抱いてしまった自分に、嫌気が差すと思います」
僅かな笑みを見せながら、はっきりとすみれは詩穂にそう言ってみせたのだった。
降り注ぐ雨は未だ止む気配が無く、外から雨音が響く東家のリビング。そこに在るソファに、部屋着に着替えた音羽が下を向いて座っていた。
あの時のようにずぶ濡れで帰ってきた音羽を目にした詩穂は彼にすぐに入浴を促し、音羽はすんなり母の言うことを聞いて濡れた制服を脱いですぐに風呂場へと向かっていった。数十分後に居間に姿を現し、それからずっと音羽は俯いたままソファに腰掛けていた。見るからに傷ましい様子の音羽に、詩穂は何も声を掛けない訳にはいかず、エプロンを外した後に彼女は音羽の左隣に座った。
「……音羽」
一言、息子の名を呼ぶ。だが、俯いたままで返答は無い。彼の表情は、辛そうだった。誰が見ても分かるくらいに、悲しい目をしていた。詩穂は少しでも音羽の力になれるように、励ましてあげられるように。そっと彼の肩を抱き寄せた。
「えっ……ちょっと。お母さん?」
「久しくこうしてなかったから、良いでしょ? たまには、お母さんらしいことさせてよ」
久方ぶりに詩穂と体が密着した音羽は困惑した様子で詩穂の方を見る。最近はこうして母に抱き寄せられる事など無かった為に、恥ずかしそうにすぐ視線を逸らしてしまう。そんな音羽に構わず、詩穂は優しく話しかける。
「何か、あったのよね?」
「……そう、だね。あった」
「一体何があったの? 最近、ずっと元気ないわよね?」
詩穂にそう言われ、音羽は否定することが出来なかった。母に嘘は通じないし、誤魔化そうとしてもすぐに見破られるのが目に見えている。この状況で、詩穂を振り払って自室に籠ろうとするのは簡単だ。だが、そうすればきっと詩穂を悲しませる。話を聞く姿勢を見せてくれた母に対して失礼に値する。言ってどうにかなるのならこんなに悩むことだってありはしないのだが、音羽は現状までに起きた出来事を詩穂に話してみることを決めた。
「……すみれちゃんから言われたんだ。僕は、『普通じゃない』って。普通じゃない僕に……すみれちゃんの何がわかるんだ、って」
「……それで?」
「僕を見てると、自分が惨めになってくるって。僕とすみれちゃんは……『友達じゃない』って。そう、言われた……」
言葉にする度、脳内ですみれの声が響く。あの時のすみれの表情、声が頭から離れずに焼き付いている。寝る前にも、その言葉達が脳裏を過る程に鮮明に。すみれから普通じゃないと言われたことで、皮肉にも中学生の頃に
「……いっそ、僕が普通だったら良かったんだ。普通でいれば、すみれちゃんを傷付けなかった。僕がすみれちゃんと同じだったら、友達でいられたかもしれないのに。僕が……僕が普通じゃないから、ダメなんだ……」
そう言って音羽は両手で顔全体を覆い隠す。こうなったのは、自分が周りと違ったから。『共感覚』や『絶対音感』など持っていなければ、すみれを傷付けることもなく、互いに友達だと思い合えた筈なのだと音羽はそう思っていた。声を震わせながら語られた直近の出来事に詩穂は胸が痛むと同時に、その中で喜ばしい感情が生まれ落ちていた。
「辛かったわよね。すみれちゃんから、そう言われて。……でも、私はなんだか、嬉しい」
「……どうして? どうしてそう思うの……?」
自分にとっては心苦しいという気持ちしか無いこれらの出来事を『嬉しい』と言われ、音羽は普段見せないような怪訝な表情を詩穂に見せる。息子のその表情を見ても、詩穂は笑みを絶やしていなかった。
「だって……音羽がお友達のことで、こうして悩めるようになったんだもの。前の音羽なら、絶対考えられなかった」
「それは……ある、かも?」
「でしょ? 悩むってことは、それだけ相手のことを真剣に考えてる証拠よ。そんな風に思える人が身近に居るようになって、私も、お父さんも。すっごく嬉しいのよ?」
今まで良い友人に恵まれなかった音羽が、結ヶ丘に入学したことで信じられる仲間が出来た。その人達と共に笑い、苦楽を共にし、時に悩む。そんなにも親密な関係でいられる友が、音羽の周囲にたくさん存在するようになった。その事実が、詩穂にとっても湊人にとっても幸福と呼べるものであった。
「お母さんもお父さんも、知ってたの? 僕が普通じゃないって。人には無いものがある、って」
「んー……普段の様子見てたら、なんとなくね。でも、音羽が普通だろうと普通じゃなかろうと……
「お母さん……」
普段から音羽は、聴こえる音を色として表したり、音階として認識することがあった。自分達には無いその感性は、他の誰よりも特別だと思った。誇りだった。自分達が微塵も持ち合わせていなかった才能を、息子である音羽は開花させた。それは喜ばしいことなのだろうが、そのこと以上に詩穂と湊人は音羽が自分らしくいられることを強く望んだ。誰かの真似事ではなく自分自身で道を選び、自分の意志を強く持って生きていてほしいというのが、1番の願いだった。
「一番大事なのは……音羽が他の誰でもなく、自分らしくいられること。酷かもしれないけど、音羽は絶対にすみれちゃんにはなれない。すみれちゃんだって、音羽にはなれないの。すみれちゃんはすみれちゃんで、音羽は音羽。それは……何をどうしたって変えられないの」
「っ……」
「だから、『普通だったら良かった』とか、『すみれちゃんと同じなら』とか、言っちゃダメよ? それは自分にも、すみれちゃんに対しても失礼になるから。むしろ、今まで頑張った自分を褒めてあげないと! 今までの頑張りがあったから、今日の音羽があるのよ?」
詩穂からそう言われ、音羽は自分の言葉を省みる。自身が普通だったら、すみれを傷付けることは無かったと彼は言った。だがそれはすみれにとってはこの上無い屈辱で、侮辱とも言える発言でもある。『普通になりたい』と願うのではなく、自身の努力を肯定してほしいと詩穂は音羽に伝える。詩穂も今までそうしてきた。芸能界で生きていく上で、自分を味方してくれるのは最終的に自分しかいない。自分自身を信じられなければ、一体誰が自分の味方をしてくれるのか。詩穂は下積み時代に幾度となくそう思ってきた。故に自分だけは、自分の味方でいなくては。誰よりも自分で自分を好きにならなければ。そう心に刻んで生き続けてきた。自分で自分の努力を否定する息子を、彼女は見たくないのだ。
「自分を……褒める……?」
「そう。いっぱい努力したから、普通じゃないくらいの技術が身に付いたのよ? それは素直に誇るべきこと。誰にも奪えない、音羽だけが持つ大切な技術なの。今までの努力を、否定しちゃダメ。私が悲しくなっちゃうわ」
「ご、ごめん……お母さん。そんなつもりじゃ……」
「ううん。わかってるわ。音羽は人一倍優しいから、そう思ったんだってわかるもの。すみれちゃんを傷付けたくなかったのも、そんなつもりはなかったのも。大丈夫。全部、わかってるから」
音羽の肩に回している手の力を強めながら、詩穂は彼にそう言った。音羽の優しさも、他人想いなところも母親である彼女は誰よりも知っている。すみれを傷付けてしまった事も彼の本意ではなかったこともすぐに分かった。息子の今の気持ちを理解することが、親として詩穂が出来る最大限の向き合い方なのだ。
音羽と詩穂が言葉を交わしているうちに、玄関から音が聞こえる。数秒の後にリビングのドアが開き、スーツに黒いレインコートを羽織った
「ただいま。……珍しいな、2人でそうしているなんて」
「あなた、おかえり! ねぇねぇ、あなたもこっち来てよ! 久しぶりに家族皆で抱き合いましょ?」
湊人が帰ってきて早々に詩穂がそのように提案し、彼は思わず苦笑いを溢す。
「いや、えっと……今じゃなきゃ駄目かな?」
「そうに決まってるでしょ! ほら、早く早く!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。手洗いとコートを脱いでくるから……」
詩穂に急かされ、湊人は慌てて洗面所へ小走りで向かい、手を洗った後に自室へコートを置いてきてから再度リビングへ足を運んだ。そして湊人は促されるまま音羽の隣に座り、優しく音羽の肩をそっと抱いた。湊人が着ているスーツから香る甘く、優しい匂いが音羽の鼻腔を擽った。
「……一体どういう状況だ、これは……」
「音羽がね、自分が普通じゃないってお友達から聞いたの。特別な才能があるって……わかったの」
「……! そうか。音羽、今まで伝えられずにすまない。伝えるべきか迷ったが、それを音羽にとっての重荷にさせたくなかったんだ……」
「違うよ、お父さんが謝ることじゃない。すみれちゃんに言われるまで気付けなかった僕が悪いから……」
湊人の謝罪を聞いて音羽はすぐに湊人が謝る必要が無いことを伝え、視線を落とす。それを見た湊人は今の音羽の心を晴らす為の言葉を脳内で考える。自身の才能のことで悩んでいるのは分かる為、音羽の最大限のフォローになれるような言い回しを浮かべる。
「僕の才能のせいで、すみれちゃんを傷付けたんだ。そんな僕なんかに、才能があって良いのかな……僕がそれを持ってると、また誰かを傷付けるかもしれない。それが……怖い」
自分の才能のせいで他の誰かが傷付く可能性がある以上、音羽は自身の持つ才能を素直に誇ろうとは思えなかった。どうせなら、無くたって構わないとも思える。それで、大切な仲間を傷付けることが無いのなら。『才能』。湊人が幾度となく聞き続けた言葉。『東家の人間のくせに、何故持ち得ないのか』と親族の集まりに来る際にうんざりする程に聞いた言葉。その単語に、今回は息子までもが縛られそうになっている。勿論、湊人はそれを良しとする筈が無かった。決めたのだ。息子に自分と同じ苦しみを味わわせないと。ならば、とるべき行動はただ1つ。
「才能、か。私も、それに何度も悩まされた。何故自分にはそれが無いのか、それが有って何になるのか。才能が無ければ、高みを目指すのも許されないのか。考えれば考えるほど、うんざりすることばかりだった」
「お父さん……」
「……でも、長い期間それを考えるうちに、私なりに答えを出せた。これはあくまで私の持論だが……才能とは、その全てが天から与えられるものではない。運命で決められているものでもない。どんなに辛く、苦しくても……諦めずに努力し続ける事を『才能』と言うのだと、私はそう思う」
「……!」
湊人の言葉に、音羽は息を呑んだ。形に残るものを生み出す為に足掻き、もがき、泥濘みを飲み続け、才能が無くとも長年諦めずに努力を続けた湊人だからこそ言える、説得力に溢れた言葉だった。湊人の持論に、詩穂は何度も首を縦に振って頷いた。
「才能が全て天から授かるもの、最初から運命で決まっているものだとしたら……間違いなく私達は地を這いつくばるだけだった。誰にも注目されず、辛酸を舐めるだけの生涯だっただろうな。そうだろう? 詩穂」
「そうねぇ。少なくとも私達は、色々頑張ったからあんな風になれた。音羽もそれと一緒。諦めずに頑張り続けたから、『才能』を持てたのよ」
「……うん」
2人の言い分に音羽は耳を傾け、納得したように小さく頷きを返す。音羽を見つめながら、湊人は微笑みを浮かべる。
「その才能を、皆の為に使えば良い。傷付けることに怯えるのではなく、傷付けさせない為にやれることを探すんだ。今の音羽ならそれができる。自分の能力を、才能を信じろ。信じて、誇れ。お前は、私達と違って……なんだってできる子なんだからな」
「そうそう。大丈夫よ。誰がなんて言っても、音羽は音羽なの。誰よりも優しくて、誰よりも頑張れて、誰よりも他人の為を想える。そんな音羽が……私は大好きよ。音羽は音羽らしくいればそれで良いのよ。皆、わかってくれるだろうから」
「お父さん……お母さん……」
両親の激励に音羽の目頭が熱くなる。親であるなら、自分の子供を肯定するのは当然だ。もう二度と、自分達のように才能で苦しむ人を見たくない。それが自分達の愛する息子なら尚更。息子を理解し、肯定する。その上で前へ進めるように背中を押す。その為に家族が、親が居るのだから。
「……ありがとう」
「良いのよ。これくらい。……あっ。音羽。まだ大事なこと、してないんじゃない?」
「大事なこと?」
詩穂が口にした『大事なこと』の意味が分からず、音羽は首を傾げる。その大事なこととは、詩穂も湊人も何度もしてきた事である。
「細かいことは置いといて、まず……泣こう? 苦しい時や辛い時は、言いたいこと全部吐き出して、泣くの。私達もずーっとそうしてきたからね」
「……すみれちゃんを傷付けた僕に、泣く資格なんてないよ。だから……我慢してた」
「なーに言ってるの! 泣くことに資格も何も無いわよ! 辛いなら『辛い』って、痛いなら『痛い』って言えば良いの。それで……泣きたい時は、いくらでも泣いて良いのよ。誰にも、それを咎める権利なんて無い。私が、全部受け止めるから」
「……っ!」
詩穂の暖かな言葉に、音羽の視界が徐々に揺らいでいく。ぼやけて、辺りが見えづらくなっていく。そうして、あの日の言葉がフラッシュバックしていく。
『あんたなんかが……わかったようなクチ利いてんじゃないわよ』
「うっ……」
『あんたを見てると、こっちが惨めになってくんのよ!!』
「うっ……ううっ……」
『私、あんたを『友達』だって思ったこと、1回もないから』
「ぐっ……くっ……うっ……」
歯を食いしばっても、唇を噛んでも。目からとめどなく熱いものが流れる。
『人とは違うモノを持ってるあんたにっ……! 私の何がわかるって言うのよぉッ!!』
「う……ううっ……」
『あんたは、何もわかってない。……あんたに、わかってほしくもないわ』
すみれの言葉と、自分に向けられた冷たく、刺すような視線。それらが思い出されたその瞬間、嗚咽を堪えきれなくなった。湊人は静かにソファから立ち上がり、音羽の頭に手を乗せた後、リビングを後にした。詩穂と音羽しか居なくなったリビングで彼は母にしがみつくように抱き付き、溢れ出る感情の本流に身を任せた。
「うっ……あああっ……ああああああっ……」
堰を切ったようにどんどん涙が溢れてくる。それは、自分の意志ではもう止めることなどできやしない。詩穂も決してそれを止めようとはせずに、音羽の体を目一杯抱きしめた。
「つらいよぉっ……くるしいよぉっ……すみれちゃんをっ……きずつけたく……なかったよぉっ……!」
「よしよし。大丈夫。大丈夫だから」
「ともだちだと……おもってたのにっ……たいせつなひとって……ずっとおもってたのに……っ! ぼくだけだったのかなぁっ……」
泣きじゃくりながら音羽は心の中にしまい込んでいたすみれへの気持ちを言葉にする。言葉に表す度に、とめどなく涙が頬を伝う。
「……いやだよ……ともだちでいたいよっ! すみれちゃんと……ともだちで……いたいよぉっ!」
「……うん。お友達でいたいわよね。せっかくできた、大切な人だもんね」
「ぼくは……ぼくはっ……すみれちゃんにとってなんだったのかなぁっ……? うっ。ううっ……うわあああああああっ……」
音羽は肩を震わせながら幼い子供のように号泣し、詩穂は目に涙を浮かべて音羽の気持ちを受け止めていた。降り続く雨の中、音羽もまた涙の雨を止めずに咽び泣いた。声を上げて泣くなど、情けないことだと彼は分かっている。分かっていても、堪えきれなかった。大切だと思っていたのに。かけがえの無い仲間だと思っていた人物から言われた言葉に、耐える事など到底不可能であった。
2人だけのリビングに、音羽の悲痛な泣き声だけが響き渡っていった。